淡家朴『知性とは何か』(2019)
知性とは何か、まず考える。
それは一定の範囲内を正確に記憶する能力だろうか。
また、
一定の時間内に、その記憶を引き出して、的確に出力する能力だろうか。
そういった、インプットとアウトプットの内容から、一定の範囲内を、一定の時間内に、正確に記憶出来ているということが示されれば、そのことを人間は評価されるべき「質」とみなすのだろうか。そして、その創造された「質」という価値判断の基準に従って、有能か無能かというレッテルを貼っているのだろうか。
それは、愚かである。
と、誰もが言いたがらないのは、それをできなかった者の言い訳のように聞こえるからなのだろうか。
知性とは、何か。
「バカばっかなのだろうと思って、蓋を開けてみたら、やっぱバカばっかだった」という経験を思い出してみる。
ここでいうバカというのは、物事の本質に従わない人々を指す。
こういうことはよくある。
しかし、私は、多数派の趨勢に負けてしまう。
例えば私一人が、その本質に気がついていると思い込んでいるだけで、その私が本質とみなした何らかを内包した上で、人々の意見が存在しているのではないか、と、つい弱気になる癖がある。
私は、マトリックスの主人公にはなれないのだ。
「間違えた人々の意識を、どうにかして変えなければ」という気概が起こらない。
私がこの世から居なくなれば良い。
と思ってしまう。逃げることで解決することの方が、これまでの経験で多かったという記憶の堆積が、私をこのような思考に落ち着かせるのだろう。
そして、実際に実力も無い。ここでいう実力とは、冒頭で述べたような、インプット、アウトプットの質において、私は極めて劣った人間であると思っている。このように、文章を書く能力に乏しければ、記憶力にも読解力にも乏しく、計算も出来ない。
私は4年の大学生活のうち、2年、母国語以外の言語の習得と、研究職への就職とを目指して時間を費やしたことがある。一定の時間をかけた。だが、
徒労に終わった。
母国語以外の言語は習得出来なかったし。
研究職にさえ就くことが出来なかった。
そして、全く凡骨な頭であるという、ありありとした実感だけが、リアルに残っただけだった。
一度読んだだけで、何故、記憶出来てないのだろうか。辞書を端から端まで読んでも、何故、文章を理解することが出来ないのだろうか。
理由は簡単。頭の機能が、学習機能に整合して居ないのだ。
にもかかわらず。私は、考えている。
私は、考えれば考えるほど、自分の愚かさと無能に気づいて疲弊する。それが分かっているのにもかかわらず。私は、考えたいと思ってしまう。
考えている。
しかし、記憶力や集中力という実際の能力は、思うようにはならない。また、第二外国語も習得出来ないままだ。未だに計算は苦手。実力といわれるものは何一つ無い。趣味のギターや絵も、はっきり言って、下手くそなままである。
私の脳の機能の平凡さ。
それに引き換え、非凡さを求めて費やした時間が堆積するに連れて、それらは、歪み、捻じ曲がっていく。
精神腐敗。
結果的に現在の私は、魂や、意識というものに興味が湧き始めた。魂というのは、これは幻想に過ぎないのだが、魂と肉体という分け方が本当にあれば、どんなに良いだろうか、と思う。そして、現実と幻想を分けるものが、実は明確には無いという哲学的な考えを目にするたびに、本当にそうならば、どんなに良いだろうか、と思う。
私は哲学が好きになったし、それは信仰心にも似たものがあるようにも思う。
魂と肉体、現実と幻想について考えてみる。
すると私は、私が今まで致してきた、驕慢のような思考は、私の魂が、その宿り木としての私の肉体に対して、その搭載している「脳」そのものが、それらの意識に整合していない為に、ある種の不満や葛藤を引き起こしているだけなのではないのかと思い始めた。
厭というほど分かっている、私の記憶力や理解力の乏しさと「遅さ」それから、実際に行動を起こさない「億劫さ」というものへの不満。
これらは、決して、例えば『山月記』の李徴子がいうような、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」というような類のものでは無いのではないか、と思い染めるばかり。
…死後に意識があるという確約さえ持てれば私はこの肉体をすぐさま放棄するだろう。
余りにも、使えない。
そして、余りにも、甲斐性が無い。