淡家朴『高校球児と性欲の分散』(2019)
立派に営利的ではないかと、育ち過ぎた高校球児の尻を睨みつける。
時速151キロの豪速球を投げる高校生がいるという。
まだ未成熟な肉体を、無理に改造するという。
もはや自傷行為に近いな、とも思う。だって、そうでしょう。そんなことをしたら、肩が壊れてしまいます。それは、身体酷使以外の何ものでもない。末、恐ろしい。
スポーツは、精神分析学的には、性欲の昇華といわれます。そして、青少年の性的衝動は、ほぼ破壊的といっても良いほど、純粋高圧的でありますから、彼らが肉体を無理やり鍛え上げることには、ある意味では健康的な理由があるようです。
実際、アスリートにはタイガーウッズのような異常性欲者も居ますし、オリンピックに選抜された男たちが、娼婦を買ったことで世間の顰蹙まで買ってしまったのは記憶に新しい。
本来性欲は、生殖のためにあるものですから。
そういう意味で、性欲を正しく履き違えた人々の、運動の異常値を愉しむというのが、スポーツ観戦の妙味の一つかもしれません。
「競争」というイデオロギーと結びついて、世のお父さんたちのテンションを操作する駆動因子としてスポーツがある。そういう解釈を採用しても良いのですが、きっとそれだけではない。
スポーツ精神を神聖視し、そこに対立する精神を矮小化して精算し、根源的な問い、哲学的な問い(なぜ、身体を鍛えるのか。なぜ、その種目なのかという懐疑)に対しては、直向きに無視の努力を貫く、プロのアスリート。