ゲーム考察 第1回『ファイナルファンタジーVII リメイク』(2020)
ゲーム考察、第1回です。
先日、YouTubeプレミアム(月額1550円)に登録し、YouTubeをオフライン再生できるようになりました。
YouTubeサブスク解禁によって、個人的な映画ブームも下火になり、今となってはもっぱらゲームの実況動画視聴の日々です。
視聴といっても、ほとんど映像を観ていません。何かしら仕事や勉強をしながら、片耳で聴いている、そういうスタイルです。
印刷時間やトイレ時間、あるいは会議時間を使って、週に少なくとも3冊は本を読んでしまうのですが、そこにゲーム実況が加わって、てんやわんやです。仕事量も去年より増えましたので、なかなか大変です。
とにかく、僕は仕事だけをするということが、どうもできない人間で、常に何か別のことを脳内に走らせてしまいます。
その方が、かえって能率が上がるんです。
というわけで、ゲーム一本分見てしまったので、考察してみます。
『ファイナルファンタジー7 リメイク』です。
この作品は、オリジナルの1/4くらいのエピソードまでをリメイクされたものです。なんか、エヴァみたいです。新劇場版として、一度完結した作品を4つくらいに分けてリメイクする商法。新しいものより懐かしいもののリバイバルに手を出してしまう消費者の心理をよく考えてあるのだと思います。
ゲーム画面を見ると、モブや村人の動きがFF15のエンジンそのままという感じです。
FF15のエンジンを使って、FF7をドライブしている。そんな印象を受けました。
ということは、AIの開発には、あの天才人工知能学者、三宅陽一郎氏も関わっているということでしょうか。素晴らしいですね。
さて、本編は「エアリス救出、神羅カンパニー脱出」までです。
エアリスというのが、ダブルヒロインの片方。
神羅カンパニーというのが、主人公の敵組織です。
敵組織からヒロインを救出するという一本道のプロットを、時折付箋を織り交ぜながら進んでいくというものです。
物語自体は非常にシンプルなんだけど、主人公たちのセリフに味があって面白いんです。特に、20世紀のプレステ版を一度クリアしている古参にとっては、懐かしさもあり新しさもあり、最高、というところでしょう。
主人公が加勢する組織「アバランチ」と、アバランチの敵対勢力である「神羅カンパニー」との対立が、本編のメインです。
これらはそれぞれ、社会主義と資本主義の対立がモチーフにあると考えられます。
かつて冷戦下の、管理社会体制のアメリカと社会主義イデオロギー体制のソ連との対立を彷彿とさせます。
資本主義が搾取している環境資源こそが、本編の「魔晄」です。
無頼で特攻野郎なバレットは、かつての無政府主義者クロポトキンそのもののような気がします。
階級社会と、五月革命。
管理教育と、尾崎豊。
そういう196〜80年代的なイデ二項対立は、絶えずあらゆる芸術作品のモチーフになってきました。
アバランチは、極めてステレオタイプな反体制的なものの表象です。ヤンキー的。そして、ハードボイルドです。スチームパンク的外連味もある。
最後のシーン、ガラス張りのビルの壁をバイクで突き破ってハイウェイに出るんです。
それこそAKIRAみたいです。
セフィロスは、主人公クラウドのシャドウ的存在です。一対の存在。どちらかが力を持った時に、それと拮抗して、どちらかが力を失うシャドウの構造です。
本編では、あまり直接的に関わることはありません。しかし、確実に主人公クラウドを浸潤していることが分かります。クラウドの頭痛、体調不良を駆動因子にして、セフィロスは登場するのです。身体偏重、あるいは致命的な存在に関する問題とともにあるシャドウ。
続編が楽しみです。
映画鑑賞第8回『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001)
iTunesレンタル(¥407)で、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観ました。
舞台は、1990年代アメリカ。主人公は、東ベルリン生まれ、半男半女のロックシンガー。過去に性転換手術を失敗。その傷跡「アングラーインチ」をきっかけに失った恋人と、本当の愛を追い求め、各地をパブコンサート巡業する。
というお話でした。
LGBTについて考える映画が観たい。
という人がもし周りに現れたら、第一に紹介したいと思った映画でした。
映画には、「プラトンの愛」のモチーフが登場します。
「我々は、誰かと一対であった」というのが、プラトンの愛です。
ここでプラトンが面白いのは、愛の相手、一対の運命の相手は、男と女、女と男とは限らないというところです。
それは男と男かも知れないし、女と女かも知れない。とにかく、私たちは一対であった。そしてそれを現世で絶えず探している。
映画では、「愛の起源」という音楽にして、プラトンの愛のモチーフが何度も反復されます。
それは何と力強いラブソングでしょうか。
やっぱりそれは、ものすごく生命的な勇気を賦活するパワーそのもののような気がしました。
「誰かと一対である」というイメージが、そのまま愛ではないか!とハッとしました。
愛の欠如を抱いて生きるということ。
ヘドウィグは、幼い頃に両親の離婚を経験します。さらに、母親からは、「ロック好きな自分」を、ありのままに受け入れてもらえません。
その時から、彼は「愛を探す」ということを強烈に宿命付けられます。
ヘドウィグは、かつて、ボーイズラブの同性と恋に落ち、婚約をしました。
愛の欠如、喪失感に終止符をうつことができる。そう確信します。
それは「性転換と結婚」という選択でした。
しかし、性転換手術は失敗。後に「アングリーインチ」と本人が呼称する「おちんちんの残り」が残ってしまいます。
おまけに婚約相手には逃げられ、ヘドウィグは人生のどん底に落ちてしまいます。
再び愛を探すことになったヘドウィグ。
股間には怒りの1インチを抱いています。
それは、かつて愛を求めた罰。
ヘドウィグは心を閉ざしてしまいます。
しかし、ヘドウィグは、ものすごく運命を動かす力があるのか何なのか、お手伝い先の家の青年と再び恋に落ちるのです。
そしてまた破局。
直接的な原因は、アングリーインチです。
青年はヘドウィグを女性だと思っていました。
したがって、肉体関係を上手く結ぶことができなかったのです。
この肉体関係というのも、一体なんなのだろうかと考えてしまう。ヘドウィグが、泣きながら、取り乱しながら、私を愛しているならこの1インチも愛しなさいと絶叫するシーン。胸が痛くなりました。
源氏物語のようにひらひらと男女が上品に重なる。そんなような簡単な性ではない。もっとギクシャクした、ヒリヒリとした性の葛藤。
最後のシーンでは、全裸のヘドウィグが闇の中で、光が射す方に向かって、歩いていく。
肉体を、葛藤を引き摺りながら、あこがれを彷徨い行く様。
映画鑑賞第7回『フルメタル・ジャケット』(1989)
スタンリーキューブリック監督、1989年の作品。『フルメタル・ジャケット』を観ました。
itunesのレンタルで407円。
アマプラ会員の妻に頼んで観せてもらえばタダで観られるのですが、やはり自分でお金を払わなければ観ようという気持ちにならない…。
「暴力」や「狂気」について、人格に何らかの影響を与えられたいと、うるうるしながら、スタンリーキューブリックの映画を、勉強だと思って観ました。
そういう青臭い、邪な目で見るので、あまり上手く刺さらない。前半部、後半部、ぼーっと観てしまいました。
映画前半部は、米軍の兵士訓練学校編です。変態サディストそのもののような教官が出てきます。
変態教官による、兵士たちの非人間化、隷属化のプロセスを、若干の丸みを帯びたユーモアで演出しています。
この丸みは、おそらく、この変態教官が、「サディストを演じ切っている」というところにあると思います。振り切っている。狂気じみている。偏執病的なその激奮には、どこかユーモアがあります。
「こわいタイプの学校の先生がブチギレてる」ところを盗み見て、なんだか心がスカッとする感覚。そういう類のカタルシスがあるなぁと思いました。
ボルテージが上がってる人の震えって、どこか演劇的なんです。
そういう暗い可笑しみを上手く描いてある。
前半部の終わりは、「ルサンチマンの暴発」です。
恐怖支配の集団は、パワーバランスの綻びを「いじめ」によって埋めようとします。
「いじめられやすさ」のことを、社会学用語でヴァルネラビリティと呼びますが、まさにこのヴァルネラビリティの高いある兵士が、いじめの標的になります。
彼は、ある日の夜に集団リンチを受けました。
最後は、その溜まりに溜まったルサンチマンを、暴発させ、集団リンチを受けた兵士は変態教官をライフルで撃ち殺し、自らもまた銃口を咥え、引き金を引いて死ぬのです。
映画後半部は、ベトナム戦争編です。
ベトナム少女のスナイパーとの戦いと、ミッキーマウスマーチを歌いながら焼け野原を行進する米軍兵士が、とても印象的です。
「武装した少女を射殺する」という発想が、スタンリーキューブリックの変さだと思います。
何人もの兵士を撃ち殺した敏腕スナイパーの正体が、ひとりの少女であるというその意外性、コントラスト、アニメ性。
これはかつて、「覚せい剤入りミルクを飲み、略奪や強姦に出かける青少年」を描いた『時計仕掛けのオレンジ』にも通底するようなモチーフです。
スタンリーキューブリックは、子供に対して、「純粋や無垢」といったことは思いません。
子供に対して、絶えず働く想像力は、彼彼女らの「暴力性」です。
幼児退行の果てに戦争があるということ。
或いは、人を殺すということに純粋さ、幼稚さがあるということ。
そういうものを描いているような気がします。
日本でも、子供による凶悪犯罪は歴史上あります。レイプした後にコンクリートで固めて海に沈めたり、ハンマーで脳天をかち割ったり、手足をバラバラにしたり。乳首と性器を切り取ったり…。
そういう無邪気な乱暴に、創作意欲が掻き立てられる。
それがスタンリーキューブリックという想像力にあるのだと思います。
よりぬきzig7月号(2020)
「何も言わない人たち」の、その「何」と対話する。
「Re:学生モード」プロジェクト
2020.7.1
日々の鍛錬の結果、仕事中に哲学用語が口を突いて出てきて、バカみたい。
2020.7.2
「年端のいかない少女が、赤裸々に語る性愛」みたいな文体やらモチーフやらを、月曜日の最果タヒに始まって、時は流れて金曜日、橋本治の桃尻娘に漂着する始末。
2020.7.3
2018年までに引退した、日本のポルノアイドルは、なぜ今、「天皇的」な装置となり得たのか。
私の創作意欲は、今、オウムと天皇に傾いている。
贅沢ZEROをやりながら、映画鑑賞。
2020.7.4
娘。がっつり自我芽生えてる。
パラサイトを観て、「アドホックな秩序」という感想を抱いたのは、最近読んだスラヴォイ・ジジェクの影響です。屹度。いや、浅田彰か。メイヤスーか。
2020.7.5
娘の喃語に、時折、文節の雛形のような音のリズムが混じって、少しハッとする。
2020.7.9
スラヴォイ・ジジェクというスロベニア共和国の哲学者がいる。現代社会をより愉しくパスできるユニークなものの見方を発明している。
ヘーゲル。200年前に「意識とは何か」という問いを一生懸命考えた人。この人は最終的に、哲学という営み、考えるという営みそれ自体をまとめようとした。先人の哲学のいいとこ取りをしようとした。この"いいとこ取り"は「弁証法」と呼ばれ、後の哲学者たちに大きな影響を与えた。
2020.7.14
「私は不機嫌である」と表明することで他者を動かそうとする。これが最も頭を使わずに相手を支配する仕方だ。
菩薩は仏ではない。ロックンロールである。
「そりゃそういう人もいるでしょうが」でも、今ここにこうしているこの私は、「そうではないのです」ということを正々堂々と表明するのが、実存主義です。
2020.7.16
「○○するイメージでしてみて」っていうアナロジカルな助言。これがノウハウを教えるということか。ノウハウはニュアンス。行為の枝葉の切っ先。
2020.7.18
「大切にし続ける」という同一性の幻想にとどまることと、「もう大切にしなくなったもの」をそっとそのままにしておくこと。「感謝の気持ち」というのはそういう感じ。
2020.7.19
ジャック・ラカン。20世紀後半の「精神分析」の世界へ、「言語論」を持ち込んだ精神科医兼哲学者。「無意識」から「言語」へ。それがラカン精神分析のキーワード。人間の精神世界を作っているのは、無意識以前に、言語だった。
たとえ「言語以前の世界がある」としても、そこに「言語獲得後の人間」が立ち入ることは出来ない。
2020.7.20
趣味の存在論的脆弱性を、Twitterという、これまた極めて観念的な所作によって、支えようとする。つまり、幻想の母屋を幻想の御柱によって支えようとする。
2020.7.23
凡ゆる言説(口から出た言葉や、手による言葉)に対して、「それは『そういう言い方がもう既にあるから』という理由だけで言い及ぼされてしまっている『全くのお門違い』の状態かもしれない」という視座を置く。言葉に距離をとる。デリダ。
「人格に影響を与える言葉」に素晴らしいものなど一つもない。それを素晴らしいのだと錯覚させる毒。人を狂人か宗教家に変える毒。パルマコン。デリダ。
病んでいる方が満たされているという人はいます。
病み生きがい、みたいな。
2020.7.24
何かにバーンと影響を受け、それで暫く生き延びることが出来ただけ、という経験がたまたま何度か重なってるだけの今です。
人類は今まで、「そういうことをしたら成功するだろう」「そういうことをしたら失敗するだろう」という想像力を使って進歩してきた訳だけど、もうそういうのやめない?という段階に来ている。
2020.7.25
「『生殺与奪の権を握る神になりたい』という幼児の発想で人を殺す」というのは、戦争で大量に人を殺す時の兵士の幼児退行と同じ。キューブリックのフルメタル・ジャケットとかで描かれてるやつ。めっちゃわかる。
2020.7.27
女性がよく使う、「余計なことを言わなくていい」という想像力。そしてその余計について。安定や予定調和といった伝統的な想像力と符合する。
2020.7.30
生きるとは、徳があってセロトニンに溢れている人になるということ。
2020.7.31
映画鑑賞第6回『聲の形』(2016)
補聴器をdisconectする。
その描写に、そのまま現代人の憔悴と鬱散を思う。
そこには、
「存在論的ささくれ感」
がある。
「今、こうして私が生きている世界が確かにあって、そこにアクセスできている」というような確かな存在感。
それが、他者によって遮断される。disconectされるということ。
私たちは「いじめ」について考えるとき、 身に引き寄せて考えようとはしない。どこかで、自分を守って、一歩引いた位置から見ている。
存在論的不疎通。
大人も子どもも関係ない。
存在の押し合い引き合いの中で、私たちは狡猾に立ち回る。劇中の子どもたちも大人たちも、そうだ。
そして、その存在論的なささくれに、共感を覚え、クリティカルな刺さり方をする。
デュルケームは、『自殺論』(1897)の中で、「罪悪感を一人で背負う時、人は自死を考える」と述べた。
罪悪感は"死にいい"理由になる。
孤独であることもまた"死にいい"理由になる。
「生きるのを手伝って欲しい」という劇中の象徴的な台詞。
生命は、ケアされなければ、在れないのだ。
よりぬきzig6月号(2020)
ミスチルを若い頃聴いていて、そのまま聴いてる40代の人々、ほんとに厄介だ。
2020.6.1
これはもう透明少女です外。
2020.6.2
毎日、準備しかしていない気分で労働。これ、レヴィナス的。
ハラリの知性では、人類はこれからホモデウスになるのだけれど、確かに、成熟した現代の10代は、「公園に木が生えている」というだけで、それなりの幸福を感じているように思える。
公園に木が生えていること。そこにある小さな生態系。それらは元気かな、と思いやる。
スクールカースト上位層の子らが、生殖的ないし経済的な、一定方向への希求を起こすのは、それまでと変わりなく、しかし確実に、中間層は年々、多様になっている。環境思想、SDGs教育の賜物であろう。
例えば、これこれはセックスのメタファーであると、"何でもかんでも性的に関連づける"視座を「パンセクシュアリズム」といって、反フロイト精神分析のポストモダニストたちが、最も軽蔑するのですよ。
2020.6.3
わーわーわーわー、みたいな社会人的言語ゲームしてた。わーわーわーわーとしか覚えてないけど。
今日は少し記号論の話をした。
2020.6.6
今日は、弁証法の話を少ししました。
2020.6.8
ハルキストのヤサグレ感とは、違うの。絶対に。
人生らしき他者と常に在れていることを運命論で片付けるの、私の中ではもう旧くて。
2020.6.14
発達障害の遺伝子を授けておいて、その上「普通の子に育てなくてはいけない」みたいなプレッシャーに駆られて暴力をふるうお父さん。ほんと、ロクな死に方しませんよ。
2020.6.15
娘がイタリア語を喋った。グラッツェって言った。グラッツェって。
2020.6.16
「これだけ貰えたらよい」という所得の明確なラインを意識しながらも、「配偶者や嫡出子からの承認を得たい」が為に欲望を無限大に増幅させ、がしかし「本質的に無能である」が故に、ただ組織にしがみつくしか能ない「ある男の鈍麻と閉塞」というのが、この出勤中のサラリーマンの虚しい背中なのだ。
精子というのは、生命の完全に成熟した状態なんです。生命というのは、未成熟になっていく。
2020.6.17
私もっとハードコアになるわ。
2020.6.18
娘。完全なる這い這いを体得して大変。部屋をあっちこっちいく。
「勉強しかしてこなかった人」と揶揄されるには余りにも知性を欠いているが、しかし実際、受験勉強とアルバイトしかしてこなかった、という人。
BiSH好きの男子高生とか、マジ勝てん。熱量がマグマだ。
2020.6.19
俺は多分、蟹を買った。
2020.6.22
午前中は、『桐島、部活やめるってよ』(2012)を観ました。
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001)を観た。
映画二本。もう一本いける。
『フルメタル・ジャケット』(1987)を観た。今日、映画三本観た。
「じっとしておく」ということを充実させるために、今日は映画だった。
2020.6.25
最果タヒで指導案。高2。
2020.6.26
『時計じかけのオレンジ』(1972)を観る。
2020.6.27
『天才たちの頭の中』(2018)を観てました。
スラヴォイジジェクやマリリンマンソンなどが出るインタビュー集です。
2020.6.28
最果タヒは没にして、ジャックデリダで授業しました。高2現代文。
同期はカミュをやってる。自由な校風でよかったよかった。
私はデリダを、「文体という常識にメスを入れた人」と紹介する。
ある特殊な文体が、近代のある一時期において突然標準化し、「そういう書き方で書けちゃうもんだから」という理由だけで、現代にもずるずると残ってる、「一般的な」顔をした「ある特殊な文体」について、考えた人。デリダ。
昨日、ビョークのインタビューを観ていて、彼女が髪を掻いた後にその指を嗅いでいて、その仕草が「不器用な人」という感じで、とてもよかった。
今週末は、タルコフスキーかサムペキンパーに挑戦したい。
2020.6.29
映画鑑賞第5回『パラサイト 半地下の家族』(2019)
映画考察、5回目は、ポン・ジュノ[韓国]1969〜『パラサイト 半地下の家族』(2019)です。
舞台は現代韓国。内職で生計を立てるスラム街の四人家族が、身分を詐称し、裕福な家庭のもとで、家庭教師や家政婦として"寄生する"というお話です。
「韓国格差社会」の社会構造に対する皮肉は辛辣ですが、これはコメディタッチで描かれていることもあり、この映画のテーマではないのかなと思いました。あくまで、「お決まりのご挨拶」としての社会風刺。そんなような、少し虚しい2019年の空気感です。みんな知ってるんです。周知の事実よ経済格差なんて。という感じ。
この映画の最大のモチーフは、「アドホックな秩序の柱」かな、と思います。
映画冒頭。主人公が、友人から家庭教師の代替えを頼まれる時に渡された石。石英かなんかの巨大な石。あれが、「アドホックな秩序の柱」です。
主人公は、その巨大石を手に入れた時、「象徴的だ」というセリフを確か、言います。
そう。まさにその石こそが、格差社会を生き延びる為の秩序の象徴なのです。
「石」は、物質です。
しかし、「石と巡り合う機」というのは、運。
現代社会は、あらゆる幻想に支配されていて、それは例えば「お金」だとか「幸福」だとか、そういう事柄。これは、フランス現代思想の構造主義だとか、ポスト構造主義なんかが説明したことですが。
とにかく、「幻想」の中で、「経済格差」だとか「学歴闘争」だとかが行われている。
そういう「幻想の混沌、カオス」の中で、私たちは、「物質的」な「運」を待ち望んでいるのです。
「物質的」な「運」。
その象徴が、友人から貰った「石」なのです。
主人公の父は、映画の終盤、水難に遭った後、「無計画であれ」というメッセージを残します。
とにかく、無計画であれ。というメッセージ。
これは、日本でも311の震災以降、常に言われてきた人々の駆動因です。
2011年3月11日。東日本のある小学校が津波に飲み込まれました。避難訓練と同じ段取りで動いた生徒、教師は、みな亡くなりました。助かったのは、「指示通り動かなかった生徒と教師」でした。
これは、あるパラダイムシフトのきっかけとなりました。
「秩序は、アドホックであらなければならない」
アドホックとは、「それまでの事態や言動の集合(カルマ)を抜きにして、その場に居合わせたもの同士で繋がる」という意味合いがあると、私は理解しています。
1980年代後半から、哲学の論壇を中心に、世界中で始まった、多様化やグローバリズム。
30年の時を経て、それが世界中に、あちこちで「共感」を伴って、響き始めたのが、昨今(2016,17以降と私は思っている)の、混沌とした資本主義優位の喧騒です。
アメリカ、韓国、そして日本。経済格差、格差社会という言葉は、ここ10年、15年、叫ばれ続けているトピックでしょう。
そこで、最早、人々は一度、秩序を失って。
その機会が訪れた時。つまりは、「運」が向き、偶さか目の前に秩序の真柱が出現した瞬間にのみ、全生涯をもってコミットメントする。
全てが跡形もなく流れた時は、それまで。
かつてマルクスは、資本主義が終わり、社会主義が来るのだと予言しました。
しかし、現実は、どうでしょうか。資本主義は終わりません。しかし、この資本主義には、もっと強烈な意味での社会主義。謂わばアナキズム的な。さながら「資本主義寄生型社会主義」のような大きな「半地下の胎動」が、蠢き、犇いているのではないでしょうか。