映画鑑賞第4回『桐島、部活やめるってよ』(2012)
『桐島、部活やめるってよ』(2012)をiTunesレンタル(¥407)で、観ました。
「バレー部のキャプテンの桐島が、部活をやめるらしい」という噂を聞いた「桐島の周縁」と「『桐島の周縁』の周縁」が、それぞれに心を動かし、それぞれに行動する。また、その様を、明確な主人公やプロットを置かず、俯瞰することで、人と人との意図せぬ(或いは半ば意図した)繋がりの可笑しみを浮き彫りにする。
というような作品でした。
2000年代アニメーションの文脈の一つである「日常系」にみられるような、「誰も死なず、何も失わない」作品。つまり、臨界点を設けない作品です。
臨界点も、明確なプロットも示されないので、少し拍子抜け、肩透かしを食らう気分になりました。
大きなテーマは「実存主義」でしょうか。
「現実」とは、「一人の私が、まさに今、ここにあるということ」の集合体に過ぎない。
そういうような視座が、映画全体を、静かな瞑想のように貫いています。
実存主義というような戦後思想が再び注目されつつある昨今。それは、なぜでしょうか。
考えられるのは、「学校生活」のイメージの普遍化。
具体的には、
"「スクールカースト」「美醜差別」「恋愛至上」といった事柄が、教育現場のリアルを演出する"
というイメージのコモディティ化です。
「学校って、ぶっちゃけそれだけ」
というような、感性の飽和。学生たちは実際、見事なまでに無個性的な環世界を作り上げていく。学園ドラマのような言葉。学園ドラマのような振る舞い。学園ドラマのような性的な痴話。学園ドラマのような家庭事情の吐露ないし隠蔽…。
"中高生レベルのシナプスは、もはや完全にハックされている"のかもしれません。
だから、タイトルにもある「部活やめるってよ」っていう簡単な一言に、感性などの知能的営みがドライブされてしまう。
「部活」
と、
「てよ」
で、喚起されるくらいの大きさ、分かりやすさでなければ、もう誰も分かろうとしないのかも、知れません。
映画鑑賞第3回『時計じかけのオレンジ』(1971)
iTunesレンタル(¥407)で、スタンリー・キューブリック[アメリカ]1928〜1999の『時計じかけのオレンジ』(1971)を観ました。
「近未来のロンドンとされる異世界を舞台に、主人公の非行少年が、特別な治療を受け、ロボット的に更生し、再び人間性を取り戻す。」
というお話です。
R18作品で、強姦、輪姦、撲殺、リンチ等の場面があります。イギリスでは劇場公開禁止となりました。
確かに、暴力を賛美するような扇情的な映像作品ともいえますが、主人公の台詞や悪趣味な小道具には、不思議な魅力があります。
それは、ビートニク、ビートジェネレーション文学に通底する「ヒップさ」「クールさ」のような、「不謹慎な魅力」です。
特に、「裸婦人形の乳房から、覚醒剤入りミルクを注ぐ」というような発想は、残念ながら、頭がおかしいとしか言いようがありません。
これは、言葉が悪いですが、「スタンリー・キューブリックという一人の気違いの作った映画」と言うしかない。
そんな、危なっかしい熱量全開の映画でした。
公開された1971年、という時代が時代だったのかもしれません。
ベトナム戦争、文化大革命、五月革命といったトピックの60年代を終え、冷戦下で、「思想」と「科学」がぶつかり合っていた時代。
"「革命」への暴力を抑え込もうとする「管理」主義的なアメリカの徹底ぶりが、どこかナチスの全体主義にも見える"
というような嫌悪感が、この映画の暴力的な演出に、説得力を与えているように思いました。
余談ですが、実はこの映画、高校の美術の教科書に載っています。青少年の健全な心身の発達に対して、著しく教育的配慮を欠いていると言われそうですが、私は個人的には、全然いいと思います。「責任は取らないが、暴力なるものを、学際的に踏破してみよう。」というような考え方は、嫌いではないのです、困ったことに。
映画鑑賞第2回『マネー・ショート華麗なる大逆転』
『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(2015)をiTunesレンタル(¥407)で、観ました。
1978年、住宅ローンを担保にした「モーゲージ」という債権が発明されました。
「住宅ローンは、普通、みんな返すだろう」
「住宅ローンを組めるような社会人なんだから、大丈夫だろう。銀行も、当然、貸し付けの時に信用調査をするわけだし」
ということで、多くの投資家たちが、この「モーゲージ債」を買いました。
そして、「モーゲージ債」は売れに売れ、銀行には巨額のお金が流れ込みました。
そして、「モーゲージ債」は、とうとう売り切れました。
これに味をしめた銀行は、「サブプライム」という「モーゲージ債」をつくります。
「サブプライム」
つまり、「サブ(副)プライム(優良)」
良いように言っていますが、
実際は、所得の低い層のこと。
「家を買うほどの稼ぎのない人たち」です。
「家を買うほどの稼ぎはないのだけど、家が買えるなら欲しいし、これからがんばる」
という人が、アメリカに、およそ5000万人いました。
この「5000万人分の住宅ローン」を証券化して、銀行は投資家に売ったのです。
2001年、当時この「サブプライム」は、完璧な金融政策、経済政策と言われていました。
「サブプライムが破綻する」という状況は、あり得ないとされていました。
もしサブプライムが破綻したとして、その時は何百万人もの人が家を失うことになるし、そんな状況は、あり得ないだろう。前例もない。
「前例がないから、あり得ない。」
そう笑って唾棄されていたそうです。
しかし、蓋を開けてみると…
2001年から2006年のうちに、「何百万人もの低所得層の人々が、サブプライムローンで買った家を、"夜逃げ"、"破産"というかたちで手放していました」
しかし、そのことを、銀行は隠蔽し続けました。
「サブプライム」の信頼と売り上げを守るためです。
結果、サブプライムローンは破綻します。
結果、
800万人が職を失い。
600万人が家を失いました。
というお話です。
サブタイトルに「華麗なる大逆転」とあるように、サブプライムの実態を知る者、知ろうとする者がいなかった2001年から2006年のうちに、サブプライムローン破綻を見抜き、銀行と「モーゲージ債破綻時の保険」を契約し、26億万ドルを稼いだ男も描かれています。
しかし、この映画の見どころは、そこではないように思います。
先日、「銀行員を目指している経済学部志望の高校生」と話していて、経済ってなんだろう。金融ってなんだろう。となりました。
金融。
「金を融通する」と書いて、金融。
つまり、
「後で利子をつけて返すから、お金貸して」
というやりとり。
これを、利用した商売。
それが、金融です、ね。
家が欲しい。
でも、お金がない。
いや、今は、ないだけ。
だから、お金を借りて、家を買う。
銀行からお金を借りて家を買う「住宅ローン」という"借金の文化"を「一人前の社会人の証」として一般化、標準化したのがアメリカです。
この文化は日本にも当然伝わりました。
かつて、多くの人が家を買いました。
そして、家や車を買うことで、「一人前の社会人」であると認め合ったのです。
今でも、「車を買う」「家を買う」ということが、「社会的に"一人前"であることの証」のように扱われています。
「ある程度の安定した稼ぎがあって、社会的にも信用されている」ということ。それを証明してくれるのが、「住宅ローン」です。
そんな「一人前の証」である「住宅ローン」を使い…、
いや、「家を買うことで、社会的に一人前になったのだと人々に錯覚させる資本主義社会の構造」を使い…
さらには、
「家を買うことで、社会的に一人前になったと認められたい、低所得層の人々の心理」を使い…
アメリカを、ひいては世界を、
金融危機に陥れたのが、今回、この映画の内容である「サブプライムローン問題」です。
この映画の演習課題は、二点。
「これをすれば一人前」
「○○ならば認められる」
そういったことが幻想であるということに気づかなければならないということ。
そして、
「そんなことは、前例がない」
と、たとえ99.999%の人が唾棄したとしても、
それがゆえ、それだからこそ「批判的に考察する」べきことがある。
ということです。
アメリカが「虚飾にまみれたおべんちゃら経済」のお手本を示してくれた。
だから、それと同じことをしないように、
経済のこと、学ばなければならないのだと思います。
淡家朴『よりぬきzig5月号』(2020)
ハムをパックから取り出してすぐの、4枚重なった状態で食べる。無頼派なので。
マルクスはパンクロック。サルトルはヘビィメタル。レヴィストロースはオルタナティヴロック。
5/2
敬意・感謝・絆・銃・病原菌・鉄
5/6
大東亜共栄圏も絆みたいな感じでやってきたもんね。
5/7
「バカにされたから怒る」という感情反応、脳波を削除したい。
5/8
娘と、「おかあさんといっしょ」を見ていた。規律運動のような映像が反復される。僅かにエロスがある。
蕁麻疹に対抗して抗ヒスタミン剤を入れるのに、抗ヒスタミンは選択的セロトニン再取り込み剤と拮抗するので、身体が自然とヒスタミンを摂取したがっているの、か。
5/16
淡家朴『正常性バイアス的な、あまりに正常性バイアス的な』(2020)
ここ数ヶ月、私の社会生活に著しい影響を与えた「コロナ」というキーワード。
「私はコロナを他人に移したくはないが、それ以上に、コロナに移りたくはない。マスクは、他人の感染リスクを下げるかもしれないが、私が他人から感染させられるリスクを下げられない。したがって、私はマスクをつけない。」
そういう反抗的な心理が、完全に殺菌されてしまって、私は外出する時にいつもマスクを着用してしまっている。みんながそうしているから、という理由が、とても楽なのである。
これは、どういうことかというと、人類が差別や戦争をしてきた、ということである。
繰り返すが、「みんながそうしているから」という理由が、とても楽なのである。こういうことで、お手軽に帰属感を味わえるのだ。それは何と、楽で、便利なことか。
このように同調圧力に見事敗北した私は、もしもナチスドイツに生まれていたら、ユダヤ人を見殺しにしたのである。もしも右翼の家庭に生まれていたら、人種差別をしていたのである。
そんな可能性が、寂寥感となって今、私の目下の鼻と口元を、白く隠すのである。
しかし実際、私はユダヤ人を見殺しにしたことはない。人種差別も、しない。だからそんなことは一切どうでもよく、一切は過ぎてゆくーー
そう、在宅勤務終了、在職場内勤務再開のてつはうが撃たれたのである。
それは今でも、私の脳内で爆竹のように鳴り響いている。
「コロナ自粛の世界」は、水槽で培養された脳が見せていた夢であったのだ。
そう、我々は覚醒したのであるーー
私の職場の人々は、意地っ張りな人が多いらしい。黙って、飄々としている。
「そんなこと思っているのは、あなただけですよ。」という顔をして、澄ましている。あれだけ騒いでいた癖に、コロナ下火で、急に正常性バイアスみたいになっていく人々に、私は若干の眩暈を憶えた。そして、同時にそれは、極めて不健康にも思えた。心に余裕のない現代人そのもの、というか。
マスクをして、手を洗う。しかし実際にそれは、どのような効果をもたらすのか、はっきりと完全には分かれない。つまりそれらは、仕草であり、記号でしかない。
自粛が終わる。そして、また、同じような知能労働を開始する。それは、仕草でしかない。
彼らも、そして私もまた同じように、その仕草の記号的意味に疎外されている。
報道や政治機関が見せる、「社会の大きな流れ」という漠とした何かに合わせて、個人も同じように、また、大きく動こうとする。そういうダイナミズムの連動に、時折、ついてゆけなくなる。
私は、何のために今ここに、こうしてあらなければならないのか。
根源的な問いの中にしか安らぎを見出せなかった夢遊病者たちの、長い長い放浪が、再び始まろうとしている。
映画鑑賞第1回『閉鎖病棟-それぞれの朝-』(2019)
『閉鎖病棟-それぞれの朝-』(2019)をiTunesレンタル(¥407)で、観ました。
監督,脚本:平山秀幸
原作:帚木蓬生
死刑執行中の過失の隠蔽の為(という極めてフィクショネスフルな設定)、世間から抹殺された存在として精神科病院で生活を送る笑福亭鶴瓶。
と、(おそらく)統合失調症による幻聴発作の治療の為(どういう経緯かは分からないが、家族からはツマはじきにされている)、精神科病院に入院した、綾野剛。
と、母の再婚相手の父から性的虐待を受け、懐妊し、その後に鬱病となって、精神科病院に入院(その内実は母親の娘への憎悪によるもの)した、小松菜奈。
この三人が、同じ精神科病棟で、束の間、ささやかな友好関係を築くも、それぞれの理由(殺人、退院、レイプ被害)によって、一度離れ、その後に法廷で(半ば強引な設定を経て)顔を合わせるも、彼らの人生が再び交わることはなかった的な終わり方をする作品でした。
個人的な見所は、笑福亭鶴瓶のハードコアな演技。
笑福亭鶴瓶は劇中で2度、計4名を殺害しますが、その演技がすごい気迫で、よかった。ちょっと全身が身震いしました。こわいな、と思った。(夢に鶴瓶出てきてうなされそう)
綾野剛は、精神科病院の中ではナイスガイとして立ち居振る舞いながら、家族への拭い去れないトラウマ(これは作中で語られることはありませんでした)と、それによる統失症状が、二項対立的に表現されていました。とくに幻聴発作のシーン。ほんと、上手で、胸が重たくなりました。そうそう、こういう感じになるんだよね…。
小松菜奈は、映画終盤に、「ああ、これから、あのザ悪役という感じの俳優にレイプされるのか…」と思ってからが結構しんどかった。というか、これは仕方のないことですけど、映画の性的暴行の描写を観るのが、苦手なんです。目を逸らしたくなる。
というか、芸術としての性的暴行シーンって、一体何を目指しているのでしょうか。
リアルな女性の苦しみとかって、絶対に映画では表現できないと、そう思っています。
ラストシーンで、笑福亭鶴瓶が涙を堪えるのですが、そこで少し興醒め。無理やり感動ポルノのスキームへ誘導している感が否めない…。そして、エンドロールに何故か、「K」というポップスシンガーの甘い歌声とポップなメロディが…。いや、これは映画全体の陰鬱で禁欲的なイメージを殺しており、完全に興醒め。
淡家朴『よりぬきzig4月号』(2020)
全ての「ツイート」は、外見的には無邪気な日常的思考という体をとるが、「他者との差異、とりわけ独自性や優越性」を、「他者によって肯定的に評価させようとすることを目指す」という点で、基本的に、十分暴力的である。故に元気のない時にTwitterはつまらないし、癒されない。
他者の暴力性をスキップしつつ、選択的に、(無邪気な体を守りながら)、自分の紡ぐ人生に統合する。そういう高度なスルー&ドライブができる。すごいじゃん。
2020.4.1
世界が終わっても、私は全生涯をかけて食洗機を廻す。何故ならば、私の紡ぐ人生全体のコンテクストにおいて、今、この瞬間に食洗機を廻すのだから。
脳波を操作してセロトニンを自家処方したい。
そっちでそう生きる力で盛り上がられたら、こっちは困ると逆に思う。
「『他人が生命力を高めている光景』、『他人が豊かになろうとした欲望の痕跡』に、勝手に自らアクセスし、その欲望に感染し、記号消費し、自らの人生において、似たような行為を反復しようとしている私」というものに対して、ふと、飽きる。
2020.4.2
私は報連相をしない人間。誰に何を言われても報連相をしない。断固、報連相をしない。
2020.4.3
「明るいバカなもの」が厭なだけで、「明るいものがもつパワー」は信じている。それと同じ熱量で、「暗いもの」「気色の悪いもの」から「明るいパワー」を培養できる可能性も、信じている。
「病むこと」や「老いること」によって、人格は変わっていく。その苦しみに適応してバランスを保とうとするからだ。
2020.4.4
私と両想いで啀み合っている、前の部署の上司が、嘘をついて私の過失を大きく装っていることが分かり、私はこれまで無駄に謝罪させられていたということが判明。全く、人間はおそろしい。
大震災化したテレビ。くだらない。
言葉に力があるようにするために準備をするのだけど、それがほんとうに時間がかかる作業で、大変。
2020.4.7
そういえばこの前、職場で、廃材置き場に猫の死骸が棄てられているから見に行こうという話になった。なんか、岡崎京子作品的だなと思いつつ断った。忙しかったので。
「死を見に行こうと誘われる」モチーフが人生初めてて、新鮮だった。
2020.4.8
「明るい子」が「いい子」と思うの、すこし軽薄です。それ、たまたま「明るい家庭」に生まれただけの「処方された明るさのアドバンテージに頼ってるだけの子」かもしれない。
「暗い子」や「グレた子」が「悪い」のではない。たまたま「両親が険悪な家庭」「暗い事情の家庭」に生まれただけ、かもしれない。だから、「明るい」「暗い」の印象二元論には、全く興味がない。
「処方された幸福」と「自力で創造した幸福」を、見極めたいだけ。
優しくされたい人が、極めて表面的に、まんまとその評価を得るだけの言語ゲームに、私は堪えられない。
そういう人々の群れに向かって立って、彼らがかつて経験したこのないような奇妙な言い方で、スキゾ的に、魔術的に、脱構造的に、関わりたい。
「昨日も娘に会えなかった、今朝だって、寝顔見て出て来たのに、今日も帰れない」と残業を愚痴る男。この男はよく、部下の女をつかまえては何十分と不要の立ち話をしている。
その女との無駄話を削れば、きっと娘には会えた。
2020.4.9
娘はミルク中毒であるが、私はアルコール中毒である。
酒、煙草、薬、珈琲、その他アルカロイド等の「嗜好品」と、乳児の生命を繋ぐ「ミルク」は、同等の価値がある。それを証明する為に、自殺というテロリズムが歴史上にある。
2020.4.10
行為や命令の端っこ。ここのニュアンスが、どのような形をしていて、どのような可能性があるのか。そういう疑問を無くしていく作業を、大袈裟に「経験」などと呼んでいるだけ。
経験をした人は、行為のニュアンスを伝える工夫を考えることができる。
いかがわしい情報は、端っこのニュアンスを欠いている。何故ならば、その部分にこそ、無知の者には知られたくなく、また、無知の者に知らせないことによって受益できる行為者の利得が隠されているからだ。
2020.4.13
「慎ましく普通に生きる」というのは、何も思いつかず静かにして、しかし確実に何かを食べ、しかし確実に性的欲求を満たし、しかし確実に何かを絶えず犠牲にして、しかし確実に何かを絶えず消費し続けるということ。それだけは、厭だ。
ファッションメンヘラの女が舌ピアス開けたりタトゥー入れたりするのは好きだけど、プロ野球選手が髭生やしたり、それに影響を受けたリーマンおっさんが髭生やしたりするのは大嫌い。気持ちが悪い。
タトゥーやピアスのようなセックスアピールとしての「身体損毀」は好物だけど、未処理体毛のようなセックスアピールとしての「無粋さ」は無理。
「無理」という生理的拒否的表現を使ったけど、別におっさんとセックスをする予定があるわけではない。
みんな傷つきたくないものだから、認知不協和があると、すぐに他人の過失を展開してホッとしようとするの、かわいい。
2020.4.16
ゲームも勉強も、"真剣にやれば"、テンションが良い方向へ上がり、快楽的な刺激となる。或いはテンションが良い方向へ下がり、瞑想的に深く癒されていく。
私はなぜ、今モンスターを倒そうとするのか。或いはなぜ、モンスターを飼育するのか。なぜ、排泄やセックス、死という臨界を忘却するのか。私の全人生にとって、モンスターとは何のメタファーで、なぜそれを愉しむことができるのか。
なぜ私は、データの中にユートピア的な世界を構築しようとするのか。現実とは何か。仮想とは、他者とは、統合失調症とは。と、そこまでいく。
「『消毒液の噴射ボタンを消毒する消毒液』の噴射ボタンを消毒する消毒液」の噴射ボタンを消毒する…を無限回繰り返して得られるフラクタル次元のコッホ消毒液を使用し、殺菌する。
音楽を聴く理由は、身体の深い血流に耳を預ける為。つまり、音楽は聴かなくても、そのような音に似た震えが、既に血肉には走っているのだが、音楽を聴くことで、そのことを思い出すことができる。
聴かなくなって既にある。他方で、聴いたところで手に入るものではない。
「なぜか、そうしている」という、十分に運命的な理由で、音楽を聴く。
2020.4.17
排泄中、レジ待ち、PC立ち上げ時、印刷機前、会議資料に目を通し終えた後の僅かな時間を掻き集めて、六冊読めている。
ここで読書は相応しくない。今は読書はせず、これをしてくださいという時にこそ、読書は絶大な威力を発揮してしまう。
セックス、マスターベーション、飲酒、喫煙、ゲームなどができる環境ならば、読書なんかよりもそちらの方が遥かに有意義である。しかし、それらが封じられており、且つ、何らかのすべきことを強いられている場合ならば、読書ほど有意義なものは、あれないはずだ。
生命力が賦活する方法を、たとえそれが暗黒啓蒙的であれ、胸を張ってベストを尽くす。出来る限り真剣にやる。
2020.4.19
娘。幼虫的から人間的になってきた。存在論から認識論へ。
2020.4.23
他者には、いつか一瞬で、嘘みたいに置いて行かれる。他者も他者で、私も私で、それぞれの人生が絶えず複雑化しているから。だからそのことは気にしない方がいい。
最後は、「もうどうしようもなくただそこにある自分の人生」に集中する力。
ブラウジング機能の非理性的な知性主義と、A10細胞神経系至上の反知性主義の構造を使って、宗教改革のようなプロセスで自己内差異化を繰り返す。
2020.4.25
負の自己分析の出来るのは立派なこと。
まず、太宰や漱石の私小説をよく読むところから始まった筈の、その語り。
2020.4.27
Twitterで政府や政策に文句を言うのは、完全に意味がない。儚い。
SNSでの「いい男いい女自慢」「出来る男出来る女自慢」「いい夫いい妻を選んだ私自慢」。往々にして改まった文体(ですます調)。それは欺瞞と不遜に満ちた、SNS名物「コンプレックス超克ポルノ」である。
2020.4.30