承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『見つからぬ相談』(2019)

 

 

今、一つの小さな島国が滅びようとしている。

そういえば公園の桜が、咲いていた。

 

 

生きる意味が見つからないという常套句を漏らし続けるメランコリー患者のように。或いは、働く意味が見つからないという常套句を吐き散らかす万年転職志望者のように。

 

そして、そういった全ての弱音を、何一つ汲めない、知らないという顔をして、素通りしていく世間の人という目の群れのように。

 

心療内科の医師や、転職支援サービスのコンシェルジュの視座からでは、ちょうどその目線の翳になって見えないところにある相談。極めて抽象的で、言葉を与えられないようなこと。頭の中で、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく、短編のアイデアのようなこと。

 

抽象的なものを、抽象的なままで表現をすると、滑稽なほど簡素なものになる。例えば、何処かで聴いたことのあるJ-POPのワンフレーズのような。そんな既視感や、もう飽きたという感覚を、読み手に印象として保存してしまうものなど。

 

何度も書いて、何度も消して。

或いは、考えたままで、空白の時間を過ごす。

 

 

淡家朴『道祖神』(2019)

 

路傍の生体に執着するのが秘かの愉しみである。瀝青の間隙に沸沸と空いた蟻の巣穴などは、尚、素晴らしい。幽けき存在への憧憬は、私を路傍の生体の観察へと誘う。

 

暗渠の廃墟などの生体も良いのかも知れないと想像されるが、私の小心によるお化けへの恐怖が勝つ為に好まない。兎角、路傍がよろしい。

 

妙な頭痛を持つと、妙な趣味を持つものである。しかし、何も、気違いの自覚のない時分から、私はこの路傍趣味は確かあったような気もする。路傍の磁場に引き寄せられるようにして、瀝青の間隙から噴出した草臥れて乾いた植物を見たりして、落ち着くのだ。

 

何でもない質量に、何かあると夢む。

これが私の、作文芸術への一つ覚悟でもある。

 

最近では、このブログには随想のみを投稿しようと決め、小説作文はscraivにしている。先般、scraivに投稿した小品を見返して、随想に寄った為、今一度こちら側に、作家、淡家朴とする文体を意識して、これを書いている。意味は弱い。

 

路傍への憧憬の動機について敷衍すると、こう数百字足らずで種切れとなるのもご愛嬌。私は、遠回りをせずに主張をする性癖の為に、字数が保たない。最も文章力が拙いだけか。

 

路傍には、誰も見向きもしないものという磁場がある。そしてその磁場が私の内心と哀しいリンクを生じる。というのも、私はこれでも、ひと月に10曲ほどは、YouTubeのサイトへ自作の歌を投稿している。しかしながら一行判然と、聴き手が付かない。偶さか1500人(人?)のフォロワーを得たTwitterにて、宣伝演繹及びツイキャスシステムを利用したライブ活動を半ば精力的に行ってはいるが、才能の瑕疵というものは、残酷なエコノミーに晒されるのが世の常で、この通り、底辺も底辺のユーチューバー、まさに路傍の枯れ草を勤務している。

 

 

触らぬ神に祟りなし。

 

ウェブの道すがら、あちらこちらに立つ道祖神の、見向きもされぬ伽藍堂のごとき立ち様の隣に、また並んで、私も。

 

しかし、この触られぬ皮膚感覚に一興あったりするのです、なぞと世迷言を吹かして。

 

あゝ、まだ桜は咲かぬか。

淡家朴『社会』(2019)

 

 

職場の暗い翳になる鬼が居ます。

 

顔を顰めて、世間にぐれています。

 

弱いものいじめが大好きな彼女らは、「お局」と呼ばれたりしている人です。

 

何らかの不遇因を持って、心のうちで世間を呪っている。とりわけ、可能性のありそうな若者に対し、それらを再起不能にする為に凄まじい暴力(精神的抑止力)を発明、研究している陰険な人々です。

 

不妊治療に失敗した女。

今日も子供が学校に行かなかった女。

ボケたバアさんの介護をしている女。

夫がうつ病になった女。

とにかく家庭が冷え切っている女。

 

 

彼女らは、その職場にしか通用しないような狭隘な経験をデカデカと掲げて、新人潰しに勤しむことで、鬱憤を晴らすようにしか生きる希望が無いのです。

 

彼女の心の声に、少しだけ耳を傾けてみましょう。きっと荒んでいること必定。

 

なんで、私の子供だけ!

なんで、私の夫だけ!

 

 

なんで、私だけ!

 

私だけが不幸なのよ!

 

 

こんな小娘のことなんて知ったことか。

ズタボロになってしまえばいいのに。

 

だって、だって、私だけ…!

 

こんなのって、あんまりじゃない…。

 

 

 

恵まれたら最後、彼女らの大いなる呪いの対象となってしまいます。

 

 

淡家朴『楽して稼ぎたい』(2019)

 

 

仕事が厭になったら、もうあまり積極的に仕事をしなくなるのが、人の常だと思います。

 

それは、すごく自然なことだと思います。

 

世の中に楽な仕事など無いと、胸を張ってエッヘンと出来る人というのは、たとえ仕事が厭になっても、それに耐えたり、また別の方法で解決する思考の技術があるのだと思います。

そして、それ以上に、何よりも本人が努力家であることに相違ないでしょう。本人が、強い意志と負けん気で頑張っている。その直向きな努力の成果なのだと思います。

 

僕はその才能を素晴らしいと思いますし、何も否定の余地はありません。

 

 

しかし、私はそうはしません。

 

 

ええ、私は、そうは努力しません。

それだけは言えます。

 

そうは努力はしない。

何故かは知らないが、そうしない。

 

ただ、それだけ。

 

 

私は今の仕事を一度、完全に厭になって、やめようと思った時に、では、ほかに何の仕事に有り付ける可能性があって、それぞれにどういうリスクがあって、どういう魅力があって、それを通して、どういう精神生活を軸に据えることが出来るようになるのか、ということが知りたくなりました。

 

 

可能性は有限です。

 

 

小学生の頃は、大人たちに、君たちは無限の可能性があるだなんて、世迷言めいた言葉を浴びせられ、そしてそれが本当のように思えて嬉しかったですが、今となっては、本当に世迷言。

 

選択肢は、容赦無く減っていきます。

 

転職するにせよ、今の仕事で得た「キャリア」という社会的な評価に従って、似たような業種閾値内を彷徨する他、術はありません。

 

それでは、根本的な解決にはならない。角度を少しずらして、気を紛らせているに過ぎないようなこと。

 

より楽に、より自由になりたい。

 

というような、社会的には認められ難い「幼稚な」動機をぶら下げて、馬鹿正直に転職しようものならば、世間からは門前払いを食らうこと必定。

 

今の仕事が、厭になれば、即終了。

 

一度アウトしたら、没落の一途。というような社会の仕組みと、それに伴う精神の仕組みがあるようです。とりわけ、コミュニケーションを軸とするような社会性の求められる職種において、対人ストレスや、対人のトラウマは「クセ」になってしまうので、極めて絶望的です。そして、その画一的な思考回路と、その思考回路の形成に加担している画一的な社会(資本主義社会、民主主義社会)での、絶望の解決は、ただ一つ、「自殺」しかないのでしょう。

 

これは、何も狂った発想ではありません。

 

現代日本の自殺率の高いのは、偶然ではありません。

 

「厭になる」という現象の中身について、対話することの出来ない社会があるということは、全ての現代人にとっては絶望的な事実です。

 

 

現代人はみな、肩に死神を連れているのです。

淡家朴『禁酒』(2019)

 

 

自閉スペクトラム症や、ADHDといった発達障害の夫を持ってしまった妻が、夫の理解に苦しみ、カサンドラ症候群パニック障害を起こしてしまったといった夫婦問題のモデルが、精神医療と、家庭裁判所を中心にして流行したのは、今や欧米だけの話ではない。

 

 

ワンライフ、ワンラブ

 

 

といった、脳天気なラッパーのライムように結婚生活がうまく成り立ち続けるということは難しい。

 

夫婦関係に限らず、長期的な人間関係を形成、維持する為に、どちらかが、より多くの事情や駆動因を理解、把握して、勘案していることの方が、そうではない場合よりも多い。

 

 

私は、バカが嫌いだ。

 

しかし、私自身がバカではないとは限らない。

 

つまり、何かについて私が「バカ」だと論じているのは、対象を分化しているに過ぎない。そしてその分化とは、私の個人的な解釈に過ぎない。

 

そして私がバカだといって卑下している理由や動機が、私と他者との相対的関係において、つまり外部の世界が私にそうあるべきだと強いている、何らかの信号や記号を鵜呑みにしたもの、それ自体による解釈かもしれない。

 

私を私と成している意識は全て、私と社会との関係の上に成立しているからだ。

 

 

私は、いま、偶さか婚姻関係にある異性と暮らしている。そしてその人に「妻」という衣装を着せないようにしている。

 

「妻だから、こうあるべき」

「妻として、当然のふるまい」

 

そういう世間の、正常なる判断という狂気からの解放について、様々な思考実験と実践を繰り返している。

 

 

家庭なんて顧みないで良い。

子供だって、勝手に育っていくだろう。

好きな時に好きなだけ、好きなことをすればいい。

私以外に好きな人が出来たらば、

私を置き去って恋愛していただいても結構(ただし、隠れて内緒にしていて欲しいが)

 

 

さて、

話は変わって、

「禁酒」である。

 

私は、お酒を飲むと、「語りが多く」なる。

 

よく言えば「お饒舌」

ふつうに言えば、「キチガイじみてくる」

 

普段から、胸に秘めたイチモツは、「まぁ別に、わざわざ口に出すまでのことでもない」という理由によってのみ胸にとどまっている。

 

つまり、酒の酔いで、この「らち」を開けてしまうと、暴れ馬が一斉に走り出してしまうのだ。

 

それは観念奔逸に近い。

きっと、ウザい。

 

 

とりわけ、人間存在におけるフレーム問題を、ギリシャ、インド、中国、それぞれの中枢思想から脈々と続く、解決不可能な基本命題を、勝手な解釈と浅薄な知識で語り始めて、キリを知らない。

 

「死」とか「存在」とか「幻想」とか、

 

そういう極めて抽象的なものへの思弁が始まってしまうと、もう手がつけられなくなる。

 

 

はい、お開き。

 

である。

 

 

文脈の著しい飛躍を平気でして、誇大妄想の敷衍を延々として、脳髄を払底して徹底的に極論を述べ続ける酔っ払いと化してしまうのです。

 

バカと天才は紙一重である以前に、天才とは、自分に自信が無いが為に作り上げた、自己の虚像であって、言わずもがな…。

 

 

大概にしておかないと、

 

お愛想。

 

となるかもしれません。

 

 

ですから、私も、酒はほどほどにしないと。

 

しかし、安くて済む快楽としては、最も手軽で、簡単に済むのが、酒。

 

 

いつも、お付き合い、ありがとうございます。

 

実は今日で、入籍1周年。

淡家朴『ませた子はバカの証』(2019)

 

子供とは、頭の固い人のことを言います。

 

頭が固く、物事を自分で思考したり判断することができません。そのため、周りの大人を頼らざるを得ない。彼らの使う言葉は全て、周りの大人の言い方を真似たものです。

 

そして、目の前にいる大人たち、こと親に、思考力や判断力を期待し、その人々の思考や判断を絶対的なものとして信じ込みます。

 

(対比して、さまざまな物事を客観視し、現象を俯瞰できる人。真実や本質を見極めて思考、判断できる人とは、頭の柔らかい人です。

彼らは、決して決めつけや、信じ込みをしない。常に、人間不信で、人間の正常バイアスに怯え、怒り、キチガイじみた目を炯々と光らせて、独り言をブツブツ言いながら暮らしています。)

 

 

バカ親に育てられた、バカな子供の特徴として、

 

「ませた子」である。

 

ということが挙げられます。

 

何故なら、「ませた子」というのは、これを言えば大人たちは驚くだろうということを計算に入れて発言をしているからです。

 

そして、「ませた子」つまりは「バカの子」が常に探している「大人たちを驚かせる言葉」というのは、世俗的なレトリックのあるもの、とりわけワイドショー(バカが見る象徴)や週刊誌のような低俗なカルチャーに跋扈するような極めて低俗な言葉であります。

 

つまり、その程度の汚い言葉で喜ぶようなバカな親を喜ばせるために、あえて低俗な言葉を選ぶように、思考が低俗化、快楽化していくのが、「ませた子」つまりは「バカの子」のマインドフォームなのです。

 

 

バカは、「分化」を楽しみます。

「なーんだ、それは○○(低俗な言葉)じゃないか、ハハハ」と事物を低俗な言葉に置き換えて、分かった気になって笑うのです。

 

例えば、バカと話した時の例。

 

私「○○と○○が結婚したらしいよ、しかも、もうすぐ子供も産まれるみたい。」

バカ「子供?なーんだ、できちゃった婚かぁ、ハハハ」

 

 

何故、こんな当たり前なことを、繰り返して表現するのでしょうか。 

このバカは、「できちゃった婚じゃないか」、という言葉の裏側に、「避妊をせずセックスをしたのか」という事態を貼り付けて、それを言外に表現することに何らかの「おかしみ」を期待するバカなのです。

 

 

病気です。

 

 

あるいは、ただのバカです。

 

 

バカは理解力がないので、現象に名前(ただしバカでもわかる低俗な言葉)を付けて、分かった気になって笑うということしか、言語化のレトリックのレパートリーが無いのです。

 

バカは知的に冷静になれないから、簡単なレトリックに頼って、冷静な感じを演出し、賢ぶるしかないのです。

 

 

このバカとバカの子(もちろんバカ)との会話は、容易く想像ができます。

 

バカ親「○○さんと○○さんが結婚したんだって、しかももうすぐ子供も産まれるんだってぇー、楽しみだねぇ」

バカの子「へぇ、できちゃった婚でしょ、ふふふ」

バカ親「まぁ、この子ったら、そんな言葉を知ってるなんて、ませた子ね、ハハハ」

バカの子「(したり顔)」

 

 

こういうクソバカ親の態度を見て育ったバカの子は、あらゆる現象を低俗化、世俗化する思考習慣を身につけるために直向きな努力を続けます。

 

 

テレビを見たり、バカな友達を作ったりします。

 

そして、どんどん「ませた子」であることに何らかの自己肯定感を得ていきます。

 

 

「ませる」ということが、「大人っぽい」ことだと思って、肯定的な態度を示してしまうのは、バカ親の悪い癖です。

だいたい、子供の頭でも分かるような「大人っぽい」ことなんて、セクシャリティ性のあるものくらいでしょう。

 

 

バカとチンパンジーはセックスが好きです。

 

また、所謂、「猿のセンズリ」といって、知能障害のある猿にマスターベーションを学習させると、そればかりやって過労で死んでしまうという実験があります。

 

 

「ませる」とは、「バカの真似をする」という低俗極まりない思考習慣です。

そしてバカは、簡単なレトリックしか取り入れようとしない。

 

つまりは本質を言語化しようとしない。

 

いつまでも話し言葉だけで考えてしまう。

 

 

自分の思考や判断を全て、外部の反応閾値に預けてしまっては、学問も芸術も、あらゆる知的行為の道は閉ざされてしまいます。

最も、バカとして生きるには、ただそういう刺激を授受していれば良いわけですから、世話はいりません。

 

 

自分の子供が、ませた子(バカな子)にならないように、日々の読書や言語活動の鍛錬を怠らないようにしたいものです。

淡家朴『育んだ創造力で精神を病む』(2019)

 

 

知育玩具の、創造力を育みますというキャッチコピーに目掛けて、吐瀉物をぶちまけてやりたいという思いに、毎回なる。

 

 

バカの子はバカだということは自明だ。

 

いくらクソバカ親が子に、そんなものを無限に買い与えたとて、知性は遺伝する。

 

 

創造力など、あるいは想像力など、育まない方が良い。

 

他者に評価されなかった創造力は、やがて歪み捻じ曲がり、妄想力となって、統合失調症患者ばりの脅威の虚偽記憶と、被害妄想の世界へ失墜し、360度、365日、怒り続けなければならなくなる。

 

生存に必要のない想像力までも涵養してしまえば、それからは精神病院から遁走の日々だ。

 

 

歌を歌ったり、絵を描いたりするのが、辛いのなら、一度手を休めてもいいかもしれないと、何も知らないクセに知った口を聞いたバカを思い出して、殺意を確かめてみる。

 

 

溜まってきた鬱憤の吐き出し方を知らない。

 

 

猫の死骸の子宮をこじ開けて、そこに射精でもすれば、スッキリするかもしれない。