淡家朴『禁酒』(2019)
自閉スペクトラム症や、ADHDといった発達障害の夫を持ってしまった妻が、夫の理解に苦しみ、カサンドラ症候群やパニック障害を起こしてしまったといった夫婦問題のモデルが、精神医療と、家庭裁判所を中心にして流行したのは、今や欧米だけの話ではない。
ワンライフ、ワンラブ
といった、脳天気なラッパーのライムように結婚生活がうまく成り立ち続けるということは難しい。
夫婦関係に限らず、長期的な人間関係を形成、維持する為に、どちらかが、より多くの事情や駆動因を理解、把握して、勘案していることの方が、そうではない場合よりも多い。
私は、バカが嫌いだ。
しかし、私自身がバカではないとは限らない。
つまり、何かについて私が「バカ」だと論じているのは、対象を分化しているに過ぎない。そしてその分化とは、私の個人的な解釈に過ぎない。
そして私がバカだといって卑下している理由や動機が、私と他者との相対的関係において、つまり外部の世界が私にそうあるべきだと強いている、何らかの信号や記号を鵜呑みにしたもの、それ自体による解釈かもしれない。
私を私と成している意識は全て、私と社会との関係の上に成立しているからだ。
私は、いま、偶さか婚姻関係にある異性と暮らしている。そしてその人に「妻」という衣装を着せないようにしている。
「妻だから、こうあるべき」
「妻として、当然のふるまい」
そういう世間の、正常なる判断という狂気からの解放について、様々な思考実験と実践を繰り返している。
家庭なんて顧みないで良い。
子供だって、勝手に育っていくだろう。
好きな時に好きなだけ、好きなことをすればいい。
私以外に好きな人が出来たらば、
私を置き去って恋愛していただいても結構(ただし、隠れて内緒にしていて欲しいが)
さて、
話は変わって、
「禁酒」である。
私は、お酒を飲むと、「語りが多く」なる。
よく言えば「お饒舌」
ふつうに言えば、「キチガイじみてくる」
普段から、胸に秘めたイチモツは、「まぁ別に、わざわざ口に出すまでのことでもない」という理由によってのみ胸にとどまっている。
つまり、酒の酔いで、この「らち」を開けてしまうと、暴れ馬が一斉に走り出してしまうのだ。
それは観念奔逸に近い。
きっと、ウザい。
とりわけ、人間存在におけるフレーム問題を、ギリシャ、インド、中国、それぞれの中枢思想から脈々と続く、解決不可能な基本命題を、勝手な解釈と浅薄な知識で語り始めて、キリを知らない。
「死」とか「存在」とか「幻想」とか、
そういう極めて抽象的なものへの思弁が始まってしまうと、もう手がつけられなくなる。
はい、お開き。
である。
文脈の著しい飛躍を平気でして、誇大妄想の敷衍を延々として、脳髄を払底して徹底的に極論を述べ続ける酔っ払いと化してしまうのです。
バカと天才は紙一重である以前に、天才とは、自分に自信が無いが為に作り上げた、自己の虚像であって、言わずもがな…。
大概にしておかないと、
お愛想。
となるかもしれません。
ですから、私も、酒はほどほどにしないと。
しかし、安くて済む快楽としては、最も手軽で、簡単に済むのが、酒。
いつも、お付き合い、ありがとうございます。
実は今日で、入籍1周年。