淡家朴『謝罪攻撃』(2019)
人は知性の多寡で相違する。
怒りという感情の正体は、
「理解不能」による「混乱」だからである。
理屈ではかなわないというのは、
かなう理屈を持っていないと、
言い換えることができる。
その上で、「謝る」という行為の無意味さについて考えてみる。
私が一番最初に謝ったのは、いつだろうか。
そして、それは誰にだろうか。
親に?兄弟に?あるいは、周縁者に?
覚えてはいないが、私はこの、「ごめんなさい」という言葉の持っている意味が、理解できなかったことだけは強く印象に残っている。
幼児期の頭は、極めてかたい。
極めて自己中心的である。
これは、ピアジェの幼児研究において知られている。
したがって、自己の非を認め、他者に想像力を這わせて、それが是正されるべき事象であるということを完全に認識することは、脳生理学的にも、発達心理学的にも不可能である。
しかし、社会現象として、人は謝罪をしなければならない場面に立ち会うこととなる。
したがって、周囲の教育者は、幼児に、それが幼児の知能において不可解な要素であったとしても、身につけさせなければならないことと了解される。
私も、そういった周囲の大人たちの心性の中に諭されて、鞭を打たれて、「ごめんなさい」を始めて発言したことと思われる。
しかしながら、本質的に、私は今だに他人に「謝れない」タイプの人間である。
そして同様に、他人から「謝られる」ことに対して、極めて不可解な印象を受ける。
私は、他人に、謝られると、
「こちらこそ、ごめん。言い過ぎたよ。」
という印象が、直ちに沸き起こり、それを他者に伝える。
すると他者は、何となく和解できたというような気になって、安心して、また再びその生活を再生する。
現象として私は、この一連に対して、全く納得ができない。
何故、私が、逆に謝り直さなければならないのかということ、そして、そういう風に言い合うことがすべて、筋書き通りのように進行すること。
お前がバカだから、私はバカなお前に対して、合わせてあげなければならない。
何故、私は、このバカを納得させるために、「こちらこそ」などと気を使わなければならないのか、分からない。
そして、それをしなければ、永遠に溝が横たわるような気に駆られてしまう。
そう思い込むのだ。
しかし、そういった謝罪の暴力性に対して、人々は極めて盲目的に了解している。
そういう不文律が、すごく嫌だなぁと思う。
では、どうすればいいのか?
私は、こう考える。
何故、今回、このような意思の相剋が発生したのか、その原因と両者の責任に関して、思いつく限りで、それぞれの瑕疵について、つぶさに明らかにし、2000字のレポートにまとめ、提出をする。
これが、正しい「謝る」方法ではなかろうか。
小さい声で、少しこうべを垂れ、いかにも申し訳ないというような顔をして、「ごめんなさい」という魔法の呪文を口からこぼすだけで気がすむのは、バカなお前だけだよ。