承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『注意する声がうるさい』(2019)

 

 

人が30人も40人も集まって、全員が澄まし顔をして、静けさを保存しているという様子は、極めて異様である。

 

そこに咳払いの一つでも落として、その張り詰めた空気を緩和したいという気に駆られる。

 

 

30人全員が初対面という事情ならば、静けさが保たれることは、あると思う。

しかし、それが慣れ合いならば、どうであろうか。ガヤガヤとなることは必定。

 

 

先日、ある集団が、ガヤガヤしていた。

 

 

30人くらいの慣れ合いが集まっているのだから、このくらい当然だろうという程度のガヤガヤであり、別に、そういうことならば、うるさくもない、了解できる範囲での音量であった。

 

 

すると、青天の霹靂。

 

 

「おい!うるさい!静かにしろ!」

 

 

えっ、

凄い大きい声がした。

 

私は、これには了解できなかった。

 

いや、お前の声が一番うるさいわ。

 

 

と、憤りがあった。

 

 

 

なぜ、こういうパラドックスが起こってしまうのか、現象として、関心が起こった。

 

 

声を張り上げたのは、他でもない、教師だった。そして、ガヤガヤの正体は、生徒。

 

場所は、廊下。

 

時間は、授業中だった。

 

授業中止むを得ず、教室移動を強いられたのだろう、30人ほどの生徒と、それにストーキングする牛飼いのような教師間のワンシーンだ。

 

 

叫び散らかしたのは、牛飼い。

 

自分の率いる牛の声が、他の牧場の行いを妨げてはいけないという気に駆られての叫びだろう。

 

 

確かに、ガヤガヤはヒソヒソに変わったが、別にどうだってことはない。

だって、そのガヤガヤは、30人という状況には整合していたし、それを私は了解していたから。

 

問題は、牛飼いにある。

 

牛飼いの声は、明らかに度を越していた。

 

 

そして、思った。

 

この人は「授業中に話してはいけない」という正義の剣を、バカみたいに振り回しているだけではないか、と。

 

 

なぜ、話してはいけないのか。

なぜ、それを叱りつける声ならば、度を越すような音量でも、良いのか。

 

 

私は、分からない。

 

この人の考えていることが、分からない。

 

 

私の好きなロックバンド、マリリンマンソンの楽曲の歌詞に、「俺はレイプをする奴をレイプしてやろう」という歌詞があるが、まさにその歌詞通りの気持ちに私は、あった。

 

この、叱りつけている主体を、私は叱りつけてやりたいと、思った。