承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『身体感覚と思考体温』(2019)

 

 

"その言い方は「冷たい」"

"なんて「温かい」言葉だろう。"

 

 

ここで、心が温まる。或いは、心が冷え切る。という時の、温度とは、何だろうか? 

 

 

まさに今、強姦をしている最中だという男の心は果たして冷たいのだろうか?

或いは、老年介護に疲れ果て、今、まさに老いた夫の首を締め、殺害する只中にある、老いた妻の心は、果たして冷え切っているのか?

 

 

心が有る。心が無い。という言い方もあるが、果たして。

 

果たして、真夜中に養護施設に入り込んで、施設の利用者を次々と刺し殺していった男の心は、無かったのだろうか。

Twitterで自殺志願者を募り、各人を殺して解体し、部屋中のクーラーボックスに詰め込んで暮らしていた男の、その心は、不在だったのだろうか。

本当に?心が無い。つまり、意識が無いというのならば、歩くことも、対象も捉えることも出来なかったはずだろう。

 

シリアルキラー、殺人鬼、サイコパスというレッテルを貼り付け、人を人でなしと認識し、分化することは簡単だが、どんな人間の心も、たしかに存在して、それはきっと、何らかの温かさも保存していたことだろう。

 

 

そんなことは分かっている。

分かった上で、遠ざけるしかない。

 

 

殺人犯をアリエナシオンとして取り扱って、あとは自分の身に災いが起こらないことを祈るだけ。(アリエナシオンはフーコーの言葉で、社会的な疎外者を指す)

そういう古の民のような思考コードを、人類はこのまま保存したままで生きゆくのだろうか。

 

 

人は、哺乳類である。

 

 

つまり、生まれ上がった生身は、母親の乳房に。或いは、その辺の女の乳房に。或いは、工場で大量生産された粉ミルクの水溶液が注がれた乳房の模型に、齧り付かなければならない。

 

 

乳児の心性、及び、情緒の発達において、

 

セルフタッチといわれる自己認識を始める前に、まずは母体という他者を認識せねばならない。

 

つまるところ、外界刺激に拠る。

 

 

そうして、介助されるように、泣くなどして外部へ働きかけることによって、乳児は成っていく。

 

 

3歳〜6歳。

ピアジェの幼児研究によれば、幼児期の心性として、自己中心性というものがある。

 

本格的に、自己対他者という視点を確保した人々は、次に「愛着行動」や「分離不安」という心性を獲得する。

 

 

愛着行動は、生存戦略である。

親に追従することによって、その身を生かす本能である。たとえそれが、虐待親、毒親であっても、幼児は愛着行動をとる。親に捨てられないように、サバイブすることを本能的に強いられるのだ。それは、親にどんな不当な仕打ちを受けようと生きなければならないという倫理によるものではない。死にたくないという恐怖、そして、親と離れること、つまり死に易い状況に自己を囲い込むことへの直向きな拒絶、つまりは、分離不安の作用によるものである。

 

 

このように、私たちは、前向きな倫理観によって、生きているわけではない。

 

 

全ては生存におけるリスクを、つまりは「死」をヘッジする為という、極めて消極的な理由によってのみ、人生を生活しているという原理が、心性の根本に備わっているのだ。

 

 

 

 

我々は、心に欠落が無ければ、乳児期、幼児期を遣りおおすことはできない。

ここで心の欠落とは、他者に構われる為の、あらゆる生存戦略のことである。

 

 

 

ところで海の水温は、冷たいだろうか、温かいだろうか。季節によるか。地域によるか。

 

 

人間も、同じようなものではないか。

 

 

私は冬の海を冷たいと思うだろう。

 

 

冷たいと思わなくなったらば、

 

 

私はもう、そこには居ないのだから。