承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『私とTwitter』(2018)

 私は凡そ大学二年位からtwitterを辞められ無いで居る。此れは恥ずべき事態なの乎もしれ無い。少し考えて見た。Twitterで綴ったツイートを偶さかに省見ては、目が滑る。余りにも文体が其の場限りと云う感じで、自分で見て居て阿呆らしく成る。故に、私はツイ消しに精を出す。否、出して仕舞った精を片付けると云った具合でツイ消して往く。而して私は四六時中、此の様なレベルの低い文を練り出して居たと云う事実に虚しい思いをする事に成る。私は持病に躁鬱が在る。躁ぎと鬱ぎを、一年に四回程繰り返して来た。最も此処二年、其の周期は一年に一回の躁ぎと一年に一回の鬱ぎと成って来て居て、其の代わりに症状が酷く成り、鬱ぎ期の心内状況も、愈々病的な物に成って来て、医者の薬を飲む事も多く成った。其の原因の一つに
twitterが関係して居るのでは無いかと自分を疑って見る。Twitterは業の遊戯で在る。集合知に潜水して言語感覚を装飾し、或る程度の風味を付けた文を創り、リアルタイムで公開する形式で行い、私小説をライブで綴り続けると云う遊戯で在る。其の特性としては、受け手の無意識を意識する必要が在る事。常に、他者の呼吸や思惟に曝されて居る事。故に、知らず知らずの内に、文体が何処か大衆を目指して求愛を始めるのである。と、此処まで書いてから突然、
twitterの事を考える気力が萎えて来て、此の儘では即刻種切れと成って仕舞いそうなので、一つ遠回りをしようと思う。

私は病で在る。如何いう病で在る乎は明確には解らないが、私一人は此の病の目撃者で在る事には一片の疑いも無い。私は、極めて脅迫的に私で在ろうとする。其の為には嘘を嘘とも思わない。極めて病的に、私個人に固執するのが私で在り、私と云う病のLabyrinthを構築する。最近の私は随分と我儘で在る。私は、世界から大人に成りたいと願う。其れは、世界の小共から崇められたいと思う驕慢に拠る。世界の小共とは則ち、社会の大人で在る。私を、気違いだと笑って澄まして貶める様な連中で在る。彼らよりも多くを持って居たいと我慾を肥え太らせて仕舞う。私は、時間も金も趣味も、そして何よりも私の創造及び作品と学問芸術を、より多く持ちたいと思う。高踏で在りたいし、魂を高い次元で充足させたいとも願う。詰まりは、馬鹿に近い。左の様な病の持ち主で在る。障碍者で在る。

さて。此処まで私の聖痕を見せ付けた訳だが、左の様な理由で、私は私が思わなく成る迄思い続けるし、其の思いの捌け口として、twitterを続けて居ると云う結論が導き出せた訳で在る。馬鹿にして戴いて構わない。最も低次元の遊びと申し上げて宜しい。今迄もそうされて来た。見て見ぬ振りで構わない。今迄もそうされて来た。「何を考えて居るの乎!」と御咎めを受けても何ら私は心ほほろがす事は無い。宛ら、排泄した後に尻を拭う時の表情と何ら変わらない面を提出するでしょう。私は私の性根が腐り切って居る事を態々語る事に嬉々として従事して居ると云う訳です。厭きる迄は、続けます。厭きる迄が私のtwitter生です。失礼。