淡家朴『よりぬきzig2月号』(2020)
努力する人は希望を語り、怠ける人は、不満を語りながら場当たり的にまた希望をも語ることができる、と語りながら井上靖の墓を暴き、その霊液を浴びる。
2020.2.3
寒い。井伏鱒二を生き埋めにしたような寒さだ。
常に今日の自分が音楽を聴くのであり、前からその曲が好きだったというのは、何の根拠にもならない。
命もペイペイで。
「あなたの笑顔に出逢えた ありがとう」みたいな文句が、崩した毛筆で書かれていて、笑顔のお地蔵さんのような挿絵が添えられている。非常に厭だ。
大人の欺瞞によって措定された「当たり障りのなさ」によって、傷付く人がいるということ。「大衆の善かれ」が、確かな「否定的な出来事」になる人がいるということ。そういうことを、偶に思い出して欲しい。
「大人になれなかった」という文学的な感じではなくて、世間一般の大人の概念に再定義の必要があるということ。
感謝されたくない人もある、という可能性にも目を向けて。挨拶されたくない人もある、という可能性にも目を向けて。
2020.2.4
分かりやすい奇跡にだけ気付き、分かりにくい奇跡には永久に気付けない。
2020.2.5
脊髄反射で動くとキモいので、一度文化的思考を経由しなければならないのだけど、自律神経系が機能しないとそれもできない。
2020.2.7
Twitterを、人生の一部として真剣に使う人もいる。ということを、Twitterを毎日利用していて、思わずにはいられない。
人生を、物語的にまとめ直すことさえできれば、たとえどんな病理や不幸の下にあっても、人間として完全な状態でいられるということを、知っている人たちは多い。
2020.2.16
片手間に、遊びでやっているわけではない。仕事も、人生も、そう。
2020.2.17
勝手に就職して、勝手に毎日決まった時間に出勤して、勝手に子ども作って、勝手に育てているだけ。誰のためとかではなく全ては自分のため。自分の勝手。
勝手に始めたことだから、全て勝手にやめられる。気が向いたら、失命する。
もっと真剣に生きよう。ただ、目の前の多くの人々が、経験的にそうする場合以外の仕方で、たまたま私を真剣に生きよう。
経験せず、自信を付けず、逃げる。そんな人生を送りたい。
死ぬ、とは別の方法で、生きることの諦め方を探求したい。
2020.2.19
「ゲームのレベル上げ」という「独特な努力」を、往々にして努力でもなんでもないと唾棄されるような「独特な努力」をそれでも努力と呼ぶ。全身を上げて、全生涯をかけて、ゲームを努力と呼ぶ。
弱くなれる理由を知った僕を連れて進め。
2020.2.23
幸せになろうとしたり、幸せを自覚したり、幸せを奪われることを嘆いたり、幸せを奪われた他者を見て密かに自己を慰めたりする。なぜ、そうなのか。
2020.2.24
生命を粗末にしたくはない。しかし同じようにまた死も粗末にしたくはない。正の感動を大切にしたい。しかし同じようにまた負の感動も大切にしたい。
「病んでいる」のでもなく「グレている」のでもなく、「たださみしい」のでもなく、「ああ、あの人、本気(マジ)だったんだ」っていう解釈の宛先になりたいだけ、ということだってある。
恥ずかしげもなくファミリーカーを乗り回し、乳児が乗車していることを後続車に知らせるステッカーを無闇やたらに貼りつけ、夫婦間でパパママと呼び合うような人々。そういう人々を「生殖階級」と呼び、最も忌むべき存在として距離を置いている。
池田小襲撃や川崎カリタス通り魔にあった自己表現としてのルサンチマンを、人々は全身全霊をかけて忘却しようとする。とにかく犯人が絶対に異常で、絶対に悪なのだと思い込もうとする。ほとんど天才的に、非を偏らせる。
2020.2.25
なぜ私は毎日毎日誰にも褒められもしない仕事をしなければならないのか。
なぜ私の人生なのに、誰かとともに共産主義的な時間を過ごさねばならぬのか。
2020.2.28
淡家朴『よりぬきzig1月号』(2020)
今年初めて会った職場の人に、「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。」と挨拶しましたところ、「あー、はい。」と言われました。
新年の挨拶をして、「あー、はい。」と言われたのは初めてなので、新鮮な気持ちでした。
今はまだ、この不愉快な人間関係に耐えるしかない、のか。
戦争に心が負けてしまわないように文学を読み続けるパレスチナの少女のように、勤労に心が負けてしまわないように文学を読んでいるのだろう。若さとかではなく。
勤労だけではない。あらゆる生活の不安。これと戦うために文学は必要だ。
酒に溺れてなどいない。泳いでいる。どこまでも、泳いでいく。
2020.1.7
去年使用した勉強用ノート、8冊と半分。今年は何冊になるだろうか。
2020.1.8
他者の顔、言語の放送、元気という現象、面の皮が綺麗で、真皮にはコラーゲンが生成されている具合。
これは、ほとんど無限に近い遊戯である。無限に近い音楽鑑賞。永遠に続いていく虚無的行為。
無限に近づくこと。時の洗礼を受けた音楽を聴き、時の洗礼を受けた文学を読む。
2020.1.9
口角から目元にかけての筋肉を緊張させて、少し声の調子を上げ、頭を下げる仕草をとりながら「すぅいませぇーん、ご迷惑をぉおかけしますがぁ、しーつれーい致しますぅー」と言って電話を切る社会人。冷静に見ると、巫山戯ているようだ。
2020.1.10
心が酒浸がってんだ。
2020.1.11
「生きづらい」が初めからテーマになって書店に並んだものには、殆ど興味を惹かれない。というか、その「生きづらい」とは、おそらく違うのだ。
生きづらさ、で商売している人たちは、上手くやってけてそうだし。
「変わり者」が、「自分らしく」あるが為に「受難する」という物語。ナイスガイとしての異端。ロックンロール的説話構造。
2020.1.12
ソシオパスの主人公が、乾燥大麻を吸っているシーンを見て、日本人の身体で、これに対して何を思えばいいのか分からないなぁと。よし、50年代アメリカ文学だ、と。
公園に大麻が生えていたとして、その場で食べたら犯罪になるのか。どっからが「所持」ですか。
「成熟した茎と種子」というのは、どこから「成熟」でしょうか。大麻の成熟加減というか、グラデーションが分からない。THCの含有量とか、でしょうか。
「あそこに生えているのは大麻だな、食べてやろう」と思って(薬物として認識した上で)「食べた」としたら、それは、アウト?
2020.1.13
陰茎を勃起させて、真核生物ドメインの未来を考えたらいいのか。例えば、自己増殖能力、エネルギー変換能力、自己と外界との明確な隔離等、生物としての基礎的情報のそれらが、それぞれ400ギガバイトくらいの容量で、1400ccの脳髄に詰まっている。AIは民主主義国家を、シナプスのレベルで支配し始め、ヨーロッパは、もう移民を受け入れない。イスラム圏は神と共に人類最後のシナリオを選択し、アメリカでは多くの子どもたちがリタリン、メチルフェニデートを処方されている。
サブカルもアングラもメンヘラも、そんなものは無いのではないか。あるのは、差異を求めただけの遍歴ではないか。ただ周りの人がそれはしなかったということを、ただ引き受けたというだけではない、か。しかし、しかしだ。しかし、それこそが、それこそが…。何だっけ。
ヘテロセクシャルの欺瞞のようなラブソングを信奉しなければならないと喧伝するテレビ。縦に壊す。
2020.1.14
若い人は機械に強いでしょう、という文脈。
DeAGOSTINIのジャズ特集のコマーシャル。「聴くべき」「知るべき」と連呼する。音楽に「べき」なんてねぇよ、などと思う。
2020.1.15
うんこで出来た架け橋を素足で渡らなければならない時もある。
2020.1.18
「僕らは位置について、横一列でスタートを切っ」てない、んだよね。親の経済的、社会的、遺伝的アドバンテージ、ディスアドバンテージを抱えて、別々の位置からスタートしてん。
2020.1.20
「私たち」は、どこにもいない。「或る国の共通言語を使う私たち」そういう「私たち」は、どこにもいない。「社会的虚構の上に言語によって、在るものとして表し表され合っている私たち」そういう「私たち」は、どこにもいない。
これ以上は、どうも味の付かなくなった私の中の深い部分の肉。そこから誤魔化しきれない腐臭が漂っている。
出来ないものは、出来ないままで、ずっと放って置いてしまった。
2020.1.23
ああダメだ、ああダメだ、と言いながら、日々を過ごしている。
2020.1.24
「物静かな人」いや、「(病的に)物静かな人」として、積極的に経験界をドライブしている。
マゾヒストは、性的に静かに座ることが出来る。
それ以上座り続けると、(経験界へ)帰ることが出来なくなる、というところで、マゾヒストは立ち上がり、動く。
「今まで頑張ってきた私を尊重して欲しい」という自我境界を、社会的にドライブさせることが出来る、そういう年齢に達した人たちが、欲望のまま、自我境界を実装している。
おしっこの匂いのするスーパーで、激安惣菜を漁る。MUSEのレジスタンスを聴きながら帰る。
少し悪くなった鯨の生肉を切り刻んで、山椒、花山椒、胡麻、胡麻油、葱油、唐辛子、にんにく、生姜、ポン酢、コチュジャンなどに漬け込んだものを食べている。多分、この調理法なら人間の肉も喰える。
ダサい性教育を小学生に施すより、全年齢対象のアニメーション作品のキャラクターが、「性器と肛門と尿道のない身体である」というところから変えて仕舞えばいい。つまり、性器と肛門と尿道を持ったプリキュアを放送すればいい。
或いは、性器と肛門と尿道をもったピカチュウを闊歩させればいい。
2020.1.28
淡家朴『よりぬきzig12月号』(2020)
読書は前頭葉が活字に寝そべるイメージ。
2019.12.1
ロシア産の赤魚を購入。カレーにする。
2019.12.1
日本はボラ、スズキ。ベトナムはバサ、パンガシウス。ロシアは赤魚。
2019.12.1
レジの労働者が、私の差し出した手の角度に対応して、微妙な角度を付けて、ゆっくりと手を離し、溢さずに小銭を渡し切る。それを私が溢さずに受け取る。これは当たり前ではない。これは驚くべきことである。奇跡である。
2019.12.2
学校の制服は正しく着ることができない人々が、アルバイトの制服は正しく着ることができるということは、教育がお金に負けているということを意味している。
2019.12.2
生殖はギャンブルである、か。生命倫理は思想である、か。
2019.12.2
倫理に普遍性を求める、ということは、本質的に革命を望んでいる。か。
2019.12.2
ラグビーが盛り上がった年だと言われても、私は一切そのことで盛り上がっていないのだけど。なんか感じ悪いです。
2019.12.2
スポーツ自体は好きでも嫌いでも無いが、スポーツを右翼的ナショナリズムの熱を逃す道具として使うのは、インチキだと思う。
2016.12.2
あくまでも仮の、例え話として、「子育て、というものは基本的に、MDMAキメセクよりも気持ちいい。」という言説があったとする。
しかし、こういうことを、言わなければならないのではないか、という仮説。
性教育と、薬物教育を考える。ダメ絶対などというダサいアフォリズムでは無意味なのではないか、と思う。
ただし、アジア人の身体で、性に基づけば、の話。
セロトニン、エンドルフィン、オキシトシンが大量分泌され、細胞が射精する。
健全な狂気について、教育や学知の整備が、整って居なさすぎるのではないのか?などと夢想する。酒の飲み過ぎ。
2019.12.2
朝。女子高生が三人、自動車道路を自転車で並走している。これは、人類が戦争をしてきたということの名残を明確に残しているといえる画だ。
2019.12.3
10億円が当たるという。しかし、10億円は100キログラムなので、頭上に落下すると、人は死ぬ。
2019.12.3
鼓膜と視神経と、少しばかりの実存主義思想さえあれば、生きていける。あとは、暴力がないことを祈るだけ。
2019.12.3
共感と軽蔑を意図的に履き違えた上で、差別意識の発露でしかないような特殊な可笑しみを他者に強要する。それが、今のテレビ、特にバラエティ番組に顕著な、暴力的構造です。
2019.12.3
おしっこを漏らしちゃう乳児と、放射能を漏らしちゃう原子力発電所。
2019.12.4
乳児が泣く。不快を取り除いて欲しいという実践的要求である。不快の原因を推量し、実践する。その繰り返し。
2019.12.4
この国の若者は、幸せに暮らすことは容易かもしれないが、どのタイミングで結婚をし、どのタイミングで育児をすれば最も幸せか、あるいはそれをしない場合と、する場合では、幸せの度合いがどのように変容するのかについて、完全に無知である。そして実際、それは分からない。そうデザインされている。
安倍という男を見ていれば分かる。自分だけ、自分の世代だけ良ければ良いと。それだけを考えて政治を行なっている。残された多額の借金と、大量の高齢者と、放射能だだ漏れの原子力発電所。そして、不安定にも幸福な不感症の、精神を病んだ若者たち。この国は、もうじき終わる。
これからの日本は、どうすればいいか。
答えは、一つだけである。
大麻と阿片を解禁しなければならない。
そして、安楽死を解禁しなければ。
2019.12.4
「平均寿命が延びた」というのは、「人間の生命体としてのコンディションが進化した」というのではなく、「老いぼれながら、患いながらも、ずるずると延命することができる技術が進歩した」というだけなので、そこのところを履き違えないように。
2019.12.5
流行性感冒の抗原を打ったところが、非常に腫れて痛い。
2019.12.8
実家。こんな辺鄙なところに家がありましたみたいな趣旨の下らないテレビ番組が、殆ど爆音といってよい耳障りな音量で流されている。親がカキフライを何個揚げるかで揉めている。
2019.12.8
弊タブララサが、後天的コンテンツ「意のままに動かせる右手」を発見したようで、右手ばかり見ている。
Bluetoothスピーカーで、Coldplayの新譜『Everyday Life』を流しながら、生まれたばかりの子をあやす。それは、2019年の冬の出来事である。
性対象を認識し、性欲を表現するということ。このことは、もっと慎重に行われなければならないはずなのだが。
「○○に依存するのは良くない」というのは、塩と蛋白質と水だけを摂取しているという人だけが語ることができる贅沢な警句だ。電気、火、糖分に依存している人は、弁えて、黙れ。
煙草や酒に依存することをバカにする権利があるのは、糖分や脂肪分の一切ない食事、つまり無味無臭の蛋白質と、水と塩だけを摂っている者だけです。
今の部署。全く尊敬のできない、寧ろ嫌いな部類の人々。15歳以上も年上の人々。物理的にも心理的にも距離のある、そんな人々に囲まれて、人間関係も殆ど育まず、よく一年も続いたものだ。ネットのおかげだと思う。職場は辛く、居場所はないが、ネットには、居場所がある。もっと大切にしたい。
一度も誰にも職場で励まされたことがない。非難か憂慮か、よく分からない一方的な冗談のようなもの。分からない。
しかし、人間は、励まされなければ、仕事などできない。挫けてしまう。なぜ、職場の人は私を励ましてくれないのだろうか。
この、かけがえのない私を、職場では誰も励まさない。このことは、もっと考えなければならない。
いや、一度だけある。酒の席で。しかし、私を励ましたその人は、職場では最も虐げられているニュアンスの人だ。
「この環境で、よく自己を保てたね」というような抱擁のような励ましを、神の労いを、私は自分で考えて自分に語りかけることしかできない。それは、誰も言っては、くれない。
2019.12.11
「現代は苛烈な競争社会だから、すぐに病むような気の弱い人は、とっとと淘汰されて速やかに消えなさい」と言って終わり、非難して終わり、憂慮して終わり、というのは、絶対におかしい。しかし、まわりはそういう人ばかりだ。
私は「甘やかせる」わけはない。ただ、私の生涯に接近した時に、それまでの経験と比較して、「甘い」と規定出来得るような感覚が起こったというだけ。それは、私に展開されるべきものではないし、私は「甘く」はない。
私の考えていることや、好きな哲学は、社会的には何も意味がないではないか、と驚いている。会議をする大人たちを眺めながら、そう思う。
資料をご覧ください。と言われて、その資料を見なければならない、というのが何か、いやだな。そうしない。
それなら、モンハンをした方がいいかもしれない。
生きると、さまざまな問題に発展する恐れがあり、極めて危険である。生きるのは、安全性に問題がある。
生命を前提にしなければ、安全も危険もない。生命を前提にするということは自明なので言う必要はないという妄想、パラノイアだ。
2019.12.12
性器性のある話し方をするのは、よくない。
性器的パロールを使う女性は、インチキだ。
性器的な声を使い挨拶をする。リズムが生まれる。
それこそが依存のリズムだ。中毒のリズム。
鰐の手足、牛の性器、オットセイの睾丸、豚の頭蓋、兎の胴体、モンシロチョウの羽根などを縫い合わせキメラを作り。丸焼きにして正月の親戚の集まりに持参するという計画。
「指導してくださった先生方、先輩方、仲間や後輩たち、そして何より家族の支えがあったからこそ、今の自分があります」そういう台詞を、本気で言っている。そして、それは批判されないだろう、肯定されるだろうと本気で信じている。パラノイアキッズたち。
そこに私は、教育を見ない。あるのは、パラノイアベースの力の認識だけだ。
パラノイアベースの力の認識は、いじめや戦争につながっている。
相手に被害妄想をさせる為だけに考えられた絶妙な声の出し方や、笑い方、目配せの仕方がある。そういうものに、やられたのだと思う。
他人を傷つける天才というのは、絶対数居て、天才的なタイミングで否定的言動をして、静かに誰かを傷つけている。そしてそのことを誰にも言わずに人生の愉しみにしている。
2019.12.13
88歳になる女性と通話した。
彼女は死病にかかっている。じきに死ぬ。それが分かって辛い。しかし、彼女の声は、先程、私のシナプスを通過した。
2019.12.14
労働の無意味さに身も心も侵食された者が、労働の意味を語り始める。
ショーペンハウアーのペシミズムがいいのは、彼が72歳まで生きたというところにある。
芥川龍之介が羅生門を書いたのが23歳、谷崎潤一郎が刺青を書いたのが24歳、ヘミングウェイがわれらの時代を書いたのが25歳、芥川龍之介が地獄変を書いたのが26歳、ヴィトゲンシュタインが論理哲学論考を書いたのが27歳。何か作らなきゃ。負けてる。
2019.12.15
コミットメントしない感じ、誤魔化す感じ、軽薄な感じ。それが、なぜ善くないのかを考えていました。
内気みたいなスタンス、慢性ノイローゼ気味みたいなスタンス。それは、悪か。
神様は充分に下品な最低な力をくれた。
生殖をすることも、戦争をすることも、貧しい国から作物を取り上げることもできる。
2019.12.16
努力や苦労の反動で、「偉そう」になってしまっている大人を、私はどうすることもできない。出来上がってしまった大人として、見るしかない。
消費しか学んでいない。消費とは何か。それは、効用の実現。有用性の顕現。退屈は苦痛となる。苦痛から逃れる為に消費をする。何かに強いられたように楽しまなければならない。そういうゲームが、もうすでに始まっている。参加させられている。
攻撃的自己表現(言い放す。押し付ける。言い負かす。脅かす。大声。命令。支配。)すれば、動くのだと相手に学習させないこと。それは、お互いの為にならない。冷静にならなければならない。パラノイアに歴史を作らせてはならない。
私は、生きている。心と身体の健康、夢、生きがい、心の拠り所、経済的自立、衛生に関する全ての、シナプスやニューロンに展開されている言語未満の知覚の契機を抱えて、生きている。
2019.12.18
不安は幸せ、疲労は幸せ、病気は幸せ、死ぬことは幸せ。
権威ある規範を疑い、我心の自由を束縛するものを認めず、他人の社会的権威に依存せず、自らその身を律することを、誓います。
この、目の前の、目には見えないけれども、たしかに、たしかにある。この、歴史において既に作動してしまっている、このすべて。この抵抗。この文明コード、心理システム、思考パターン。見える。半透明になって見える。
上半身に精神機能を、下半身に生殖機能と排泄機能を。
2019.12.19
印刷機とコミュニケーションを取る。人間機械関係を大切にしている。
職場では、頼りになる機械、尊敬できる機械に恵まれて、私は幸せです。
全身と全生涯をかけて、底の底から納得できなければ、全部切れ、塞げ、拒め。そういうことをいつでも機械は教えてくれる。機械最高。機械ラブ。
老眼鏡の広告に印刷された若い男女も、車の部品会社の人々の動きも、すべてが不可解。
音楽を聴き続ける病。
Twitter上の、那由多につぶやかれたツイートの有象無象を集めて、『兆葉集』を編纂する。
兆葉集では、全ての言説に意味があると仮定する。人間の脳が纏め上げ体系化できないが、しかしAIには見えているような、ウェブ上のシンギュラリティ言語体系。
2019.12.20
深夜2時からバイクをふかす国道の非行少年たちと、早朝5時から玉を突く公園の老人たちは、ほとんど同じダイナミクスで動いている。
国道の非行少年たちも、公園の早朝老人たちも、いずれも集団の生命のケア。そしてそれは、かつてのネアンデルタール人が滅んだ理由でもあるし、オーストラリア大陸、アメリカ大陸の大型動物相が絶滅した理由でもある。
キングクリムゾンの、『21世紀の統合失調症の男』(1969)を聴きながら、朝食。
Tポイントカードお持ちですか?という店員の問いを三回ほど聞き返して、分からんと首を振る老人。おそらく、その質問を成り立たせている「ティーポイントカード」という音のもつ可能性を知らないのだろう。
2019.12.21
「「何かを肯定している自分を肯定している自分」を肯定している自分」」を肯定している自分、を肯定している。
別にそうしなくてもいいけれど、そうしないのは寂しいよね…。みたいニュアンスで、他者を束縛する愛着障害者。
愛情や信義などをめぐって複雑化した構造的な葛藤、煩悶。こういうものを癒す合法的な特効薬はない。代替えとなる可能性は、自己破壊や自己解放の類い。
癒しとは、生は死んでしまうのだということを明確に意識することだ。
2019.12.22
私が、今ここに確かに意識があって、生きているのだということを、他者に認知してもらおうと思っていた、それだけだったはずなのです。
2019.12.23
Black Santa Claus Is Coming To Town.
「自分の言葉」という現象。
忘れているという無の状態から、発言する直前には、想起しているということ。
2019.12.24
「クリエイティブに、個性的に生きるのが善い」と思わさせられて、クリエイティブ風味の商品を買わされている。既に発動してしまっている歴史の駆動因に巻き込まれて。
職場で読書中、上司に「何読んでるの?」と尋ねられたので、「レヴィナスです。」とお答えすると、「?」な顔をされたので、「レヴィナスっていう哲学者の本です。」と付け加えると、「哲学者かぁ〜」と言われ、何か少し恥ずかしい気分になりました。
「職場で哲学しちゃってる人」的スキームが俄かに生じて、恥じ入る。
2019.12.25
エレベーター内。歯磨き粉とシャンプーと唾液のような臭いがする。
職場の日本人の男、女、その顔の構成、骨、皮膚の具合、血の流れ、細胞、二重螺旋構造、シナプス、神経伝達物質、分子、原子。全てを忘却します忘年会。今年もお疲れ様でした。
人間の前身の細胞60000000000000個。人間の脳の容積1400cc。
2019.12.26
どれだけ可愛らしく着飾ったアイドルも、内臓がぐちゃぐちゃに詰まっているのだ。
2019.12.27
ノイズを聴き言語化するパラノ技術。電波筆記。ノイズに耳を澄ませる。幻聴を摑まえる。飛んでいるので、わさっと摑まえる。
生まれさせたこと。つまり出生が既に虐待であるということは、忘れてはならない。
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
2019.12.28
テレビ番組。「運動神経悪い芸人」というもの。これは、身体障害者の揶揄を助長する笑いだ。
私は何者である必要もなかったし、また、何者でもなかったということ。
紅白歌合戦。何を見せられているのかが分からなくなり、一瞬気を失いそうになる。これが、日本の音楽か。嘘だろう。
2019.12.31
淡家朴『よりぬきzig11月号』(2019)
私を軽蔑する人にも、性愛関係の為に優しくする人や、利害関係の為に慕う人がいるということ。それを想像しては胸が痛むのです。人間は、虚しい。
11/1
人を傷つけたくもなければ、傷つけられたくもない。純粋に、生の喜びを積み上げたい。認め合いたい。
11/1
実務時間に脳内に現れる他人の時間。
11/3
幸せなのではなく、そういう気分になったということを言語化して、信仰している。
11/4
全裸になり、鏡の前に立つ。天稟の身体で、何ができるかを考える。
11/5
筋収縮と弛緩。
11/5
11月の朝。幼稚園の鉄の門を開ける音が響いている。
11/5
歩道に乗り上げたデイサービスのハイエース。
11/5
ワームのような形状の乳児。
11/5
ODも飲酒も喫煙も性的刺激も、脳に幸福(という幻想)を知覚させる記号でしかないということに関して、頑是ない未成年のように無知ぶるのは、大人としてはどうでしょうか。かえって誠実ではないのではないでしょうか。
11/5
首の皺を伸展させ、指で擦り嗅ぐ。
11/6
ベージュのトレンチコートの女。ベージュのトレンチコートの女。ベージュのトレンチコートの女。ベージュのトレンチコートの女。
11/8
ただ何となく盛り上がってるところへアクセスして、ただ同じように踊って、ただそれぞれのところへ帰っていくだけ。
11/8
11/10
眠気という他者が、私の中に入って来るのを待つ。明日、目覚めた時の意識という他者が、私の肉体を存続させるだろう。
11/10
受精から出産、出生後すべての巡り合わせまで、すべてが奇跡であるが故、どの奇跡が最も刺激に長け、感動に至れるかを、半ば暴力的に捨象し、それを直向きに永久に信仰する。そしてそれ以外を直向きに永久に見ない。
11/11
一度も現在にならなかった無意識のうちの憂鬱が、言葉を与えられたいと跳ねている。
11/13
いつもファミリーカーの窓から、太い腕を出している人。今日は、太い腕を出していない。寒いからだろう。
11/14
男がタッパーをスプーンか何かで刮ぐ音がする。うまいのだろう。
11/15
ポケモンにはレベルという概念はあるが、寿命という概念はない。永遠の生が与えられている。ユートピアだ。
11/15
生命保険のコマーシャルが、「人生楽しもう」と言っている。
11/15
性欲の対象という、生物の根源的な観念をも、商品化するということ。
11/16
機械油と食物資源と、精嚢の中の精液。
11/16
幸せになりたいとは、つまり排他的な感覚的契機を受益したい。或いはその内容を、共同体から切り離して占有したい。或いはそのことについて、考えない権利を、忘却する権利を、行使したい。選択的無知でありたい。
11/18
家計に加え、ゲーム内の仮想のお金などもやりくりしなければならない。
11/18
岩倉玲音。
11/18
アルボナース、押す、冬。
11/19
私が現実に存在した、ということを他者が描写するということの、驚き。
11/19
肥え太ったウーパールーパーのような乳児が、手足をばたつかせているのだ。
11/19
ゲームは何故面白いのか。ということを考えていました。答えは、光刺激を臨む、操作することの根源的快楽、です。乳児が光源に向かって手を伸ばしたり、乳房に向かっている様を見て、着想を得ました。これは、おそらく(私はしたことがない)パチンコなども同じです。
11/19
パチンコやゲーム画面は、結局、乳房なんだと思います。
11/19
しかし、ゲーム画面は乳汁を分泌しない。ということの絶望感。
11/19
防衛機制や抑圧、自己保存慾求の発現として自分がしたことを言語化して確認する。今後は意識して、それをする。最終的には脳波を操作する。
11/20
私はこの世界のことをほとんど知らないのに、甘い食物や柔らかい食物を食べる。申し訳ないと思う。
11/20
子を残して死のうと欲望している親が、子に対して子が先に死ぬことを許さない上で、さらに家族の絆のようなものを求めるのは、欲張りだ。
11/21
自分の知性にはないところのものを使って、ものを考えることは、健康に良くない。
11/22
セーブ画面見ながら朝食。
11/22
画面に接続した眼球と、インターフェースを操作する指。後は観念するものを待つ。黙る。
11/23
11/23
惣菜コーナーとのインプロビゼーション。
11/23
テレビの電源を入れると、ジャマイカの麻原彰晃、のような男が映った。日本代表だという。
11/23
煤の灯は、結構できてるのだけど、この結構できてる、を更新したい。
11/25
外見が可愛い人。というのは、身体の表面が可愛い人、ということか。しかし、身体の中身は、ぐっちゃぐちゃの血と肉と臓物が詰まっている。
11/27
面の皮が、可愛い。ということ。
11/27
紋切り型の道徳的教訓を聞いて、気分が悪くなり、吐き出した吐瀉物が、やがて自分の文字を書く為の墨になる。
11/27
レインの自己と他者を少し読んで寝る。
11/28
朝の挨拶で大脳リハします。PAさん、もう少し世界を返して下さい。
11/29
あ、外世界です。内世界少し下げて。
11/29
「やる気」などという不確かな心的過程を偏重し、それがないものは速やかに淘汰されて消えていきなさいという原理で動くの、もうやめませんか。
11/29
古典的空間恐怖によって、両端の席から座っていく人々。
11/29
淡家朴『よりぬきzig10月号』(2019)
他者を受け入れる、がしかし影響を受けない(そういっても少しは影響を受けてしまう)。
10/10
対人空間では、そこで起こるあらゆる無意味が、存在の述語になる。
10/10
瞑想、沐浴、読書。
10/13
他人の顔を見たくない。
10/15
背骨、卵巣、大腿骨、の群れ。
10/15
今、どういうふうに生きているのか。今の仕事や生活を続けることで、何を目指していて、今後はどうなりたいのか。死ぬまでに何をしたいのか。
10/15
今、どう生きているのか。或いは、なぜ、そう生きているのか。何がしたくて、何がしたくないのか。或いは、それをしたいのは、したくないのは、なぜだ。
10/15
脂っこいもの、飲酒、ゲーム、マスターベーション。脂っこいもの、飲酒、ゲーム、マスターベーション。そして、死。
10/16
人生とは、脳味噌が海綿体になる病気の過程である。
10/16
努力や我慢をしていると思い込んでいる。
10/17
生きている世界を、じーっと見る。
10/19
スポーツは、「意味」なんだと思う。意味の塊。
10/22
筋肉の動きが、意味を創る。
10/22
濃い意味の中に投企する人を囲むようにして、社会が立ち上がる。
10/22
恋愛関係などの、秘匿性の高い(よりドーパミンが出るような)情報を共有し、より本質に触れているような感覚に浸ること自体が、悪いわけではない。
10/24
ヒメマルカツオブシムシの幼虫を観察していた。
10/26
淡家朴『人間の寂しさ』(2019)
努力は敵を作る。
努力は価値観を作る。
「私はこれだけしたのに、アイツはしていない。」
「私はこれだけしたから、もう大丈夫だ。」
どちらの感情にも何の根拠もない。そして背後に怒りがある。
考えてみる。
「相手の方が得をしており、私の方が損をしている」という観念。
この観念を消去していく作業。或いは、「相手の方が損をしており、私の方が得をしている」という観念へ変換していく作業。こうした作業に取り組むことが、「人間として善いこと」だと学習している。
と同時に、「私の方が得をし、相手の方が損をする」という観念は、どこか「後ろめたさ」を感じさせるものであるということも意識している。
なぜか。
私は本当は、私だけが得をしたいという自己中心性を相手に悟られたくない。
なぜなら、自己中心性は、精神未成熟、及び幼児性と結びつく。
成人した人間は、それが本質を伴わない虚偽の成人であることを悟られることに恐怖している。
成人した人間に限らない。
人間は、本質的な虚偽性を他者に知られることを恐怖している。
子は親を選べず、親も子を選べない。
生まれたばかりの子は親を殺すことはできない。できたとしても、それは親が生まれたばかりの子を殺すことほど容易ではない。
ここに本質的な不平等を見る。
生きねばならない。
子は、たとえ親に嫌われていても、生きねばならない。
愛されないと分かっていても、親に愛を求めなければ、子は生きることはできない。
本当は親を好きではなく、殺したいと思っていたとしても、生きねばならない。
なぜか。
人は、「私の方が得をする」ということを考えいるのだ。
淡家朴『天職』(2019)
人間が、その才能を開花させる為の条件は何か。それは、「適性に合うかどうか」ということではない。それは、他者からの「余人を以っては代えがたいものとして、あなたを召喚したのだ」という意識の宛先になることである。
これを、宗教用語で「召命」と呼ぶ。「神に呼ばれて、ある責務を与えられる」ということだ。世俗的な言い回しとしては、「天職」というものがある。どちらにせよ、それらの概念は、就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではない。言い換えれば、「天職」とは「自己決定」するものではなく、「他者に呼び寄せられること」である。自分に合った、ふさわしい仕事を見いだすというのは、本質的には、このような受動的な経験をいうのである。
参考文献
内田樹『街場のメディア論』