承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『定人ではない』(2019)

 

 

私の社会的な身の立て方。

 

つまりは、社会参加の形は、労働者として、また、夫として、或いは父として、そういう衣装に袖を通されて凍らされてしまう。

 

 

私という意思の観念形態は、言葉という衣装に袖を通して、以って対世界との関係を拵えている。

 

しかし果たして、私はこの歩き方で良いのかという懐疑に身を放心させる。

 

 

私は、極めて孤独的に生きていると実感する。

 

 

私が日々、身を削って文を捻り出したり、歌を作ったり、時折ペンを握って、線の集合を描いたりする。

 

これらを容易く跨いでは、人々は私に対して文句を言う。言葉には発せずとも、私に対して、極めて負の空間エネルギーを放射する。

 

これは私の解釈なのかもしれないが、なぜ人々は私の作る沈黙に耐えられないのか。

 

沈黙を埋めようとする。

 

話を変えたり、笑ったり、苦笑ったり、ただ見つめたりする。

 

 

今、目の前で哲学を始めてほしいのに。

今、私の作品を一つ手にとってほしいのに。

今、寧ろ、あなたが創り出してほしいのに。

 

 

人々は沈黙する。

 

 

このようにして私は、普段のような孤独感を獲得する。寂寥感。

 

 

私は、本物にはなれないというカンプレクス。

 

 

せいぜい、猿騙し、子供騙しの創造だ。

リテラシーの低い所へ、敢えて潜り込んで、苦悩するふりをして、導くふりをして。

 

 

社会参加をしている時の私は、

最も退屈を感じている。

 

何故ならば、この社会の規範や秩序を守ること、そしてそれを失職しない範囲で逸脱することの全て、正と負の整数に対して全てに、

 

飽きているからだ。

 

 

私は虚数である。

私は外れ値である。

 

 

しかし一般的なアリエネの範囲にもいない。

 

言葉に囚われたくないなんてことを、

言葉で表現している愚かさを。

 

 

私に負の空間エネルギーを発した人の目下に、

私の作品群という大海溝が口を開けている。

 

そのことを知った上で、

私と関わってください。

 

或いは、もう触らないで。

 

私は、あなたの意識の中の、

定人ではないのだ。

 

 

 

淡家朴『人間的に成長って何?』(2019)

 

 

不登校になる人がいる。

不登校気味になる人がいる。

 

 

そのまま社会に出られなくなる人がいる。

社会に一度出たものの、社会生活が長続きせず、再び社会に出られなくなる人がいる。

 

パラサイトシングルと揶揄される人がいる。

大人の引きこもりが、メディアで特集される。

 

 

さながら、社会が戦場のように思えてくる。

社会生活が、何か凄いことのように思えてくる。

 

村上陽一郎氏は、著者『安全学』の中で、このように述べている。

 

 

人間が人間として存在するためには、帰属する集団の規範や秩序を学習し、集団に同化する為の技術を身につけなければならない。(一部略)

 

 

私たちは人間である限り、たえず人間として存在していなければならないという強制を強いられている。社会的な責任が求められれば求められるほどに、その同化意識は強まっていく。

そして、それを「人間的に成長」することだと認識して、得意になることができる人もいれば、誰も私のことを認めてはくれないと顰めて、部屋の扉を固く閉ざしてしまう人もいる。

 

 

果たしてこういった、社会的、非社会的、あるいは、社交、非社交という思考コードを、私たちは、今のまま乱用し続けても良いのだろうか。

 

 

何十万人もの自殺者や、自殺志願者を、見殺しにしても良いのだろうか。

 

それは、例えば私は何とか生きられているからというだけの理由で、それはそれとして取り扱われても良いのだろうか。

 

 

社会的弱者とは何か。

それは、カルトや新興宗教がカモにしている社会的不適合者と自分で自分を自主規制している人たちのことだろうか。

 

 

 

私自身はどうだろうか。

 

私は、私の両親が、私へ施してくれた教育に関して、とくにこれといって文句も、注文もない。と、生意気が言えるほどには自由に育ててもらったのだと思う。

 

父親は、「しらけ世代」の人である。

つまりは学生紛争の盛んだった少し後に社会人となった人。社会主義にも自由主義にも振り切ることの無い、保守的な中流階級といった印象の人である。やるべきことをこなし、時間的な期間も厳格に遵守することができる、まさに社会適応者だ。

 

このように社会に極めて模範的に適応する両親を見て育った為、私もそれなりに集団に同化する仕方を学ぶことができた。

 

 

だからといって、私がこれから、社会にその存在を認めさせ続けられるかどうかなど、私自身にも分からない。

 

ある日、突然、脳の異常で倒れるかもしれない。そして二度と、社会に出られなくなるかもしれない。

 

そういう時、私は、人間的にどうなるのだろうか。

 

「人間的に死んでしまった」と、誰かに後ろ指を指されるのだろうか。

 

 

だから、人間的に成長って、何?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

淡家朴『結婚障害』(2019)

 

先日、そこまで仲良くしていた覚えのない友人の結婚式へ参加した。

 

率直に言って、私は余り楽しめなかった。しかし、行かなければよかったとは思ってはいない。行ってよかったと思った。色々と現場の空気感を知ることができ、実践演習となった。二人には感謝している。

 

私はいくつか、精神の糜爛を伴った。その精神の糜爛について敷衍して、少しでもこの結婚式という愚かしいオママゴトへの理解を深められたらば良いかと思う。

 

 

高校時代の友人が、大阪で結婚式をやった時、

私は強い感銘を受けた。行ってよかったと、心の奥深くで、私の声がしたことを覚えている。

まず、会場の雰囲気が良かった。明治時代の西洋建築の洋館を居抜きした結婚式場で、アンティークな内装、静かさの中に、高尚さや気品を保存したような印象があった。

そして、なんといっても料理や酒が美味かった。それだけで、金と時間をかけて、やってきた甲斐があったと思えた。

また、演出が良かった。華美な演出はなく、淡々として落ち着きがあり、何というか極めて都会的な印象を受けたといえば、何となく伝わるだろうか。とにかく、司会者や、従事者に優しく温もりのあるオーラが漂っていた。

 

 

それに引き換え、今回の結婚式は、どうだろうか、建物はありきたりなコンクリートに化粧をしただけというような現代建築、飯はクソまずい、そして司会者が、その辺のうるさいババアを引っ張ってきたような下品なもの、演出も内容も、極めて鳥肌が立つほどダサく、目も当てられないようなものばかりだった。

 

 

飯が不味かった。

 

一皿目、構えたカメラを止めた。

 

これ、写真撮るほどでもねーわ。

 

ちょっと高めのレトルトのソースを絡ませた少量のパスタという感じだった。

うーん、これなら「青の洞窟」のカルボナーラがいいなぁ。と思った。或いは、この結婚式場の隣に、もしジョリーパスタがあったら、今すぐこのパスタを口から吐き出して、そちらへ入店したいという気分だった。

 

しかし、残念ながら、隣にジョリーパスタはなかったので、諦めて、それを食べた。

 

 

続いて、私の口も胃腸もびっくりしたのが、刺身であった。

こんな鮮度の悪い鯛を食べたのは初めてだ。

コインロッカーに2日放置しました、みたいな刺身だった。

 

まぁ飯についてボロクソを言うのはこれくらいにして、舌の根の乾かぬうちに、司会者や演出についてボロクソを言おうと思う。

 

 

まず、司会者が厭だった。

 

どこにでもいる、おしゃべりが上手な、バカが偉くなりました、みたいなオバちゃん。

世間体は良いんだけど、夫を尻にしいて、子供にもあまり好かれていないというような、まぁ勝手なイメージだが、それくらいウザいババア。

 

声が大きい。

 

そんなに張らなくても聞こえてますよー。

 

 

次に、ああ、思い出した。

 

言うのを忘れるとこだった。

カメラマンの兄さん。

見た目は、サッカー選手みたいな感じ、テンションはナオトインティライミみたいな感じ。

 

円卓の写真撮影のとき、私はそのインティライミの物言いが鼻につき、反抗した。

 

 

「ピースしてもらっていいですか?」

 

私だけ、ピースをせず無表情だったので、そう促された。

 

「厭です」と言ってみた、

 

すると、インティライミは、めんどくさいなぁという思いを顔面いっぱいに湛えた不気味な苦笑いを見せて、

「ピースお願いできませんかぁ」といった。

 

と同時に、ものすごい圧力というものをかけてきた。

 

「さっさとピースせんかい」という目力があった。

 

これには私もひるんでしまい、「思想が違うので」などと訳のわからぬ言葉を発してしまった。

 

ピースサインというと、ほら、チャーチルの印象がある。あれを想像して、私はチャーチルのようなファシズム的思想を持っていないため、ピースは断るという意味合いで言ったのだと思う。咄嗟に出た文句だったので、そこまで考えてはいなかったが。

 

 

そして実際、根負けしてピースした✌️

 

敗北。

 

 

 

結婚式の全体の印象としては、やはり新婦の思想体系を前面に反映させたものだった。

 

 

新婦の思想体系を、私はよく知らないが、新婦がスピーチにて、「人間として成長」という、ワードや、「尊敬する父、母」というワードを採用していることから、極めて性愛至上主義的、人道至上主義的なコードがあったことは確かだろう。

 

とにかく、この手の女子。

 

「一度決めたことを貫く、確固たる自己がある」

 

これは、今日の日本の教育的イデオロギーの象徴、理想形態という心性だが、まさにそれを正しく書写したような性格の新婦なのだろう。

 

 

意地が強く、確かな自分がある。

 

 

ということは、裏を返せば、

 

強情で、融通が利かず、極めて支配欲過剰、利他主義的利己主義、自己顕示欲過多、ドグマティズム…。

 

この人格性質を突き詰めれば、

他人管理的な女性を通り越して、女王になろう。理解不可のレッテルを貼った人、或いは、この人はダメだ、ソリが合わないと認識した人間とは、一切の人格を否定して通わせず、具体的な交流をも放棄するような、そういった女王的な心性の女性。

 

 

もちろん、私は新婦に対して、こういう人間だとは思っていない。何度か話したことがあるが、彼女は賢い人だ。理解の外側にある他者も認められることができる人だということは知っている。でなければ、私などを結婚式には呼ばなかっただろう。

 

世の中には、彼女のような頭の良さを備えていないまま、自己主張を続けるあまり、夫の心性を過度に侵害するような悪妻もいるだろう。バカな頭で支配欲の強い女。私の思い当たるところでは、、、うーん、やめておこう。危ない。

 

 

とりあえず、私の作り上げてきた、積み上げてきた心性の向こう側にある精神で生活をしている女性。ある意味で魅力的、憧憬的に映るが、私自身もまた、別の方向に頑なに自尊心、自意識を強く保存しているので、すべからく分かり合えないこと必定。

 

 

戦争となること請け合いであろう。

 

 

私はキンタマを妻に預けるような女々しい傀儡亭主になるのは御免被る。

 

 

 

なんとなく気が済んで来たので、そろそろ誹謗中傷的感想は、よしておこう。

 

 

末長くお幸せに。

 

 

 

淡家朴『浮気についてⅡ』(2019)

 

 

イデオロギーツァイトガイストドラマツルギーなど、言葉は様々あるが、いずれにしても、それらは人々が属している国家、地域領域内に一般、通用する時代の空気や理念の総称である。

 

 

セクシャリティに関する時代の空気や理念について考えてみると、人間がいかに浮気しやすく作られている生き物かということが了解できる。

 

 

まだ、恋愛結婚という言葉も無かった時代。

 

第二次世界大戦まで日本の歴史を遡ってみよう。

 

当時の結婚は、お見合い結婚、あるいは、村落の存続を勘案した上で、もう既に結婚相手が決まっているということが普通であった。

 

 

この世界の片隅に』という映画の性描写は記憶に新しい。

 

寄り添いあい方もままならないような男女が、さもそれが当然の行いかのように、生殖を行う。

 

私は、極めて嫌悪感を感じた。

 

現代人として、昔の人のセクシュアリティの「速さ」に眩暈がしたからだ。

私は、あの男のように、すずさんの唇を、直ちに強盗するようなことはできない。

 

そして、人間の虚しい性質がありありと描写されていた。

 

つまり、人は人のことを簡単に好きになることができる。それが正常であるという観念の中に自己を囲い込めば、いとも容易く正常位で愛し合うことができるのだ。

 

 

そうでなければ人類は繁殖することができない。

いちいちに、脳内の好みや性癖に整合する異性とのみ、生殖を行えるという狭隘な性のスペックであったらば、人類はとうに滅びていたのだ。

 

 

私はセックスを隠蔽する両親の羞恥心が、理解できなかった。

性を恥ずかしいものとして取り扱いながら、まさに生殖によって子をこしらえ上げたという事実の隠蔽に深く心を痛めた。

 

 

そして、いとも容易く、セクシャリティの諸論件を跨いでしまう異性の友人に深く心を糜爛させられた。

 

 

 

汗ばんだ肌に、肌を擦り合わせるような濃密な交通に、果たして浮ついた心など必要だろうか。

 

隠蔽するほど愚かしいことでもあるまいに。

 

 

 

 

淡家朴『変人として生きる寂寥』(2019)

 

 

 

今日は密かに、友人達に別れを告げた。もう多分、永遠に会うことは無いだろうという人たちにも、密かに別れを告げて来た。

 

 

誰一人として、私を見送りに来なかったことはご愛嬌か。とにかく、私の人嫌いは完全に実ったようだ。まるで人間失格の刻印を付されたような気持ちで、私は嬉しかった。ただ私一人、パーティ会場を後にした。

 

 

私は、コミュニケーションを本格的に諦め始めている。つまり、オーラルな表現を辞退している。話者が発言したことを、一度脳内で文字媒体に変換し、それを読んでいる。そして、それらを敷衍して、私の言葉で応答をしている。

 

 

それを、実際に、タイムリーで実行してみて、やはり変な雰囲気が、変な空気感が流れるということは自覚された。

 

もしかすると、これがプレコックスゲフュール感ということだろうか。

 

いよいよ。統合室長賞受賞か。

 

私は旧友たちと、最早まともにコミュニケーションを取ることが出来なくなっていることを、はっきりと実感したのだ。完全に私を、一枚も二枚もフィルターを通して見ているということが知覚された。

 

私が、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。しかし、そうだとしても、あまりにもありありと、生々しく、そして暴力的なまでに残酷に、私の気は、悉く迫害を受けたのだ。

 

 

不可解な沈黙があったこと。

他者の目にも、また、私への不可解な印象が保存されていたこと…。

 

その場で私が、私自身への印象を保存したこと。

 

 

現実は、いとも容易く再生されている。

 

 

しかし、私は私の世界を、最早降りることは出来ない。降りて、同化するほどの体力も、気力も、失われている。

 

 

そして、私が、私の自己卑下、自己懐疑を、ネットで垂れ流していることを、情報として知った上で、私にコミュニケーションを試みている人々の目が、あまりにも憐憫、寂寥の感を湛えていることに対して、私は傷ついた。

 

 

胸が、痛い。痛い。

 

 

とにかく私は、私自身の印象を、外部によって、自身へ保存したことに対して、不甲斐ない。

 

 

これが、変人として生きる寂寥というものか。

 

 

 

私は、私のことを天才だと思ってしまったが為に、今、何としてでも生き辛さを感じざるを得ないということに対して、もう言葉がない。

 

 

もう言葉が出ないのだ。

 

 

一度、決めてしまった道を、その印象に対して、私が口出しをすることは、もう出来ない。

 

 

 

私は私を抱えてしまった。

他者へモチベーションを預けなかった。

 

 

どうしよう。

 

 

覚悟はしていたが、寂しいぞ。

 

 

 

老化、疎外、そして寂寥。

取り返しのつかなくなった、心の闇。

 

 

 

私は、生きるだろうか。

 

 

ええ、生きますとも。

 

 

淡家朴『生きる意味』(2019)

 

 

生きる意味はなんですか?

と問われたら、

 

 

「死ぬのが怖いだけです。」と答えるようにしようと、思ったことがあります。

 

 

「あらゆる常套句に対して興味がない。私はそれよりも、もっと上のことを考えている。」

 

というふうに自己を演じれば、コミュニケーションが苦手であるというコンプレックスを解消できるような気になったことがあります。

 

 

しかし、その時期も通り過ぎました。

 

「次からは、こういう風に思うことにしよう」というマインドハックの賞味期限、使用期限というものは、悲しいほど早いものです。

 

 

結局、今、私が行き着きつつあるのは、仮想機構です。

 

私と仮想機構の関係。

 

仮想機構というのは、例えば神であったり、仏であったりするわけです。

 

 

私は、生まれた時から仏教に囲まれていました。お寺の生まれというわけではありませんが、ちょうど中流階級とその周辺の人々が、浄土真宗に蟠るという地域で生まれ、育ち、そして両親も、そのクラスタに帰属していたというだけです。

 

 

とにかく、信仰心というものが、心の安寧をもたらしてくれるというマインドハックだけが、情緒に濃厚な記憶として、保存されていることは確かです。

 

 

 

生きる意味はなんですか?

と、今、問われたら。

 

 

生きることに意味を求めてはいません。

今、こうして、この世に生かされておるということは…

 

と、説法を始めたい気持ちになります。

 

 

でも、本当にそうだと思う。

これは、仏教ではなくて、ロシアのある詩人の言葉ですが、

 

「人は生きるべくしか、生きられない。」

 

 

そういうことなのだと思います。

 

淡家朴『心拍数の中で考える』(2019)

 

 

これは、現時点での人生の感想である。

 

 

私は、人と話すことが上手くない。

 

 

しかし、身内を観察していると、

私よりも、もっと上手くないと思う。

 

 

というのが、何を見てそう思うかというと、

 

完全に、他人付き合い用の顔を作っている。

 

つまり、「いい子」になろうという、壮絶なコミュニケーションへの態度の用意がある。

 

 

しかし、話し上手な人を観察していると、

 

ごくごく自然である。

全く、こわばって居ないし、落ち着いている。

そして、ユーモアがあるし、切り替えが効く。

 

 

これに対比して、話すことが上手くない人は、

こわばって、落ち着きがなく、

ユーモアもなくて、切り替えも効かない。

 

身近なところで、例えば兄を見ていると、

 

他人に対して、何か言わなければならないという強迫観念に駆られているように見える。

つまり、一生懸命、ユーモアや含蓄を用意しようとするのだが、残念なほど滑っている。

 

なぜかと言うと、とても表情が、かたいのだ。

 

なんというか、ゆるさがない。

発話の印象も、付け焼き刃という雰囲気だ。

 

 

 

私も、人のことを言えない。

 

私の場合は、そもそも他人に興味がない。

話しかけられると同時に、早くこの会話を終わりたいという気持ちに駆られてしまう。

 

私は、人一倍、他人からの質問を展開しないタチである。

 

なんというか、「ああ、そうです」とか、「はい」「いいえ」くらいしか思いつかない。

 

 

ただ、何か、場を繋がなければ!

というような命令は、脳からやってくる。

 

結果、どうなるかというと。

全く、会話は進まないが、心拍数及び血圧だけが上がる。まぁ、コミュ障なわけだ。

 

 

あなたはマイペースだね、などと揶揄されるが、ただ上がり症なだけだ。そして、そのことを悪びれないというだけ。上がり症を治したい思ったことがない。それより早く、この会話を終わりたい。

 

 

しかし、文を書くことならば、どちらかといえば得意かもしれない。

 

メールや手紙、ラインの文面などを打ち込むことは好きではないが、一旦手をつけると、結構内容に拘ることができる。

 

また、小論文などの添削は得意分野である。

ここは、こうした方が良いという添削のアイデアが、刹那に思いつく。

 

 

 

つまり、何を言いたいかというと。

他人と話す時に、私が会話の内容、話題の展開面を思いつかない理由は、他人と顔を付き合わせる際に、私が心拍数や血圧を無意識のうちに上げてしまうことにあるのだ。

 

 

人は物事を心臓で考えるわけではない。

 

脳で考えている。

 

しかし、脳が動くためには、血が必要である。

 

そして、血を送り込んでいるのは他でもない、心臓であるから。

 

思考と血圧の関係は、あると思う。

 

 

私はどうやら、心臓に毛は生えていないみたいだ。胸毛は人一倍、濃いのだが。