映画鑑賞第8回『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001)
iTunesレンタル(¥407)で、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観ました。
舞台は、1990年代アメリカ。主人公は、東ベルリン生まれ、半男半女のロックシンガー。過去に性転換手術を失敗。その傷跡「アングラーインチ」をきっかけに失った恋人と、本当の愛を追い求め、各地をパブコンサート巡業する。
というお話でした。
LGBTについて考える映画が観たい。
という人がもし周りに現れたら、第一に紹介したいと思った映画でした。
映画には、「プラトンの愛」のモチーフが登場します。
「我々は、誰かと一対であった」というのが、プラトンの愛です。
ここでプラトンが面白いのは、愛の相手、一対の運命の相手は、男と女、女と男とは限らないというところです。
それは男と男かも知れないし、女と女かも知れない。とにかく、私たちは一対であった。そしてそれを現世で絶えず探している。
映画では、「愛の起源」という音楽にして、プラトンの愛のモチーフが何度も反復されます。
それは何と力強いラブソングでしょうか。
やっぱりそれは、ものすごく生命的な勇気を賦活するパワーそのもののような気がしました。
「誰かと一対である」というイメージが、そのまま愛ではないか!とハッとしました。
愛の欠如を抱いて生きるということ。
ヘドウィグは、幼い頃に両親の離婚を経験します。さらに、母親からは、「ロック好きな自分」を、ありのままに受け入れてもらえません。
その時から、彼は「愛を探す」ということを強烈に宿命付けられます。
ヘドウィグは、かつて、ボーイズラブの同性と恋に落ち、婚約をしました。
愛の欠如、喪失感に終止符をうつことができる。そう確信します。
それは「性転換と結婚」という選択でした。
しかし、性転換手術は失敗。後に「アングリーインチ」と本人が呼称する「おちんちんの残り」が残ってしまいます。
おまけに婚約相手には逃げられ、ヘドウィグは人生のどん底に落ちてしまいます。
再び愛を探すことになったヘドウィグ。
股間には怒りの1インチを抱いています。
それは、かつて愛を求めた罰。
ヘドウィグは心を閉ざしてしまいます。
しかし、ヘドウィグは、ものすごく運命を動かす力があるのか何なのか、お手伝い先の家の青年と再び恋に落ちるのです。
そしてまた破局。
直接的な原因は、アングリーインチです。
青年はヘドウィグを女性だと思っていました。
したがって、肉体関係を上手く結ぶことができなかったのです。
この肉体関係というのも、一体なんなのだろうかと考えてしまう。ヘドウィグが、泣きながら、取り乱しながら、私を愛しているならこの1インチも愛しなさいと絶叫するシーン。胸が痛くなりました。
源氏物語のようにひらひらと男女が上品に重なる。そんなような簡単な性ではない。もっとギクシャクした、ヒリヒリとした性の葛藤。
最後のシーンでは、全裸のヘドウィグが闇の中で、光が射す方に向かって、歩いていく。
肉体を、葛藤を引き摺りながら、あこがれを彷徨い行く様。