淡家朴『浮気についてⅡ』(2019)
イデオロギー、ツァイトガイスト、ドラマツルギーなど、言葉は様々あるが、いずれにしても、それらは人々が属している国家、地域領域内に一般、通用する時代の空気や理念の総称である。
セクシャリティに関する時代の空気や理念について考えてみると、人間がいかに浮気しやすく作られている生き物かということが了解できる。
まだ、恋愛結婚という言葉も無かった時代。
第二次世界大戦まで日本の歴史を遡ってみよう。
当時の結婚は、お見合い結婚、あるいは、村落の存続を勘案した上で、もう既に結婚相手が決まっているということが普通であった。
『この世界の片隅に』という映画の性描写は記憶に新しい。
寄り添いあい方もままならないような男女が、さもそれが当然の行いかのように、生殖を行う。
私は、極めて嫌悪感を感じた。
現代人として、昔の人のセクシュアリティの「速さ」に眩暈がしたからだ。
私は、あの男のように、すずさんの唇を、直ちに強盗するようなことはできない。
そして、人間の虚しい性質がありありと描写されていた。
つまり、人は人のことを簡単に好きになることができる。それが正常であるという観念の中に自己を囲い込めば、いとも容易く正常位で愛し合うことができるのだ。
そうでなければ人類は繁殖することができない。
いちいちに、脳内の好みや性癖に整合する異性とのみ、生殖を行えるという狭隘な性のスペックであったらば、人類はとうに滅びていたのだ。
私はセックスを隠蔽する両親の羞恥心が、理解できなかった。
性を恥ずかしいものとして取り扱いながら、まさに生殖によって子をこしらえ上げたという事実の隠蔽に深く心を痛めた。
そして、いとも容易く、セクシャリティの諸論件を跨いでしまう異性の友人に深く心を糜爛させられた。
汗ばんだ肌に、肌を擦り合わせるような濃密な交通に、果たして浮ついた心など必要だろうか。
隠蔽するほど愚かしいことでもあるまいに。