承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『変人として生きる寂寥』(2019)

 

 

 

今日は密かに、友人達に別れを告げた。もう多分、永遠に会うことは無いだろうという人たちにも、密かに別れを告げて来た。

 

 

誰一人として、私を見送りに来なかったことはご愛嬌か。とにかく、私の人嫌いは完全に実ったようだ。まるで人間失格の刻印を付されたような気持ちで、私は嬉しかった。ただ私一人、パーティ会場を後にした。

 

 

私は、コミュニケーションを本格的に諦め始めている。つまり、オーラルな表現を辞退している。話者が発言したことを、一度脳内で文字媒体に変換し、それを読んでいる。そして、それらを敷衍して、私の言葉で応答をしている。

 

 

それを、実際に、タイムリーで実行してみて、やはり変な雰囲気が、変な空気感が流れるということは自覚された。

 

もしかすると、これがプレコックスゲフュール感ということだろうか。

 

いよいよ。統合室長賞受賞か。

 

私は旧友たちと、最早まともにコミュニケーションを取ることが出来なくなっていることを、はっきりと実感したのだ。完全に私を、一枚も二枚もフィルターを通して見ているということが知覚された。

 

私が、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。しかし、そうだとしても、あまりにもありありと、生々しく、そして暴力的なまでに残酷に、私の気は、悉く迫害を受けたのだ。

 

 

不可解な沈黙があったこと。

他者の目にも、また、私への不可解な印象が保存されていたこと…。

 

その場で私が、私自身への印象を保存したこと。

 

 

現実は、いとも容易く再生されている。

 

 

しかし、私は私の世界を、最早降りることは出来ない。降りて、同化するほどの体力も、気力も、失われている。

 

 

そして、私が、私の自己卑下、自己懐疑を、ネットで垂れ流していることを、情報として知った上で、私にコミュニケーションを試みている人々の目が、あまりにも憐憫、寂寥の感を湛えていることに対して、私は傷ついた。

 

 

胸が、痛い。痛い。

 

 

とにかく私は、私自身の印象を、外部によって、自身へ保存したことに対して、不甲斐ない。

 

 

これが、変人として生きる寂寥というものか。

 

 

 

私は、私のことを天才だと思ってしまったが為に、今、何としてでも生き辛さを感じざるを得ないということに対して、もう言葉がない。

 

 

もう言葉が出ないのだ。

 

 

一度、決めてしまった道を、その印象に対して、私が口出しをすることは、もう出来ない。

 

 

 

私は私を抱えてしまった。

他者へモチベーションを預けなかった。

 

 

どうしよう。

 

 

覚悟はしていたが、寂しいぞ。

 

 

 

老化、疎外、そして寂寥。

取り返しのつかなくなった、心の闇。

 

 

 

私は、生きるだろうか。

 

 

ええ、生きますとも。