承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『行為依存としての芸術』(2019)

 

沖合に出て漁をして、混沌の海の中から魚や蟹を取り上げて、それを生きていくための糧にした海辺の人。森の中を闊歩する鹿や熊を、狩猟し、それを生きていくための糧とした山里の人。そのどちらの人も、同じように、ストーリーを持とうとしました。これが、海の神や、山の神への土着の信仰であります。人々は、毛皮や肉を届けてくれる獲物のことを神の化身として崇め、狩猟や漁を試練であるということにして、営んできました。

 

それらは全て、言ってしまえば、

仮想機構であり、幻想です。

 

海の神への信仰、山の神への信仰というものは、身も蓋も無い言い方をすれば、統合失調症の人の訴える妄想に、構造的には何ら変わりはありません。

 

ではなぜ、人は、幻想の中に生きようとするのでしょうか。その訳の一つとして、私たちは幻想を抱くことで、致命的な精神崩壊のリスクを回避しているということが挙げられると思います。

 

考えてみてください。私たちが生きる為に他の生命を破壊しなければならないということの残虐さを。

 

首の骨を折ったり、おびただしき血を浴びたり、全身の毛を毟ったり、内臓を剥ぎ取ったり、心臓をえぐり出したり、それを切り刻んだり。そういう仕方で、私たちは断末魔の中に立って、何度も何度も、その定命を途中で分断させるという行為を繰り返してきました。

 

生命を破壊することを、私たち全員が何とも思わないならば、つまり人類が皆殺人鬼的性格ならば、サイコパスならば、人類はとうに滅びていたことでしょう。

 

私たちは生命を破壊する度に、精神及び脳へ、ネガティブなプレッシャーがかかる生き物なのです。そしてそれは、生得的なものです。したがって、致命的な行為には精神崩壊が必至ということがいえると思います。

 

実際、私たちの脳は、コンピューターのようにダイレクトに情報を得るということはしません。必ず、目や耳や手や口などのインターフェースを通して情報を脳内に送り込んで居ます。そのようにするのは、情報をゆっくりと取り込むことで精神を傷めないようにしているからです。例えば、心的外傷性ストレス障害という精神病がありますが、これは、脳内のキャパシティーを超える程の甚だしい情報が、一度の出来事で一口に脳内に入ってしまったことによる精神のショートであり、このような事例から、人間と情報の関係が如何にデリケートで、クリティカルな問題であるかということが分かります。

 

このように考えてみると、情報過多の現代社会で生きる私たちが、往々にして精神を傷めてしまうことは、単純に精神医学が細分化されたからという訳ではないことが分かります。情報を纏めたり、選んだり、分化したり、判断したりする意識の下では絶えず無意識が毛細血管のように走っていることでしょう。そして、その精神というブラックボックスが、まさに深い闇の様に、一人一人の脳内に渦巻いているのです。

 

冒頭に述べたように、先人の山や海への信仰を、精神を傷めない為の工夫として捉えた時、私はそこに、私自身の信仰を想起しないでは居られません。つまり、ブログのタイトルにも書きました通り、殊、芸術に関する私の精神疾患リスクヘッジ及び、「行為依存としての芸術」そのものへの言及をしたいと思います。

 

私は、私自身が絵を描いたり、歌を歌ったりすることに対して、その行為の価値を何とかして神秘的なものにしたいという驕慢な暴想に駆られ、耽美も審美も一緒くたにしたような拙い美意識で以て、自分の芸術を立ち行かせようと踏ん張りました。結果、それは半ば成功したように思われます。

 

私は、ついに希死念慮に襲われた朝に、正しい発狂の味をしめました。それは、精神を極限まですり減らした修行僧が、諦めにも似た沈黙を湛えて、途方に暮れている眼差しのごとき穏やかな絶望でした。私を纏った気は、そこで蟠ったまま、未だに私を抱きしめて居ます。

 

これは、何なのか。仏教的に言えば、菩薩という状態だろうか。医学的に言えば、

妄想?

メサイアコンプレックス

プレコックスゲフュール?

 

違う。これは、間違えなく行為依存だ。

 

そう思いました。

 

身体の深いところでは、言葉になることができない無象の感情が私に意味の無い音で語りかけて居ます(これは嘗て、私が「舟蟲」のようなものと喩えた何か)。「そんな簡単なものではない。」と語りかけているような気がしますが、簡単とか、簡単ではないとかではなく、これは行為依存であるということだけは確かなのでした。

 

私の芸術は、何もありません。

 

芸術とは、技術であり、それは伝統を知り、それを破りたいという誠実な精神の上に成り立つ技術の軌跡です。

 

しかしながら、私は芸術に依存して居ます。

 

行為依存として、私は私の芸術を持っています。

 

そしてそれらは、私自身の生命の破壊、及び精神崩壊のリスクをヘッジするための、最後の手段のように、たえず私を慰めながら、私を待ってくれている神秘的で宇宙的な力そのものなのです。