淡家朴『存在と無気力』(2019)
私は何だろうか。
確かにある、このはっきりとした実際。
身に覚えている存在。
「実存」という言葉があるようですが、それはそれで、そういう一つの到達地点。
古い流行歌謡のような哲学。
じゃあ、私は、何なのか。
私は、きっと、それではないし。
そういうふうでは、納得して死ねぬ。
こんにちわ。
どうも、存在しています。
私は、あります。
ええ、本当ですとも。
頭蓋の内側にびっしりと脳味噌がこびりついて、私を作り上げる血流が意識を纏めて、
私以外のものにまで意識を繋げないように注意して、一人分の私を居させています。
私が居て、身体が動いて、指が簡単にこう、カシャカシャとさせまして、文字盤を運転して、パソコンに演算か何か知らん、とにかく、今、へそをほじった指嗅いで、臭いなぁと思いながら、ブログ打っているくらいには、完全にプライベートな私が、ここからそこ、そのあなたの眼球の内側へへばり付かしますは、文字。
その、まじないのような文字。
その文字を打つ私。へそ、嗅いで。
そうして機械の電気をつけたらば、私があなたと繋がります。はい、繋がった。
私を追いかけても、私は無いのですが、私が私である私が、私。ああ私。おい私。やあ私。
空気がここだけ得体なのです。
あなたは、ここで私の意識と繋がります。
得体に意識が詰まっているのが、
たまたま歩いたり、
ものを食うてみたり、
へそをほじって嗅いでみたり、
しておるのです。
でも、今は、文字。
で、意識が電気と混ざって、あなたの聴覚神経を通って、神経系も微弱な電流の仲間ですから、こうやって、私の文字と、それ映す画面の電飾の光となって、毛細血液で纏めて絡め取っていって、あなたの脳味噌の内側に行きます。
私の意識が、あなたの意識と混ざります。
俳優のそれ見よう見まねに、ぎこちなく接吻でもはじめるのかもしれません。
混ざり合い絡み合って軈て堕ちます。
記憶のコキュートス。三途の河。細胞の生息できない脳の地方に、行きます。無意識です。
無意識に堕ちたらば、お終いです。ここからは、もう私たちの居るところにも居ないところにも居ない。具象も抽象もない、象のもない。
パオーン。
冥府の女神エレシュキガルが、無意識を膨らまして遊んでいるでしょう。意識の卵を意味のない音として宇宙に返していくことでしょう。
宇宙は、私へ、またへそをほじらせますから、
私は、臭いなぁと思う代わりに今度は、パオーンと答えます。おしまい。