承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『よりぬきzig9月号』(2019)

 

育児教室。半ば強制的に妊婦体験の重石を腹に巻かれる。妻がルサンチマンを湛えた笑顔で、こちらにスマホを向け、撮影する。

2019 9.1

 

昨日の助産師の口調について考えていた。彼女は「絶対○○はダメ」「絶対○○をしなければならない」「○○なわけない」という表現を採用し、主張を強調していた。そしてその発音が、かなり耳障りな音だった。私はあまり、そういう話の仕方は好きではない。

 

 

十くらいの少女が、手持ちの傘と友達の傘を二つ持って居て、天を仰いで雨乞いのようなポーズをする。公園の水溜りが、鮮やかに揺らめく。

 

 

タピオカか、何ぞ。と人の問いし時、露と答えて消えなましもの。

 

 

釈迦はシャーキャ族であるが、当時のインドは、ほぼアーリア族。

2019 9.2

 

 

仕事したくないなー、という観念を消していく作業。つまり、出勤をするわけですが。

2019 9.4

 

昨日の会議で、文字が小さいから読めない。と義憤を起こして、資料を投げた50代の男が居て、その態度を思い出して仕事に行くのが億劫になって来て居る朝です。

 

 

老眼という個人の問題を思い遣れ、と義憤を起こすのは、私は厭です。しかし、休むわけにもいかない。厭だなと思いながらも、その50代の男が今日も出勤する場所と同じ場所に向かわなければ、ならない。

 

 

自分に都合の悪いことに限って、取り決めたように忘れて来るような人とネゴシエーションを取ることが、私には辛い。精神的負荷が大きい。

2019 9.6

 

 

2時間後には大きなコンクリートの建物の中で、中年や初老と挨拶を交わしている。というのが、殆ど他人事に思えてくる。

2019 9.9

 

 

「誰かがしなければならないこと」という労働にならば、興味がある。

 

 

みな、生殖器を隠して、立ったり座ったり、話したり、パソコンの画面に向かったり、何かを書いたりしている。何をしているのかは、余り分からない。

 

 

性器を隠せば、取り敢えずは人間らしい。それは創世記にもある通り。

 

 

人類が、性器を隠せば人間らしい、と学習して来た、ということ。

 

 

他人の前から離れた。アイスを食べている。しかし、これを食べ終わったらば、また他人の前へ行き、立ったり、適当な挨拶をしたりしなければならない。

 

 

手に何にも無い時に、地球で生きる実力は、感謝しかないと思う。今、私は夕焼けに感謝している。

 

 

夕陽が、私に愛を呉れる。明日も生きろと、言っている。

2019 9.10

 

 

千のプラトー、を読む。

 

 

世界は樹木だとすると、本は樹木の根っこの役割をしてるよね、というようなことが書かれています。

 

 

ソシュールウィトゲンシュタインと、雑に適当に読んで、今、ドゥルーズガタリ。盲滅法に読んで来たけれど、この順番で正解だったのかも。

 

今日も一日、頑張らない。そして、頑張らないけれども、人を愛する。自己を愛する。他者を愛する。

 

私は、仕事を早めにするよう促す人とは、余り繋がりません。それも、優しさで、有難いことですけれど、そういう優しさには、私は興味がない。

 

ここで私はフーコー哲学の、アリエネ、アリエナシオンという概念を採用します。

2019 9.11

 

 

意欲があるかどうか、は別として、「意欲がある顔」を作られて仕舞うと、私はこわくなる。私は、私自身が意欲的に生きている、と勘違いしていることが、こわいから。

2019.9.12

 

 

誰かが恩着せがましくなれたらいいと、思う。恩を着せるようにして魂を休めて居る人を、私は大切にしたいと思う。本当はそうではなくても、私はそう思う。

 

今日は、何となく気分が良いんですけど、この良い気分も、いつかは無くなってしまうということを考えて、少しつらいです。

 

職場のデスクの、薬類を入れている棚。ここがトランキライザーや鎮咳薬で乱雑に充填されているのを見て、少し安心する。ああ、そういえばこうして生きてきたな、と思う。

2019 9.13

 

 

何故、失敗を正当化しては、善くないのか。

2019 9.14

 

 

レヴィナス哲学に「主体と倦怠」というのがある。主体性を以って存在することは倦怠感を伴う。つまり、ただ存在するだけで、人は疲れる。引きこもるのも、楽ではない。

 

 

レヴィナスの主著『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(1974)は、どうも読んで置かないといけない気がする。

 

 

「いつやるの、今でしょ」は、実存主義なんだと思う。

 

 

非愉快であり、非不愉快である。

2019 9.15

 

 

読書をするのと同じくらい、発信することは大切だ、ということが言いたい。

 

 

年齢の為どうしても、「いい歳して、家庭も顧みずゲームですか」感が出てしまう。だからこそ、真剣に、ちゃんとプレイする。誤魔化さない。むんずとコントローラーを握って、集中する。

 

 

「ゲームかよ」は差別用語です。これは発信しないといけない。

 

 

自分のカルティベイトはよく、他者のカルティベイトはよくない。というのは、よくない。

 

 

働くことから逃走し、学ぶことから逃走し、意欲的に生きることから逃走することのモチーフとして、ゲームを結び付ける人とは、距離を置いてきた。

 

 

この連休中に読んだもの。
・ソースティンヴェブレン『有閑階級の理論』
・エトムントフッサール『内的時間意識の現象学
・アントナンアルトー『タラウマラ』
・ジルドゥルーズ『冷淡なものと残酷なもの』
合田正人『異常な日常の思想』
・菅付雅信『物欲なき世界』

 

 

映画って、撮ってる監督も、出てる俳優も含めて「人生豊かに生き生きと生きてる」という感じがして、元気がある時にしか観られません。

2019 9.16

 

連休明けで疲れてないからといって、疲れるまで頑張ろうと無理をしないように、これから健康面を考慮して、サボります。

2019 9.17

 

 

1m間隔で、30代、40代の男女が犇くデスク。雑談や、アポを取る電話の声が絶え間なく聞こえる。私は、この環境が、好きではない。

 

どこか遠く、海辺の町でパンを焼いたり釣りをしたりしていたい。しかし、毎日、私はここに来て、働かなければならない。コンクリートに囲われた、この部屋で。

 

勉強っていいなぁ。一生勉強していたい。

 

 

伝わらない、ユニーク過ぎる表現は、かえって非凡で、没個性。は、よく云われることです。

 

 

人は、他者から「メッセージ」が欲しい。

 

 

音楽を聴くのは、音という他者が、メッセージをくれるから。読書をするのは文字という他者が、メッセージをくれるから。

 

Twitterは、どうだろう。知り合いを除き、その匿名とアイコンの先で、生身の肉体を持っていると想定される観念の他者。との接続。

2019 9.18

 

 

精神的な絆というものを、現実生活の中にも、もちろん求めますが、ネットでのそれを経験してしまった以上は、こちらにも求めてしまいます。なぜ、それをおかしいと思うのか、私には上手く分かれないことです。

 

味はクリックできないが、美味いという観念に変換される。どこで変換されるのだろうか。嚥下する時か。

 

嚥下とは、喉の筋肉の収縮。喉の筋肉の収縮と味の観念的変換。

 

ネットが許された労働環境において、ここで禁じられていることは何か。飲酒、喫煙、マスターベーション、ゲーム。他に何があるか。

 

殺人、強姦、覚醒剤。が許された世界を、自由と呼べるか。

2019 9.19

 

 

生物は何故生きているのかということの答え。それは至極単純。地球という質量の中心に静止する為。やがて、鉄になる。

 

 

生きたいと思う心が欠如している程度では、残念ながら、死にたいと思うには不十分だ。

2019 9.20

 

 

大量の情報が、同一性を強奪するので、誰に対しても共感することなど、本当は殆ど出来ていない。

 

 

私の非が発覚し、40代の男二人に迫られ詰られた。それを見ていた女や男が、手負いの獣に追い討ちかけるように、私を詰る。彼らは私が17時頃に帰宅することが気に入らないみたいだ。私は深く深く傷付いた。彼らの主張の一句一句が全て正しかったから。

私が新卒組の生き残りであるということを逆手に取り、「君はここしか経験がないから分からないと思うけれど」という前置きを入れて、私の仕事の出来なさを詰る人ばかりです。私は誰にも相談することが出来ない。

 

 

「お前の為を思って言っている」と思ってもらうのは良いのだけれど、私は事実、言葉で傷付いたし、その傷は全然癒えていない。それは、どうするのか。

 

 

しかし、今の仕事を辞める勇気もないので、精神の傷を誤魔化す薬を、より多く飲むという面倒を取らなければならない。

 

 

仕事の合間に路地裏でレッドブルコンサータ飲むの、何というか、惨め。

 

 

落ち着いて考えてみると、最初から何人かで私を填めたんだろう。示し合わせたようなタイミングで登場する人が多かったではないか。

2019 9.21

 

 

昨日、男に付けられた傷は、全く癒えて居ません。今日は、養生します。

 

 

既に90分の瞑想を経ましたが、雑念と反芻でいっぱいの頭と、胸に鈍痛があります。

 

 

こんなに私の精神に実害が出ているのだから、私を傷付けた男は裁かれるべきだと、本当に思っています。

2019 9.22

 

 

「自他に厳しい仕事の出来るタイプの人間」よりも、「自他に甘い仕事の出来ないタイプの人間」の方が好きです。

 

不真面目系エリートと、真面目系クズの二分。太宰治と、芥川龍之介の二分にも通底するやも。(無論、芥川は超エリートですから、あくまで観念的な意味論内で)

 

 

「健康に生きることが善く生きることだ」というイデオロギーを、他者にまで強いる人にしか分からないこともあるだろう。だから私はそれを咎められないし、そうすればいい。

 

 

何かしてて。何かするのに飽きて、やめて。飽きてるのが終わって、また何かしてたら、終わりました。今日が。

 

 

あんまり書きたくないのに、書きだしたら少し楽しい時がたまにあって、それだけの理由で、たまに少し書く。

 

 

休日に読んだもの。
長田弘『一人称で語る権利』
木村敏分裂病と他者』
・ユヴァルノアハラリ『サピエンス全史(上)』
ランボオ『地獄の季節』

2019 9.23

 

 

私の身体に、社会が入ってくる。望んでもないのに、勝手に社会が入ってくる。社会とは、挨拶や掃除や他者を非難することを、どうしてもやめない群れ。

 

 

「有り難い」という言葉を使う謝意表明。無意識のうちに「有ることが難くないもの」に対しては謝意を述べる必要がなく、無価値なものである、と認識する習慣がつく。

2019 9.24

 

 

今日も私は、殆ど執着心と自己保存欲求だけでTwitterをしながら、中年たちと背中を合わせて、時折嫌味を浴びせられながら、夕方まで反復の仕事をする。

 

 

頭を下げたり、電話をしたり、稟議書、復命書、報告書の類を書いたりする。加えてその他の書類の提出を急かされたりする。謝りたくもないのに謝って、適当にへらへらしながらやる。そのことを陰でぐちぐちと言われたりする。あいつは低姿勢のフリをした仕事を全然しないクズだと言われたりする。

そ、れ、を、毎日、毎日、繰り返す。あなたの仕事は、まだ良い方だと言われる。世の中には、日付跨ぐのが当たり前な会社員とかもいるのだよ、と言われる。知らねぇよと内心思いながら、結局、へらへらする。で、陰でそのことをぐちぐち言われる。

 

 

「仕事でちょっと無理してる」ことの連続を、矮小化したり、無かったことには出来ない。

 

 

積み上げた書類の端が、少しカールし始めたら、少し片付ける。

 

 

「○○なんだけど、ウケる」的、アイロニー表明の過程。

○○なのである。(命題提示)

けれども、(逆接)

それが嘲笑に値する。(解釈の表明)

 

 

死ねば、とりあえず身体を使って動くことと、脳を使って考えることができなくなる。それ以外で、死後も楽しめることって、あるかな。浮遊?

 

身体がなくても、クリックくらいは出来そう。浮遊とクリック。

 

でも、脳がないので、事物を「わかる」ということが、まず出来ない。むずそうやな。

 

今ある人工知能研究を応用して、死んだあとの人が思考できるようになる擬似脳みたいなものは作れるのだが、それを作ると世界秩序が混乱するので、作れないことにしてんだろ、世界。

 

「死んだ人」というのが、脳と身体が使えなくなっただけであり、医者が火葬しても良いと判断しただけの人である、ということ。

 

私と一生出会わなかった人。出会うどころか、私の存在したという全ての事実の断片に、一度も接触しなかった人にとって、私は「死んでる」も同然。

 

 

逆も然り。私のどうしても知らなかった人は、私という地平においては死人です。

 

 

私という地平において、死人を引き上げて生かす、というのが好きなのかも知れない。知らぬアカウントを、好きでよく無言フォローする。

2019 9.25

 

犠牲と報酬みたいな、二分的世界線から、観念的シフトしたい。

 

日和見主義は、なぜ非難されるのか。

 

機会主義、便宜主義、オポチュニズム、あるいはご都合主義と呼ばれるそれは、なぜ非難されるのか。

 

非難、とまではいかずとも、何らかの批評性があると錯覚されるのは、なぜか。

 

 

多くの人々から間接的に扶助を受けながら、社会の中で生きながらえている。という実感がわかないようにデザインされている。多分、面倒だから。

 

働きたくないのに働くことの理由が、みんな働いているから、というのと、自らが望んで就職したのだから、というのと、お金が必要だから、くらいしか見当たらないのは、なぜか。そういう病気か。

 

全人生をかけた、生存の中止。それから展開され得る、その後の出来事(ただしそれは、意識や知覚というものを超えた何か)の可能性について、考えたい。

 

「私」という現象は何か。それは、社会や共同体に認識された、或る身体の動きと物体的な身体そのものか。

 

 

「人生」とは何か。個々の記憶という情報が、「情緒」と呼ばれる観念に関連付けられて、それが自己の同一性の担保となっている一連の現象か。

 

あなた方が(社会の成員)、「私」という現象に対して、社会的圧力をかけるということを、どうしても辞めないのであれば、「私」は、これ以上、この人生を展開しないだろう。つまりは、生存を中止するだろう。

2019 9.26

 

 

夢を諦めないのは簡単だ。夢を諦めるのは、とても難しい。

 

生きる意味を考える時間が、勤務という猥雑な現実問題に攫われるのが、非常に不可解です。

 

本当は、今から昼まで、何のために生きるのかを考えたいのに。私はそれを辞めて、出勤しなければならない。というのが、うまく了解できない。

2019 9.28

 

 

そちらが礼節を重んじないのであれば、私も礼節を重んじることを、大変残念ではあるが、諦めなければならないだろう。なぜならば、一市民同士の意思の交通に於いて、一方が礼節を重んじ、一方が礼節を重んじないということを、私は上手く了解し得ないからである。

 

耳を澄ませば耳鳴り。自律神経が乱れていることが分かる。消費し、消費され、何か大切なものを消耗し続けて生きている気がする。

 

何かに執着しなければ、「何かに執着することを辞めて新しいことを考えよう」と考えることもできない。

 

「してるフリ」という表現における「フリ」とは何か。コミットメントしない、ということか。

 

日が傾いてから発生する成分が、町と脳に流れ込み始めた。

2019 9.29

 

 

朝。時刻表のないバスを待っている。

 

 

バスはもう時期やって来そうなのである。

 

 

陣痛18時間。お疲れさん。

 

 

(指パッチンの音)人生の新しい方向性を、思い着いた。

2019 9.30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

淡家朴『よりぬきzig8月号』(2019)

 

社会的な評価を受けなくてもいい。但しそれは、怠惰ではなく、直向きな努力が必要で。

/2019 8.17

 

 

何処に居ても誰と居ても、そことは別位相に社会を持てるか、或いは、社会性を立ち上がらせられるか。

/2019 8.17

 

 

「心の余裕」がやって来るのを待つ。それは明日かもしれないし、来月かもしれない。半年後かもしれないし、十年先かもしれない。或いは、この生の外かもしれない。

/2019 8.18

 

 

これが「心の余裕」だと規定していた何らかの観念は、インスピレーションかもしれないし、セレンディピティかもしれないし、モチベーションかもしれない。一つの言葉に偏重することで、精神生活はクリアカットなものになるが、しかしそれは視野狭窄とも思考停止とも言い換えられ得る。

/2019 8.18

 

 

「継続する」というかたちでの表明されること。他方で「辞退する」というかたちで表明されること。それに対して良し悪しを決め付ける私たち。ほんとうに、出来ることはそれだけなのか。

/2019 8.18

 

 

「有名だから」という理由だけで何故?と、思うこと。有名、とは何か。

/2019 8.18

 

 

氷河期のような現代閉塞社会において、ゲームに飽きて読書、読書に飽きてゲーム。腹減ってカップ麺。寝てスマホ構ってツイッター。のループを、なぜ怠惰だとか人としてクズだとか、負の評価をしたがるのか。それは保存食を齧って寝転んで居ただけの冬場の縄文人の暮らしと何が違うのか。

/2019 8.18

 

 

ある個人史において、ある定点に立って、過去を顧みる時の、その過去は、その定点にしかない過去だから。その過去を、前未来的に今、想像することは出来ない。

/2019 8.18

 

 

発語する直前に、その発語欲求の片隅の、隅の隅まで払底して、その言説に「何らかの自慢や自負、自己愛の発露、承認欲求の因子」が含まれて居ないかを点検する。

/2019 8.18

 

社会をそれなりに生き抜く為には、社会を肯定し続けなければならないし。それが厭だったらば、それに逸脱、背かなければならないし、の二重構造。で、踏み絵のような就職試験や面接があって、そこから先は、二重構造に強制参入後の世界。で、明日はどっちだ。と。

/2019 8.18

 

「人として当たり前のことができない」というレッテルの野蛮性、暴力性について語ることは出来ないかな。

/2019 8.19

 

「ヘラヘラして誤魔化す」=「現実にコミットしない」ってことかな。

/2019 8.19

 

「何らかのテクスチャに対してプラグマティックに関与することを避ける」か。

/2019 8.19

 

老人たちが、ドリンクバーだけを注文し、誰々が死んだとか、孫が来たとか、病院の予約がどうのと、話し始める。声が大きい。

/2019 8.19

 

無料のインフラではなく、有料のファミレスをコミュニティの場として使うところに、高齢者の社会的な承認欲求がある。

/2019 8.19

 

「きっしょ」「ムリ」「引くわ」などの発語を採用し、生態的ニッチを獲得、表明する。つまり、本能的に受精を避けている。

/2019 8.19

 

働く肩にレーニンの亡霊。

/2019 8.19

 

母のように全てを愛して貰いたいと希求しながら、他方で、自立した強い女性に対して性的に支配したいと欲望している。しかし他者とは、「母でもなければビッチでもない」存在である、という。

/2019 8.20

 

嫁さんの安産祈願に、木を買った。私の人生で木を買ったのは、これが初めて。根っこがどっしりしている。

/2019 8.20

 

現代の建築は「コンクリート」であったといわれる。コンクリートの劣化は、見た目には分からないが、突如として噴出するように粉砕するという。まさに現代人のよう。見た目には分からないが、ダメージは蓄積している。そして、いつの日か、心は壊れる。

/2019 8.20

 

「自分なりに」「自分らしく」という言葉を必死で採用して、他者に対して発語して、何とか同一性を保とうとするような努力を、今、多くの人が直向きに続けている。それはなんと儚いことだろうか。

/2019 8.20

 

例えば「胎内回帰願望」という言説を最初に考えた人が居て。その転義に賛同した人々が居て。その言葉がある程度の権威を持って残った。その後に続く第三の解釈者として、その表現を採用する、ということの有意味さ。言説の採用には、責任を伴うということ。文学的責任を。

2019 8.20

 

「やる気」みたいな観念に突き動かされていたようで。その優しい幻想の手に入れ方を、何度も忘れてしまうのは何故。

2019.8.22

 

他者の憎しみを、無意識に喰らってる私の無意識っていうのが、この観念闘争のきっかけというか、小規模なエピスメーテーの故障というか。

2019.8.22

 

私のしておいた仕事が一言も報われず、私の次にするべき仕事が一言も伝えられず。闇の中を、自分で動けと。厳しい社会です。

2019.8.22

 

他人の悲しみは何故放って置かれるのか。きっと面倒くさいからだろう。或いはどうでもいいのだ。暴力的なまでに、どうでもいいと思っている。

2019.8.22

 

劣等感やコンプレックスを、人間的欲求に注ぎ込むことは、根源的には善いことだろうか。

2019.8.23

 

経済的ディスアドバンテージや、外見的ディスアドバンテージ、知能的ディスアドバンテージを、胎児という他者へ与え得ると考えた上での「業」であるということ。これは善いことか。

2019.8.23

 

多分そういうことを直向きに考えないゲームなのだろう、か。

2019.8.23

 

家、または会社という小屋で、ペニスを飼育している。ということか。

2019.8.23

 

ファミリーカーにせよ、子供乗せ自転車にせよ、ベビーカーにせよ、抱っこ紐にせよ、それらは生殖を、具体的には勃起したペニスや、膣内射精を印象付け、喧伝する装置、モチーフであるということ。

2019.8.24

 

田舎のレンタルビデオ屋に開店待ちをキメるような人です。相当パンクチュアルでしょう。この、見るからに平凡な日常という人々も、映画を観るということ。そして、何らかのテーマやメッセージを受け取り、非日常を感じたいと思っているということ。

2019.8.25

 

国家の都合を、一旦忘れる癖をつける。

2019.8.25

 

筋肉、神経、骨、血液。が、ある知覚を有した状態の、もの。或いは、生命。

2019.8.25

 

「別にいなくていいのに、今日もいる」と、他者に白目で拾われて、無意識下に落ちる。そんな情景の一部になることが、存在意味になり得る。おはようございます。

2019.8.26

 

何故、人間は、勤務中に横になってはならないのか。人間は馬ではないから、立ったままでは休めないというのに。

2019.8.30

 

 

 

 

淡家朴『家族禁止』(2019)

 

性愛主義的イデオロギーが厭だ。

 

換言すると、「家族」「ファミリー」みたいな価値観に、非常に強く深い懐疑心を抱く。

 

何故?

 

何故だろう、理由は分からない。

 

過去の自己分析によると、エディプス期の通過に失敗しているらしい。

 

確かに、強い力で抑えつけられるようなモチーフの作品は、これまで病的なまでに繰り返し繰り返し発表してきたが…

 

 

かといって、今、SNSを中心にして、急進する左翼的、加速的思想の中で現れた「反出生主義」は、どうか…。

 

 

人間の生命や、血のカルマに関して、

 

 

 

ほとんど全てが、私とは違う考えをして生きている。

 

 

そんなことを思うことが、大変多かった。

 

 

分娩室を出て、妻と握手を交わし、私は一人、帰途につく。

 

ハンドルを握りながら思う。

 

 

まだ0人だ。

 

私の理解者は、まだ0人だ。

 

 

しかし、それでいい。

いや、それがいい。

 

耳を澄ませば、アンチテーゼが聴こえてくる。

 

 

それはナルシズムだという。

 

 

 

理解者のいない、というものに酔ったバカ。

 

 

 

パトロンを避ける為に、あえて違う方を誇張しているだけの、衒学者。

 

 

 

どれも、間違ってはいない。

 

しかし、それは本当ではない。

 

 

 

私の頭中にある観念は、それではない。

これは単純否定では、ない。

 

 

では、どうするか。

 

余生をかけ、説明し続けるしか、ない。

 

表現するしか、ない。

 

更新するしか、ない。

淡家朴『仕事で無理をするということ』(2019)

 

今日も私は、殆ど執着心と自己保存欲求だけをもって生きているみたいだ。

 

中年たちと背中を合わせて、時折嫌味を浴びせられながら、夕方まで反復の仕事をする。

 

頭を下げたり、電話をしたり、稟議書、復命書、報告書の類を書いたりする。加えてその他の書類の提出を急かされたりする。謝りたくもないのに謝って、適当にへらへらしながらやる。そのことを陰でぐちぐちと言われたりする。あいつは低姿勢のフリをした仕事を全然しないクズだと言われたりする。

 

そ、れ、を、毎日、毎日、繰り返す。あなたの仕事は、まだ良い方だと言われる。世の中には、日付跨ぐのが当たり前な会社員とかもいるのだよ、と言われる。知らねぇよと内心思いながら、結局、へらへらする。で、陰でそのことをぐちぐち言われる。

 

ああ、厭だ。

 

ちょっと無理をしてる。

 

この、「仕事でちょっと無理してる」とは、何なのだろうか。

 

「仕事でちょっと無理してる」ことの連続を、矮小化したり、無かったことには出来ない。

 

では、みんなそれをどう受け止め、どう発散してるのだろうか。

 

 

私の身内を、思い出してみる。

 

例えば、私の父は、妻や私たち子供に「高圧的な態度で、威張る」という仕方だった。

 

つまり、高圧的な態度を身内に受領させる(威厳をもって仕事をしている人だから、仕方がない)ことで、「仕事で無理をした」という事態を慰撫していたのだろうか。

 

兄はどうだろう。

彼は、自分の家族や私たちに対し「不機嫌な態度をとる」または「いかにも忙しそうに、大変そうに振る舞う」という仕方だった。

 

つまり、不機嫌な態度を身内に受領させる(疲れてるのだから仕方がない)ことで、「仕事で無理をした」という事態を慰撫していたのだろうか。

 

 

では、親戚の人はどうだろう。

これは、私の親戚だけでなく、妻の親戚も、分析範囲として考えてみると。

 

 

宗教だ。

 

 

親戚の人たちの一部は、日蓮正宗系や、金光教系、或いは韓国、アメリキリスト教系の、

 

所謂、戦前戦後の新宗教

 

に入信していたりする。

 

つまり、一般社会とは別位相の、閉じたコミュニティに帰属することで、「仕事を無理した」という事態を慰撫していたのか。

 

それだけにはとどまらないだろう。

 

宗教に関しては、「持病の痛苦」にも関係があるかもしれない。

 

しかし、持病が不都合なファクターとして自認される場面は、やはり「仕事で無理をした」瞬間ではなかろうか。

 

仕事だけに限らず。

 

生きてる諸場面で、辛い局面は必ずある。

 

 

その時に、どうしようか。

 

どうすれば、自分を慰撫できるのだろうか。

 

私は、考えていたい。

 

淡家朴『手抜きで生きます』(2019)

 

 

「勝負事」

 

は、

 

ちょっと手を抜いたりする隙、

 

が、落ち度になるかも知れないけれど、

 

「生きること」

 

は、勝負ではないので、

 

ちょっと手を抜いたりする。

 

そんな手を抜く私を、

過去の手を抜かなかった私と比べて、

劣化だと言って呉れる人

 

は、やはりあるけれども、

 

私はもう、変えません。

淡家朴『静かにね』(2019)

 

疲れた。

もう、殆ど生きる力は残って居ない。

 

時折、気を遣って笑い掛けて呉れる全ての人たちに、私は感謝して居ます。

 

 

私という現象は、結局のところ何だったのだらうか。

 

 

私は、また考える。

 

心の中に浮かび消えゆく観念の泡に合わせて、相応しい言葉を探し始める。

 

現実、私は前よりも更に黙するようになった。

 

私は、衒学を離れたくなった。

知ったかぶりをしたくなくなった。

 

これ以上、嘘を吐きたくなくなった。

 

 

私は考える。

もっと相応しい言葉を探す為に。

 

 

 

私は、この世のことを、殆ど分からないままで居る。

 

だから、私は、黙らなければならない。

 

 

黙って、自然に成る。

 

 

 

 

 

 

淡家朴『幻灯キに曦』(2019)

 

最近の私の精神状態は、決して悪くはない。

併し、それは決して自然とは謂えない。

 

医者に処方された抗鬱剤を去年の倍の量を飲んで居る。

加えて、市販のトランキライザーを、用法用量を守らずに飲んで居る。

 

私は、自己破壊願望などない。

酒も煙草も、変な風に飲る訳ではない。

 

それでも、飲むのには、

気休めだけの訳ではない。

 

私が脳で作り出した幻想の声が、

私を襲う。

 

 

私を弱気にさせる、幻想の声。

 

「やめてしまえ」と。

 

「にげてしまえ」と。

 

「きえてしまえ」と。

 

 

ここ数ヶ月の私は、これまで精神生活の中心に据えて来た、文学や哲学を離れて、宗教に接近した。

 

宗教の実践知を身に付けようと。

 

ヴィパッサナー瞑想」を、今は意識して続けようとして居る。

 

 

闘いの日々だ。

 

今を生きることは、とても辛い。

 

とても辛いことの連続でしか、ない。

 

 

家へ帰ると、妻の透き通った、美しい眼球を見るが、併し、それを通り越して、その先に、既に明日の不安がまた、私を見ている。それが、見えてしまうのが、私には辛い。

 

 

手をかけて呉れる、人々の手の温もりは、余りにも暖か過ぎて、かえって億劫となる。

 

私は、それほど誠実ではない。

私は、人間を生肉として欲望する。

 

謂わば、性欲というものにも、

私は聖人のようには振る舞えはしない。

 

 

幻を追いかけて、

幻に翻弄され、

幻にやられる。

 

 

幻灯機よ、どうか止まらないで。

私は、まだ見なければならないものが、あるようで。ないようで。