承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

映画鑑賞第7回『フルメタル・ジャケット』(1989)

 

スタンリーキューブリック監督、1989年の作品。『フルメタル・ジャケット』を観ました。

itunesのレンタルで407円。

 

アマプラ会員の妻に頼んで観せてもらえばタダで観られるのですが、やはり自分でお金を払わなければ観ようという気持ちにならない…。

 

 

「暴力」や「狂気」について、人格に何らかの影響を与えられたいと、うるうるしながら、スタンリーキューブリックの映画を、勉強だと思って観ました。

 

そういう青臭い、邪な目で見るので、あまり上手く刺さらない。前半部、後半部、ぼーっと観てしまいました。

 

映画前半部は、米軍の兵士訓練学校編です。変態サディストそのもののような教官が出てきます。

変態教官による、兵士たちの非人間化、隷属化のプロセスを、若干の丸みを帯びたユーモアで演出しています。

 

この丸みは、おそらく、この変態教官が、「サディストを演じ切っている」というところにあると思います。振り切っている。狂気じみている。偏執病的なその激奮には、どこかユーモアがあります。

 

「こわいタイプの学校の先生がブチギレてる」ところを盗み見て、なんだか心がスカッとする感覚。そういう類のカタルシスがあるなぁと思いました。

 

ボルテージが上がってる人の震えって、どこか演劇的なんです。

そういう暗い可笑しみを上手く描いてある。

 

 

前半部の終わりは、「ルサンチマンの暴発」です。

恐怖支配の集団は、パワーバランスの綻びを「いじめ」によって埋めようとします。

「いじめられやすさ」のことを、社会学用語でヴァルネラビリティと呼びますが、まさにこのヴァルネラビリティの高いある兵士が、いじめの標的になります。

彼は、ある日の夜に集団リンチを受けました。

 

最後は、その溜まりに溜まったルサンチマンを、暴発させ、集団リンチを受けた兵士は変態教官をライフルで撃ち殺し、自らもまた銃口を咥え、引き金を引いて死ぬのです。

 

 

映画後半部は、ベトナム戦争編です。

 

ベトナム少女のスナイパーとの戦いと、ミッキーマウスマーチを歌いながら焼け野原を行進する米軍兵士が、とても印象的です。

 

武装した少女を射殺する」という発想が、スタンリーキューブリックの変さだと思います。

 

何人もの兵士を撃ち殺した敏腕スナイパーの正体が、ひとりの少女であるというその意外性、コントラスト、アニメ性。

 

これはかつて、「覚せい剤入りミルクを飲み、略奪や強姦に出かける青少年」を描いた『時計仕掛けのオレンジ』にも通底するようなモチーフです。

 

スタンリーキューブリックは、子供に対して、「純粋や無垢」といったことは思いません。

子供に対して、絶えず働く想像力は、彼彼女らの「暴力性」です。

 

幼児退行の果てに戦争があるということ。

或いは、人を殺すということに純粋さ、幼稚さがあるということ。

そういうものを描いているような気がします。

 

 

日本でも、子供による凶悪犯罪は歴史上あります。レイプした後にコンクリートで固めて海に沈めたり、ハンマーで脳天をかち割ったり、手足をバラバラにしたり。乳首と性器を切り取ったり…。

 

そういう無邪気な乱暴に、創作意欲が掻き立てられる。

それがスタンリーキューブリックという想像力にあるのだと思います。