映画鑑賞第6回『聲の形』(2016)
補聴器をdisconectする。
その描写に、そのまま現代人の憔悴と鬱散を思う。
そこには、
「存在論的ささくれ感」
がある。
「今、こうして私が生きている世界が確かにあって、そこにアクセスできている」というような確かな存在感。
それが、他者によって遮断される。disconectされるということ。
私たちは「いじめ」について考えるとき、 身に引き寄せて考えようとはしない。どこかで、自分を守って、一歩引いた位置から見ている。
存在論的不疎通。
大人も子どもも関係ない。
存在の押し合い引き合いの中で、私たちは狡猾に立ち回る。劇中の子どもたちも大人たちも、そうだ。
そして、その存在論的なささくれに、共感を覚え、クリティカルな刺さり方をする。
デュルケームは、『自殺論』(1897)の中で、「罪悪感を一人で背負う時、人は自死を考える」と述べた。
罪悪感は"死にいい"理由になる。
孤独であることもまた"死にいい"理由になる。
「生きるのを手伝って欲しい」という劇中の象徴的な台詞。
生命は、ケアされなければ、在れないのだ。