淡家朴『パンティレイドマン』(2019)
下着泥棒の分からないところは、彼(彼女)らが洗濯された下着を狙うところである。
つまり、下着の持ち主が着けた何らかの内容物や痕跡を欲望する訳ではないのだ。
ここで、犯行に二つの分岐パターンが生じる。
泥棒した下着をコレクションするタイプ。
また、
泥棒した下着を穿くか被るかした後に、元に戻すタイプ。
前者と後者で、見事な主体の交換が起こっていることが分かる。
洗った下着から、何らかの性的な感動を得る為には、極めて間接的な観念の世界を経由しなければならない。「穿いて居た」という事実は目には見えないからだ。
したがって、彼らはその研ぎ澄まされた下着への情熱によって、形而上学的な仕方で、自らの玉の緒によってパンティを突き上げているということが分かる。
これは、言うなれば芸術的栄養の受益の構えであり、「受け身型」である。
次に、後者の場合は全く反対の駆動因子が認められる。
彼らは往々にして自らの体液及び内容物を下着に付着させた上で、下着を返還する。
この仕事は、極めて主体的である。
それを知らず知らずのうちに、下着の持ち主が穿くことを期待している。縁の下の力持ちならぬ縁の下の変態である。
そういう裏方に回って、体液や内容物を与える側に回る。ある意味で、プロデュースする立場をとる、「能動的な」モデルである。
以上のように、犯行のタイプによって、受動か能動かという分化ができた。では、次に、「穿いたパンツを強奪する」ということについて考えを展開する。
果たして、穿いたパンツを強奪することは可能か、ということ。そして、それは下着泥棒という犯罪の範疇に収まっているのかということ。
穿いたパンツを強奪する下着泥棒が居るならば、それは恐ろしいことである。彼(彼女)らは背後から忍び寄り、力づくで今、私が穿いて居るパンツを剥ぎ取っていくのだ。
これはもうレイプではないか。
パンツが欲しいだけという下着泥棒の願望は、侵されてしまうという恐怖から迫害を受けること必定である。
何故ならば、下着を無理やり剥ぎ取るという行為は、暴力であるからである。
こうした論証を跨いで、下着泥棒の妙味を照らした。僅かながら、その理解の及ぶ遠くへと渉猟し、逼塞した性犯罪への美意識を敷衍することで、私も得られるとした、いくつかの実解。
あゝ、木こりはどう答えるだろうか、
あなたの落としたパンティーは、この脱ぎたてのパンティーですか?
それとも、この洗濯されたパンティーですか?