承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『楽して稼ぎたい』(2019)

 

 

仕事が厭になったら、もうあまり積極的に仕事をしなくなるのが、人の常だと思います。

 

それは、すごく自然なことだと思います。

 

世の中に楽な仕事など無いと、胸を張ってエッヘンと出来る人というのは、たとえ仕事が厭になっても、それに耐えたり、また別の方法で解決する思考の技術があるのだと思います。

そして、それ以上に、何よりも本人が努力家であることに相違ないでしょう。本人が、強い意志と負けん気で頑張っている。その直向きな努力の成果なのだと思います。

 

僕はその才能を素晴らしいと思いますし、何も否定の余地はありません。

 

 

しかし、私はそうはしません。

 

 

ええ、私は、そうは努力しません。

それだけは言えます。

 

そうは努力はしない。

何故かは知らないが、そうしない。

 

ただ、それだけ。

 

 

私は今の仕事を一度、完全に厭になって、やめようと思った時に、では、ほかに何の仕事に有り付ける可能性があって、それぞれにどういうリスクがあって、どういう魅力があって、それを通して、どういう精神生活を軸に据えることが出来るようになるのか、ということが知りたくなりました。

 

 

可能性は有限です。

 

 

小学生の頃は、大人たちに、君たちは無限の可能性があるだなんて、世迷言めいた言葉を浴びせられ、そしてそれが本当のように思えて嬉しかったですが、今となっては、本当に世迷言。

 

選択肢は、容赦無く減っていきます。

 

転職するにせよ、今の仕事で得た「キャリア」という社会的な評価に従って、似たような業種閾値内を彷徨する他、術はありません。

 

それでは、根本的な解決にはならない。角度を少しずらして、気を紛らせているに過ぎないようなこと。

 

より楽に、より自由になりたい。

 

というような、社会的には認められ難い「幼稚な」動機をぶら下げて、馬鹿正直に転職しようものならば、世間からは門前払いを食らうこと必定。

 

今の仕事が、厭になれば、即終了。

 

一度アウトしたら、没落の一途。というような社会の仕組みと、それに伴う精神の仕組みがあるようです。とりわけ、コミュニケーションを軸とするような社会性の求められる職種において、対人ストレスや、対人のトラウマは「クセ」になってしまうので、極めて絶望的です。そして、その画一的な思考回路と、その思考回路の形成に加担している画一的な社会(資本主義社会、民主主義社会)での、絶望の解決は、ただ一つ、「自殺」しかないのでしょう。

 

これは、何も狂った発想ではありません。

 

現代日本の自殺率の高いのは、偶然ではありません。

 

「厭になる」という現象の中身について、対話することの出来ない社会があるということは、全ての現代人にとっては絶望的な事実です。

 

 

現代人はみな、肩に死神を連れているのです。