承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『行儀脅迫根性』(2019)

 

 

「行儀が悪い」

 

 

こういう言葉を、何度も聞きました。

 

 

そして、何度も聞きながら、未だにこの行儀なるものと、打ち解けられていない私がいます。

 

 

 

行儀とは、何か。

 

 

 

例えば、食事の場面で、食事に集中しなければ、行儀が悪いと言われてしまいます。

 

つまり、食べ物を食べる時は、食べること以外のことはしてはならない。それが世間一般的な、食事の行儀に対する態度である、ということは了解されます。

 

 

では、そのようにして、行動を制限するのは何故か。

 

 

一つは、安全面の考慮があげられます。

 

 

それは、食事という場面が、丸腰状態であるからです。

 

 

ライオンの狩りを例にあげましょう。

 

 

ライオンは、食事中の草食動物を奇襲するといわれていますが、これは、草食動物たちが、食事に集中することによって、気が散漫になっている。そういう隙を狙っての行動だと思われます。

 

 

 

つまり、食事中には、危険がつきものなのです。

 

いつ、横から天敵が食らいついてくるか分からない。また、横から自分の食事を奪われる可能性だって考慮しなければならない。

 

 

そういう、生命維持に関するクリティカルなリスクから、本能的に防衛する為に、私たちは、何かしながら物を食うということに対して、心が整わない、不穏な感覚を抱くのだと思います。

 

 

 

したがって、意識が完全に奪われない程度ならば、食事と並行しても罪悪感を伴わない、ともいえます。

 

 

そういった、不安定な心理から、何となく、テレビくらいならば、見ながら食べても行儀は悪くない。

 

 

と、思い込んでいるのです。

 

 

 

しかし、そんなわけないでしょう。

食事中に食事以外の行為を制限しておいて、テレビだけは例外、というのは、

 

 

 

バカの思い上がり以外の何ものでもありません。

 

 

 

私はこういう御仁に対しては、極めて不快感と、嫌悪感を、もう何年も抱きながら生きてきたといっても過言ではありません。

 

 

 

行儀行儀と、正義のようなものを分かったような顔をして振りかざし、束の間、自己肯定感を得るような人々。

 

 

 

これらは、全て、

 

 

「バカのクセに威張りたい」

「無能なクセに有能ぶりたい」

 

 

という、極めて悲惨なメンタリティの暴露以外の、何ものでもありません。

 

 

 

正義は、誰にも分かりません。

何が正義なのかを、私たちは提示することができません。

 

しかし、何が不正か、というのは感覚的に理解することができます。

 

 

したがって、「これをしては何となくいけない気がする」という行動を自主規制して生きることで、正義を演出することができます。

 

 

 

正義を演出するというのは、言い換えれば、「良い子ぶる」ということです。

 

 

つまり、行儀を主張する人々には一貫して、良い子ぶって、他人から認められたいという承認欲求が貫いています。

 

 

つまり、こういう人々は、「良い子ぶって他人から認められる」ということが、いかに虚しく、滑稽で、惨めなことかということを想像する為の感性的思考力を著しく欠いた状態にあると申し上げてもよろしいでしょう。

 

 

 

結論として、私は、やはり、これからも、食事中にスマホを構い続けるでしょう。

 

そして、それは別に、一般を逸脱したいという反抗でもなければ、自己中心的行為に対して、思弁的な正当化の化粧を施して上手にやりたいというような思い上がりの発露でもなく、ごく自然に。

 

 

そして、そういった「行儀」なる物差しで、人間の中身を分かったような気になりたがる「クソバカ」どもに、可哀相だなぁと、憐憫の眼差しを注ぎたいと思います。