承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『よりぬきzig4月号』(2020)

 

 

全ての「ツイート」は、外見的には無邪気な日常的思考という体をとるが、「他者との差異、とりわけ独自性や優越性」を、「他者によって肯定的に評価させようとすることを目指す」という点で、基本的に、十分暴力的である。故に元気のない時にTwitterはつまらないし、癒されない。

 

 

他者の暴力性をスキップしつつ、選択的に、(無邪気な体を守りながら)、自分の紡ぐ人生に統合する。そういう高度なスルー&ドライブができる。すごいじゃん。

2020.4.1

 

 

 

世界が終わっても、私は全生涯をかけて食洗機を廻す。何故ならば、私の紡ぐ人生全体のコンテクストにおいて、今、この瞬間に食洗機を廻すのだから。

 

 

脳波を操作してセロトニンを自家処方したい。

 

 

そっちでそう生きる力で盛り上がられたら、こっちは困ると逆に思う。

 

 

「『他人が生命力を高めている光景』、『他人が豊かになろうとした欲望の痕跡』に、勝手に自らアクセスし、その欲望に感染し、記号消費し、自らの人生において、似たような行為を反復しようとしている私」というものに対して、ふと、飽きる。

2020.4.2

 

 

 

私は報連相をしない人間。誰に何を言われても報連相をしない。断固、報連相をしない。

2020.4.3

 

 

 

「明るいバカなもの」が厭なだけで、「明るいものがもつパワー」は信じている。それと同じ熱量で、「暗いもの」「気色の悪いもの」から「明るいパワー」を培養できる可能性も、信じている。

 

 

「病むこと」や「老いること」によって、人格は変わっていく。その苦しみに適応してバランスを保とうとするからだ。

2020.4.4

 

 

 

私と両想いで啀み合っている、前の部署の上司が、嘘をついて私の過失を大きく装っていることが分かり、私はこれまで無駄に謝罪させられていたということが判明。全く、人間はおそろしい。

 

 

大震災化したテレビ。くだらない。

 

 

言葉に力があるようにするために準備をするのだけど、それがほんとうに時間がかかる作業で、大変。

2020.4.7

 

 

 

そういえばこの前、職場で、廃材置き場に猫の死骸が棄てられているから見に行こうという話になった。なんか、岡崎京子作品的だなと思いつつ断った。忙しかったので。

「死を見に行こうと誘われる」モチーフが人生初めてて、新鮮だった。

2020.4.8

 

 

 

「明るい子」が「いい子」と思うの、すこし軽薄です。それ、たまたま「明るい家庭」に生まれただけの「処方された明るさのアドバンテージに頼ってるだけの子」かもしれない。

「暗い子」や「グレた子」が「悪い」のではない。たまたま「両親が険悪な家庭」「暗い事情の家庭」に生まれただけ、かもしれない。だから、「明るい」「暗い」の印象二元論には、全く興味がない。

「処方された幸福」と「自力で創造した幸福」を、見極めたいだけ。

 

 

優しくされたい人が、極めて表面的に、まんまとその評価を得るだけの言語ゲームに、私は堪えられない。

 

 

そういう人々の群れに向かって立って、彼らがかつて経験したこのないような奇妙な言い方で、スキゾ的に、魔術的に、脱構造的に、関わりたい。

 

 

「昨日も娘に会えなかった、今朝だって、寝顔見て出て来たのに、今日も帰れない」と残業を愚痴る男。この男はよく、部下の女をつかまえては何十分と不要の立ち話をしている。

その女との無駄話を削れば、きっと娘には会えた。

2020.4.9

 

 

 

娘はミルク中毒であるが、私はアルコール中毒である。

酒、煙草、薬、珈琲、その他アルカロイド等の「嗜好品」と、乳児の生命を繋ぐ「ミルク」は、同等の価値がある。それを証明する為に、自殺というテロリズムが歴史上にある。

2020.4.10

 

 

 

行為や命令の端っこ。ここのニュアンスが、どのような形をしていて、どのような可能性があるのか。そういう疑問を無くしていく作業を、大袈裟に「経験」などと呼んでいるだけ。

経験をした人は、行為のニュアンスを伝える工夫を考えることができる。

いかがわしい情報は、端っこのニュアンスを欠いている。何故ならば、その部分にこそ、無知の者には知られたくなく、また、無知の者に知らせないことによって受益できる行為者の利得が隠されているからだ。

2020.4.13

 

 

 

「慎ましく普通に生きる」というのは、何も思いつかず静かにして、しかし確実に何かを食べ、しかし確実に性的欲求を満たし、しかし確実に何かを絶えず犠牲にして、しかし確実に何かを絶えず消費し続けるということ。それだけは、厭だ。

 

 

ファッションメンヘラの女が舌ピアス開けたりタトゥー入れたりするのは好きだけど、プロ野球選手が髭生やしたり、それに影響を受けたリーマンおっさんが髭生やしたりするのは大嫌い。気持ちが悪い。

タトゥーやピアスのようなセックスアピールとしての「身体損毀」は好物だけど、未処理体毛のようなセックスアピールとしての「無粋さ」は無理。

「無理」という生理的拒否的表現を使ったけど、別におっさんとセックスをする予定があるわけではない。

 

 

みんな傷つきたくないものだから、認知不協和があると、すぐに他人の過失を展開してホッとしようとするの、かわいい。

2020.4.16

 

 

 

ゲームも勉強も、"真剣にやれば"、テンションが良い方向へ上がり、快楽的な刺激となる。或いはテンションが良い方向へ下がり、瞑想的に深く癒されていく。

私はなぜ、今モンスターを倒そうとするのか。或いはなぜ、モンスターを飼育するのか。なぜ、排泄やセックス、死という臨界を忘却するのか。私の全人生にとって、モンスターとは何のメタファーで、なぜそれを愉しむことができるのか。

なぜ私は、データの中にユートピア的な世界を構築しようとするのか。現実とは何か。仮想とは、他者とは、統合失調症とは。と、そこまでいく。

 

 

「『消毒液の噴射ボタンを消毒する消毒液』の噴射ボタンを消毒する消毒液」の噴射ボタンを消毒する…を無限回繰り返して得られるフラクタル次元のコッホ消毒液を使用し、殺菌する。

 

 

音楽を聴く理由は、身体の深い血流に耳を預ける為。つまり、音楽は聴かなくても、そのような音に似た震えが、既に血肉には走っているのだが、音楽を聴くことで、そのことを思い出すことができる。

聴かなくなって既にある。他方で、聴いたところで手に入るものではない。

「なぜか、そうしている」という、十分に運命的な理由で、音楽を聴く。

2020.4.17

 

 

 

排泄中、レジ待ち、PC立ち上げ時、印刷機前、会議資料に目を通し終えた後の僅かな時間を掻き集めて、六冊読めている。

ここで読書は相応しくない。今は読書はせず、これをしてくださいという時にこそ、読書は絶大な威力を発揮してしまう。

セックス、マスターベーション、飲酒、喫煙、ゲームなどができる環境ならば、読書なんかよりもそちらの方が遥かに有意義である。しかし、それらが封じられており、且つ、何らかのすべきことを強いられている場合ならば、読書ほど有意義なものは、あれないはずだ。

 

 

生命力が賦活する方法を、たとえそれが暗黒啓蒙的であれ、胸を張ってベストを尽くす。出来る限り真剣にやる。

2020.4.19

 

 

娘。幼虫的から人間的になってきた。存在論から認識論へ。

2020.4.23

 

 

他者には、いつか一瞬で、嘘みたいに置いて行かれる。他者も他者で、私も私で、それぞれの人生が絶えず複雑化しているから。だからそのことは気にしない方がいい。

 

最後は、「もうどうしようもなくただそこにある自分の人生」に集中する力。

 

 

ブラウジング機能の非理性的な知性主義と、A10細胞神経系至上の反知性主義の構造を使って、宗教改革のようなプロセスで自己内差異化を繰り返す。

2020.4.25

 

 

負の自己分析の出来るのは立派なこと。

 

まず、太宰や漱石私小説をよく読むところから始まった筈の、その語り。

2020.4.27

 

 

Twitterで政府や政策に文句を言うのは、完全に意味がない。儚い。

 

 

SNSでの「いい男いい女自慢」「出来る男出来る女自慢」「いい夫いい妻を選んだ私自慢」。往々にして改まった文体(ですます調)。それは欺瞞と不遜に満ちた、SNS名物「コンプレックス超克ポルノ」である。

2020.4.30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

淡家朴「読み物投稿サイト scraiv第二投稿作品『妄じて放さぬ』(2019)」

 

 


これは、過去に投稿した『白身』と『程度』という題の、それぞれの作物に、『妄じて放さぬ』という散文を加えて、三部作としたものです。なお、三部作であって、三部構成ではありません。

 


 

私を妄じて放さぬもの。躁と鬱ぎ。これらに思い染めないでいるということは難しい。生きた心地がしなかったと思える者が、果たしてそれまで生きた心地を知覚していたかどうか疑わしいように、或いは、交通違反をした者が、交通違反で警察に捕まる前に、交通規則を意識していたかどうか疑わしいように。それは、ある時にかえって強く印象を与え、それ故に、かえって弱く印象を隠している。

『妄じて放さぬ』

 



二月の終わり、あの人の鼻腔を一度通ったことがありますという顔をした生冷たい風が外を歩いています。それが縁側からお邪魔して、頰に付着しました。頰を持った得体は、箸を握り締めて畳の上に座って、舐め茸の入った瓶を寄越しました。その得体は、どうしても動物ですと言いたげな無表情を湛えて、右に箸を、真ん中の茶碗を、筋肉を使って持ち上げて、とめています。
その箸を握り締めた動物は、左から舐め茸をだららっと白飯の上へ掛け、無用に箸を上下に運転さします。次の一瞬間、動物は刹那に「あ」の口を作って、水膨れの蝮のような汚い舌を繰り出して、その舐め茸飯を袋になった身体に一息に流し込みます。遅れてくちゃくちゃと不快な音を立てて、まるで噛んでいるように見せます。宛ら、老婆が噛み合わせの悪い入れ歯を面倒そうに動かすような格好で、それは食事というよりも、夏休み、ぼうやの仕方のない生への興味を引き受けた籠の中の甲虫が一人、ゼリーを抱えて途方に暮れている様子というようです。
動物は、やれやれという無表情をして、持った茶碗を置いて、右の箸を握り締めることをやめて、左の舐め茸も、もう白飯の上には掛けません、蝮の舌も納めました、袋になった身体も真っ直ぐに立てて直しました、だんだんと静かになって、また畳の上に座りました。
動物の頰に付着した風が、ぽろっと取れて、動物がまた得体に戻ったらば、風もまた、お邪魔しましたを見えない声で歌います。縁側から靴を履いて、舐め茸と白飯と甲虫の臭いをあれして、再び外の二月の集合体の中に戻っていきました。
何処からともなく、鼓の音が風を纏って、撓んで澄まして、風を膨よかな春風にさしました。

白身

 




「起きなかったことから順番に、思わないでおこうと思って暮らしているわけではない私には、起きなかったことを、実際にはなかったことのようになくさねばならないという生活上の都合がありました。つまりそれは、目の前を思うことと同時に、思わないことを思って暮らしていかなければならないという、私の意識の全てによる運転の結果として帰結した都合であり、主に私の精神の様子に印象を与えました。
部屋などのコンクリートの箱から、まずその外界へ他界して、身体を地面に向かって比較的垂直になって居なければならないこと。それから外界には他者と呼ばれる生体機構が、既に縦になっていて、これに対して一定の間隔を保って、或いは意識的に、この間隔を拡げたり狭めたりしなければならないこと。そういう組み立て合わせと同じように、全ては私を生きる意識そのものと、そこに偶さか居合わせた、筋肉、骨、血液などの群れ、そのそれらが一箇所にまとめられ、形をこしらえている。その有機的なわだかまりの一族を、私の身体だと訴えて、その人生を生活させてやらねばなりませんでした。ですから、この一回切りの生存を、私が私の身体だと曲解して、現実を現実であり、思うことを思い、思わないことを思い、知ることを知り、知らないことを知りながら、意識を、ただ一つだけあることのように思っている、この意識を、私の意識だということに意識するという意識を、謂わば、観念の強奪を、平気で取って澄ましている他者という生体機構に混じって、私も平気です。そういう平気を笑わないで、怒らないで、恐怖しないで、そして、しかし、それを、意識を、意識する意識の意識としての意識も、私を意識しない意識の意識としての意識も、私は常に平気です。平気でいることにも平気になりましたから、平気です。私の意識は、平気でした。今から過去へも未来から今への過去へも未来から今へも過去からも未来も…。」
などと、しつこく考えを巡らしている時分の内に、焚き火の煙は丸く小さく細くなっていって、一向に面白くない色をした二月の終わりの空想の虚空へ、微睡んで霧消した。
私は、背後へと踵を145.7度反転さして、透明になった母屋を見透した先の、玄関の方へと視神経を凝らした。私は、私の病を預けた脳髄の中に誇大妄想の外側に対しては、妄想以外に、神経で風景を追うことで、偶さかそこに現実を赦した。
「乳房の色をした禿げた頭を持った得体が二名、地面とは反対に重点を置いて、空へ向かって逆さまにぶら下がっている。したがって私は、歩くという、足を使った筋肉の運転を、脳内を迂回して司って、乳房の禿げ目掛けて、うわわわと右足、左足を交互に掻い繰って、それらとの肉体の間隔を縮めた。瞬間に、乳房の禿げは、私の視神経とは別の方向に意識を運転さして、私のコミュニケイトを遮った。私は、そのまま、乳房の禿げを通り過ぎゆく格好となった。乳房の禿げは、玉突き遊戯の玉の如く、左右に弾けて、その後静かに止まった。私は、頭頂部を重点にして360.7度回転し、今度は、乳房の一切を視神経に預けることなく、寧ろ、それを聴いた。すると、此方側の神経が、乳房を通り過ぎゆく格好となって、また、私の脳髄へと宣伝演繹された一連が、私の意識下で一点となって、私はまた、静かに意識になっていく…」
などと、申し訳なくなった灰の中に、喉元に出掛かった言葉を言わないで取っておきながら、私は静かに聖なる時間を空費していた。
西の空には、大きな茜の集合体が、烏をまとめて演奏指揮している。私は、鼻歌を歌いながら、そこへ関与した。ただこの時だけは、誰にも阻害されないというような自由のような心持ちに、束の間、気を預けながら、私だけに焼いた内緒の根菜に静かに噛り付いて口蓋を火傷さした。

『程度』

淡家朴「読み物投稿サイト scraiv第一投稿作品『神聖病』(2019)」

 


仕事を貰わないでいると、社会の厄介物だとか人間の屑だとか好きに言い、かえって仕事をたくさん貰っているのをみると、早速、もっと自由に生きよ、家族との時間を大切にせよ、自分のことを考えよ、と簡単に思いつきで言います。言葉は意識と同じように刹那に思い浮かんでは刹那に印象を保存するため、本当に簡単そうに命令をしては、当人の心をほほろがすだけほほろがして去ってしまいます。
周囲の命令に従わないで「自分らしく」あろうという思いつきも、思うだけなら簡単で、巷の本屋さんには、ずらっとそういう類の本が並んでいます。また、通信技術の進歩のせいにしてみたりして、人間存在の仕方が変わったと嘆いては、共感を煽って澄ましている本も腐るほどありふれています。これらは、何度も何度も同じことを別の言い方で分け直しているだけで、全く快楽的なものです。かくいう私の随想も含めて、得たことの属性を分けたり、それを抽象化して分けたりして、ほほろいだ気と心をデフラグ処理さしているようなものです。
見る者にも、書く者にも、敬意や誠意が無くなったのは、私たちが普段から、共通の価値に説得され続けているからです。そして、通貨や評価を無しにして、何かを説明されたりするということは無意味に等しいと思い込んでいるからです。敬意や誠意を無いままに、他人の考えた作物を真剣に受けるという人は、バカにされてしまいます。バカにされるのは、みな厭ですから。
お金の沙汰、誉れの沙汰。その二強。
集団が大きく複雑になるほど、人と人は間接的な関わり合い方を好み始める為、より抽象的な共通価値が、かえって直接的現実的な権限を持つことになるのも必然です。
では何故、何らの地位も名誉も資格も所有していない私の作物を、今あなたは読んで下さっているのでしょうか。ここまでの文体だって、何一つ新しくない言説です。過去の作物を、斜めに読んでそのままにしている私が、本領にしただけの物を、こうして拙い文体で留めているだけですが、それでもあなたは読むようなので、ここで失礼して、私は視点に転身します。

 



所有と所有の境界に、争いごとが起こるように、文章と文章の境界で、作物は運筆者の意識の強盗を始める。私は腕捲りをしてそいつを掴まえては、別の魚籠に移すことで一石三鳥の徳を得ていた。というのも、私が持っている魚籠は、絵を描く気の因子、歌を歌う気の因子、そして文を捻る気の因子、と三つであった。しかしながら、そのどれ一つ取っても大成せず、様々な言い方でその無謀をなじられた。
持病に高血圧と、躁病があったからということで、料簡を通そうとしていたが、病のせいにしては、その先が保たない。過去の偉大なる芸術家や作家たちも、何らかの具合悪さを患っているのだから、これは寧ろそういうことなのだと、良いように誇張して取って、創作の動機にして澄ました。最も、その時に私は私の才能を決めつけて信じてやまないバカであった。
いつも通り、持病の高血圧によって真夜中に叩き起こされた私の心臓は、全身に向けて顰めながら激しく血を送っている。大脳が五月蝿いと心臓を怒鳴りつけるように偏頭痛をさして、その間で私は小便を出した。目蓋の梟も、大腿骨の案山子も、まだ眠いと言っている。私は硬い鼻くそ大納言と親指で対峙しながら、大義そうに不味い麦茶を飲んだ。
下らないタイムラインの猥褻な画像をスワイプする指を見る。黄色人種の指。脂手の上に冷え性の指を見る。股間の皮脂の臭いをかいで、毛布を被った。大脳も心臓も、麦茶の臭いも、私の肉体を離れた午前3時47分。幻想鉄道が、見えない夜空を滑空した。

 



午前3時49分発。幻想鉄道。停車駅。
「つまらない駅」3:51
「くだらない駅」3:55
「しょうもない駅」3:56
「たのしくない駅」4:08
「おもしろくない駅」5:16
「的外れ駅」5:30
「勘違い駅」6:00
「思い違い駅」6:30
言葉は、酷い。
言葉を発したその瞬間に、反対の意味印象を保存する。誰もがその性質について取替えや点検をせず、それで良しとする。繰り返し思考することよりも先に、名前をつけてたり、良し悪しの判断をしたりする。諸概念に分化し、異端や周縁を脅かしたりする。凄まじき忘却への努力によって忘却し、忘却したという事実さえも忘却し、無意識の下へ下へと階層化して封印したりする。目下の全現象を、差異と認識によってのみ解釈しようとする。言葉は、何かを表現しようとするだけで何もしていない。興味や非興味の対象として脅迫され、摂取され、分かられてしまう。それが厭だというと、即刻、発育障害のお札を額に付され、また、言葉の上で分かられてしまうだけ。画一的世界。何も表現し得ない世界。ある程度のほとんどの事情を、私たちは既に分かり合っているということになっている世界。ただ行為依存で繰り返している為に、薄っぺらいと揶揄されてしまえば、揶揄された通りに本当に薄い為に、何ら打ち消しも働かず、その通りに了解し、疲れて、何も考えなくなって、それで終わる世界。

 



J-POPの歌詞のようにしか考えられない。思わせぶりなポエム。その思わせの内容を敷衍して、世俗的要素を追放、払底していけば、純度の高いポエムが完成する。それを秘密の樽に詰め込んで、熟成させて、後々取り出して味わうのだ。新しい文学は形を知らない。取り出すのは読者自身によるため、各々、杯を持ち寄らねば在り付くことはできない。
私によって生まされた作物は、歌の魚籠へ逃げる一瞬間にそう耳打ちして、消えた。確かに、そういうことはあるかもしれない。私は、私に納得することはなくても、私の作物によって説得させられることは、かくの通りあった。小説みた連続的テクストの未来形は、今、歌の魚籠へ逃げた作物が言う通りである。
ほとんど力を使わなかったところにのみ、自分の天性の力が降りてくる。力んだ死人の前には永久に熾天使は馳せ参じない。下らない覚悟は下らないままで良い。後で残ったそれに、また向かっていくというだけである。
意味のない言葉が、意味のないという意味を保存する。抽象的な表現だという言葉が、抽象的な表現であるという表現を保存する。あるかないかということが、ある。そういう多項式の魔法にかかって、物事が連なっていく。
相応しい私は、何もなかった。
だからこそ何もない相応しい私が、何もある。

 



鉄骨とコンクリートで組み上がった大掛かりの機構に車が入っていく。それが立体駐車場という名前をもったらば、途端にすとんと小さくなって、なんかにおさまった。私も同じように、私という名前をもって、こうして言葉を打ち込むことを可能にしている筋肉と、骨と、血液と、イオンの水溶液と、細い管の色々が、身体というまとまりを伴ったらば、途端にすとんと小さくなった。この何か。何か。あなたの意識とか、あなたの世界とか言われても、分からない。私は今、身体を伴っているから、こうして色々な音を聞いて、気づいたり思ったりしているし、それを無駄だと思う余地がないから、無駄だと思わない。動いているから、外部の刺激に、その様々な状態の差異の連続に立ち会って、そこでそれを一々、勝手に解釈したり、受け入れてそのままにしたりしている。そこには、何の暇もなく、隙間なく現象で埋め尽くされている。同じように身体をもって生きている他人の経験を想像して、近づけて、場面設定。ほぼ無限にある文脈から、思いついたものから、言葉で引っ張ってきて張り巡らせる。それ結構、根気が必要で、少しでもブレたらバレる。人は表現する力がなくても、それが何となく適当に、簡単な労力で表現されたものであるということはなんとなくわかるから。ここが悔しい。ここは駄目だねって言語化されたら、本当にそうだから、瞬間的に負ける。そこ一点のタイミングだけでは、上に立たれてしまう。

 



私の大切な時間は、その中間媒介項の人間の存在によって、容易く霧消してしまう。しかし、その存在を消したらば、ありありと立ち上がる霊魂の行列を、これを現実の人々と言わずして、果たして私はその幻想を幻想たらしめる諸要素を分からないでいる。
夕暮れが訪れた街並み。黄昏の成分を連れて、やぁと私に向かって橙色の光源の集合体を見せている世界線。もう何度も断って来た筈の心象に、私はまた精神を糜爛させてしまう。何故ならば、奇跡を見せつけている目の前の自然現実と対比して、目下の名の羅列が、私の腹部をキリキリと締め付けるのだ。最も、これは私の解釈であるが。現象としては、ただ、紙の上に印字されたインクを、視覚神経で捉えているに過ぎないのだが…。現実現象を一度脳内で言葉に起こして再生して、プレッシャーを緩和しようと勤めても、どうも上手くできない。
当事の私は気違いであったが為に、人は皆、死ねば善いのにと思い至っていた。理を解することに、あまりにも不得手過ぎるから、こいつらは吃とバカなのだと高を括って顰めていた。無論、その理は私一人の解釈に他ならないのだが、確かに私はそのことで得意になっていた。まさに気違いでいたに違いはない。事を同じくして、私はまた、大いなる辛抱があったが為に、私は幻想を追い、また幻想に追われ、また絶望を負い、また絶望に負わされ、つまりはあちら側から好き放題を許していた。
あちら側とは、私と私の世界を取り持つ、中間媒介項、つまりは外界や、社会、周縁とのコミュニケーションの領域において、私を半分、私させる機能性の集合知であるそのそれら。全ての地平を相対的に慣らす特権の乱動。
今ここで振り返ってみて、時間軸は大いなる間違えの中にあったと思う。民主という幻想の中で、個性という幻想を探させられるという間違えた教育の中で私も育まれてしまっていた。したがって私は、個性的であることを右と同じように強く願った。最も個性などというものは何処にもなかった。何を新しがっても、それは何かの繰り返しであったし、何を分かっても、それは哲するという捻転に過ぎなかった。自己に対する全てのポジティブな価値や印象は、幻想に数えられたし、また、集団で幻想の中にあるという仕方も、集団催眠の概念に及びがついた。つまりは人々が、誰もが「誇り」をもつことが不可能な事態であった。目には見えないものは全く思い込みと判別ができないのだ。そしてそういう風にネガティブに分化する相手には、こいつは何を言ってもダメだと決め込んでいるからバカなんだと、ただ貶して満足するのであった。総じて、極めて愚かであった。どいつもこいつも。同じ位相にあって、そこに別方向に溺れるのである。
個人の芸術行為は、全く出涸らした芥を絞らされるような奴隷労働だった。私はこのような理由から、気違いでいる他、気紛らわしが見つからなかったし、そうしていることに別に驚かなかった。そして、私はある日、ついに正しい発狂をした。正しい方法で、気違いとなった。つまりは、このように書き出し始めて、少し少し、力まないようにして取り出しては、虚空に向かって放つのだ。


拝啓、神聖病
こんな人生、私のためにしかならない

 



何かを絶えず分けなければならないという関心は、どこから起こるのか。何かを何だと分けて、解釈することしか、心に安らぎを与えられないのは何故だろうか。
学校で、勉強?
そういう経験が涵養したことなのか。「分かります」「分かりません」と世界を二分割することでしか、生を表明できない学校。
「善」と「悪」みたいに分けることをしないといけない学校。それを常に強いられて、それを常に何事もないかのようにこなさなければならない学校。
それと、消費?
消費生活?
消費と勉強しかして来なかったから、どうやって心を満たしたらいいかが分からない。僅かな関心を辿って、ピストン運動のような絶望と希望を繰り返す。共同体で得た喜びは、極めて危険で、人はそれだけで生きていけるような錯覚に、陥らされてしまう。不平不満の感情は、必ず他者との間で、相対的に沸き起こる、本当は無味乾燥の記号なのだ。
しかし、人はそれを、そうは思わないという直向きな無視、徹底した消失の容認によって、踏み倒していってしまう。
そんな人生、人の為にしかならない。
どちらもありふれた生活の法。しかし、たとえ、ありふれていたとしても、良いのではないかと思いました。その路傍にまとまった屑芥の一片で、別に良いではないかと、本当の肯定感を得ました。私が、誰にも相手にされないという仕方で相手にされている、ありふれた全ての無駄は、変ではあるけれども、機能しているのではないかと思うようになりました。
それは、馬鹿にしては少し惜しい、新しい思いのようでした。私は魚籠に手探りで、先の因子を掴まえて、また放りました。

淡家朴『私の好きなドゥルーズの思想』(2020)

 

COVID-19の影響で、ご多分に漏れず、私も在宅業務が増えた。必要あらば、会議をzoomというアプリで行うという通達も受けている。

 

したがって、本来は出勤している時間に家にいる。ということが増えた。

 

しかし、それが哀しいほど苦ではなく、むしろ今がベル・エポックであるかのように、貴族的な朝を堪能することが出来て仕舞っている。

 

とはいえ、完全にプライベートということはない。電話対応やメールチェックをしなければならず、心は完全に休日の穏やかさというわけではない。

 

そんな豆電球の明かりほどの公的な緊張感の中で、かろうじて気をほほろがすことが出来るのは、やはり読書であった。

 

したがって、当然、読書をする時間が増え、順調な積読消化の日々を送っている。

 

読んでばかりだと消化不良を起こしそうなので、私の好きな、そして最近また読み始めた、ジル・ドゥルーズ[フランス]1925〜1955という哲学者の思想について書いてみる。

 

 

ドゥルーズは、20世紀後半を代表するフランスの哲学者の一人で、パリ第8大学の哲学教授として定年まで勤め上げた。日本の高校の教科書にもフーコーデリダらの隣に、当然、載る。今年も、いくつかの大学入試の問題でその名を見た。

 

そういう、「アカデミズムに正式に接続した哲学者」ではあるのだが、私生活ではかなり「端っぱな」「アウトローな」「ジャンキーな」人であった。

象徴的なエピソードとしては1995年11月4日。彼は自宅のアパートから飛び降りて死んだ。また、慢性的な飲酒癖から、常にアルコール摂取をしていたという。

 

教師という社会的地位にあって、アカデミズムでの公の仕事を営みながら、その実、アルコールに浸り、最期には自殺をした。

 

そんなのいけないよ。そんなのダメじゃないか。そんなのおかしいよ。

 

と、やはり思って仕舞う。

しかし、この「公私二分論」的な義憤も、彼の前では、肯定という形で躱されて仕舞う。

 

ドゥルーズは、左翼活動家のフェリックス・ガタリ[フランス]1930〜1992と初の共著『アンチ・オイディプス〜資本主義と分裂症』(1972)の中で、「統合失調症」的な生き方を肯定した。

この本は、近代社会のとても深いところを、統合失調症の肯定という体で攻撃する。

 

 

私たちの倫理や道徳は、

 

詰まる所、「ちゃんとしなければならない」

という曖昧な定言命法によってなされている。

 

「大人として、ちゃんとしなければならない」

「社会人として、ちゃんとしなければならない」

「親として、ちゃんとしなければならない」

「教師として、ちゃんとしなければならない」

 

この、「ちゃんとしなければならない」というのは、例えばルソーの「社会契約論」では、

 

"個人は「自立した自由で平等な個人」であらなければならない"

 

といった言葉で、言い表されている。

 

そして「自立した個人」を支えるものの一つが、この「公私二分論」だ。

 

「公」と「私」を分ける。

「家」と「職場」を分ける。

「仕事」と「趣味」を分ける。

 

そういった倫理観が、社会にはドライブされており、そのドライブされた構造の中で生きている私たちは、それを「当然のこと」と錯覚して仕舞う。

 

「人間は強く生きるべきであって、弱い者はすみやかに淘汰されて消えるか、或いは努力をして、個々の能力を高め、強く生きるように努めなければならない」という錯覚、妄想。

「強い者は、明るく元気で、生命力に満ち、弱い者は、暗く陰険で、生命力に乏しい」という錯覚、妄想。

 

二元論で世界が整うような全体主義的構造の中に、実際、人々はあって、実際、人々はそうなっていく。

 

そして、多くのそういう人々の中にあって、その構造を分断、逃避しようとすると、どうしても統合失調症的になっていく。

 

 

社会が「ある一つの社会的なフィクションを特権的に採用している」という状況は、それとは反対の概念を封殺、忘却する。

 

だから、やってはいけないことがあり、やらなければ!ならないことがある。

 

だから、病的だとか、暗いとかいわれる。

 


でも、別にそのことを先のような二元論の後者に位置付けなくてもよい。

と、背中を押されるのだ。

 

そんな一見危ない誘惑の、がしかし確かに生を肯定する思考ルートを、どうして読まないで居られるだろうか。

 

世間には、暗い怖いおかしいと思われてしまう言動も、そのことで思い悩むことも、ドゥルーズを読んでいるときは、束の間、忘れることが出来る。

 

 

私には、やるべきことなどない。

私には、してはならないことなどない。

 

私が、そうしない。或いは、そうすることで困ったり、悲しんだりする人、というのは。私に対して、「そういう都合のいい私であるように私を振舞わせ」、勝手に依存していただけの愚かな人である。

淡家朴『よりぬきzig3月号』(2020)

 

たとえナンバーガールのライブを生で見たとしても、そのことをSNSで発信しないでいられるような静的な力を、自称音楽好きたちは、もう取り戻せないでしょう。

でもね、音楽なんてものは、誰に伝えるわけでもなく、一人で勝手に感動して、一人で孤独な時間を堪能するものなんですよね、本来は。

私はこのアーティストのライブに参加するようなセンスがあるんですよ。しかも、昔からこのアーティストは好きだった。ね、私のセンスには同一性があるでしょう。ということを、わざわざ世界中に発信しなければ、気が済まない。なんて、おかしいよね。

 

資本主義と個人主義の親和性。SNSに上げ証明されるのは、それがただの記号消費であったということ。

でももう記号消費万歳でしょう。ズブズブだから。それなしではやってられない。自分の価値が表現できない。

自分の存在には価値があると、ネット上で表現し続けなければならない地獄。承認地獄。孤独地獄。

2020.3.1

 

窓辺の梅の花が、骨に応えるほど薫っている。

2020.3.2

 

労働者としての答え、配偶者としての答え。それはただの私の答えでしかない。ただの私の答えということは、それはその時点での一回性の生成物でしかない。

 

なぜ、生きるのか。なぜ、死ぬことを選ばないのか。毎日、毎時間、毎秒、生成してください。毎日、毎時間、毎秒。それこそ「真剣に自由に重々しく気高く選択」(小泉義之『病いの哲学』2006より)し続けなければ、本来の意味での生命を全うできない。と、考えてみる。

 

死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い死ぬのが怖い。と、毎秒思う。

隣の人にも聞いてみる。え、死ぬの怖くないんですか?え、死ぬの怖くないですか??

 

例えば、コミュ障というのは、ある社会関係において生成された一回限りの現象でしかない。無人島に独りで立つ時、いや、月面に独りで立つ時には、コミュ障は永遠に生成されない。

だから、そんな瑣末なことではなくて、月面に独りで立った後に、いかに生を充実させられるか、ということを大きく考えてみる。

2020.3.3

 

 

「年休をあまり取っていない」ことを、勝ち誇ったように話す人。

 

性器やセックス。或いは、マスターベーションを表象する「手話」はあるのだろうか。

 

性器も肛門も尿道もないポケモンという生物的表象を飼育するという経験が、ユートピア思想につながる。

 

これからの人生、様々なことを経験せず、自信を付けず、逃げてください。現実ではなく、永遠に向かってください。それこそが、人生です。というのが、ユートピア思想。

2020.3.4

 

 

グランツーリスモの中に入っている観念の車を走らせる。

 

個人的に静かに独特に幸福に生きる権利を邪魔する人とは、戦います。

場合によっては生命の破壊を目的に行為することも辞さない。

2020.3.5

 

 

匿名性とエロス。モザイク処理されたヴァギナ。スマホモニターに対峙して反復される射精。切断せよ。

マスターベーションをやめなさい。38億人ある世界の貧困層について考えなさい。

2020.3.6

 

 

好きなもの観念。嫌いなもの身体。好きなもの音。嫌いなもの言語。

2020.3.7

 

 

思いついた行為。それが音を立てたり、大きく移動したり、或いは料金を支払わなければならないものでない限りは、思いついた行為、全てをやる。

2020.3.8

 

 

「瞳を閉じればあなたが瞼の裏にいる」という歌詞。間違えている。閉じるのは瞼だ。瞳は瞳孔だから、閉じられない。

2020.3.9

 

 

少し人生を変え、それを相互監視者に訂正される。それを、反復する。

 

その「え」という音は、行為者の全身体を揺るがせ、全生涯を一度、宙吊りにさせる。

 

これだけは知っておくべき重要な作品など、ない。それぞれの個人史において、重要だと思った作品が、重要だ。

なぜ、他人の人生において重要だっただけのものを、わざわざ私の人生において重要なもののように取り扱わねばならぬのか。

2020.3.11

 

 

アスリートとかいう他人の人生の映像を観ることを愉しいと思わない。そして、そのことを誰にも憂慮されたくない。憂慮するならば、私は全生涯をかけてその価値観と闘争をする。徹底的に粉砕、解体することに命をかけてもいい。

こわい。何をするか分からない。何を考えているか分からない。おかしな人たちが群れてそれを正しいと言う。私には正しいと思えないことを正しいと言い、反対意見を封殺して澄ましている。それがオリンピックに対するイメージ。

オリンピックとは、うんこを食べている映像を見せられて、ほらお前も性的に興奮しろと脅迫されるようなことである。

2020.3.15

 

 

世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら歩め。 フリードリヒ・ニーチェ /『反時代的考察 第三部』(1875)

2020.3.16

 

 

笑う時に手を叩く職場の人。五月蝿いので舌打ちしたら目が合った。

 

極めて個人的な日本の哲学者、一軍(存命縛り)

千葉雅也(41歳)
國分功一郎(45歳)
檜垣立哉(56歳)
仲正昌樹(57歳)
浅田彰(62歳)
黒崎政男(65歳)
野矢茂樹(65歳)
小泉義之(66歳)
永井均(68歳)
前田英樹(68歳)
内田樹(69歳)
内山節(70歳)
鷲田清一(70歳)
宇野邦一(71歳)
竹田青嗣(73歳)
中島義道(73歳)

 

図書館に通って哲学者の本を読んだり、文学的な語りで人生をまとめる訓練をネットで続けたり、そういう純粋で深い勉強が、毎日無料でできる。

散歩も筋トレも、毎日無料でできる。

毎日無料でできることに夢中になれば、毎日無双状態で生きられるのでは。

2020.3.17

 

 

三〇年前の映像。戸川純を観てる。最強に可愛い。

2020.3.19

 

 

動物の森。生殖器官の無い動物。死やセックスという臨界の無い営みの反復。モニターに接続された眼球と指。瞑想的な静寂とユートピア的悦楽。

2020.3.24

 

 

桜を撮影していた中年女性が、一瞬こちらを振り返った。それが、ものすごい真顔だった。何となく厭だった。

 

JRの駅を降りてから目的地への道程を説明をする男。その語り方が、何となく厭だった。

突然、ペニスを蹴られたら、この男はJRの駅を降りてからの説明をやめるだろう。その程度だ。

 

大学生二人組とすれ違う。「クソだわマジで」という言葉が耳に入る。思考射程の狭さを、そのまま表現したような発音だった。

恐らくバイト先か、教授などの身近な他者に対する愚痴だろう。全く内容は知らないが、容易に想像ができる。そういう音だった。

世界を閉じ、今発生している目の前のスキームだけを信じ込んで生きている。

 

いかにもセックスの後、というようなジャージ姿の男女。梅毒のような笑顔。

2020.3.26

 

 

袋小路を出る方法はない。後戻りをしようとすると、前に進んでいる。考えることをやめようとしても、やはり前に進んでいるし、返って前に進んでみようとしても、やはり前に進んでいる。止まっても止まっても、前に進んでいる。

どうすれば前に進まなくても済むかを考えているうちに、やがて前に進むことが前に進まないことだと思い始めたのだ。

 

認知不協和を解消するために、"全く論理的ではない間違った解釈"を、"出来るだけ真剣に"して生きていくという覚悟。それは、相当なものだよ。

 

非論理的で非常識的な言動をとる。それは、絶対に善くないこと。アブソリュートイービル。でもそれを、あえてする。だから、侮蔑される、涙が出るくらい。人は離れていく、いとも容易く。何故だろうか。

2020.3.28

 

 

詩人は日々の草創作によってメタの鋭さを磨きながら、自己の中の表象不可能な領域を見つめ続けている。それは、とても甘美だと思う。

2020.3.29

 

 

有名人がTwitterで故人を追悼する文化、これは本当に気持ち悪い。ひどい。

2020.3.30

 

 

健康や不健康といって色々話すこと大いに結構。めいめいやっていて。でも、私はしません。何故なら、健康も不健康も本当はそんなもの無いからです。無い話を真剣にする。パラノイアです。

 

「子どもはやがて大人になり、さまざまな経験をして、感性は成熟へ向かってゆく」という物語を、どうしても採用したくない。どうしてもそれだけはシカトしたい。

 

他に見るものがないから、桜を見る。本当はサソリが歩いていてほしいし、それを見たい。

2020.3.31

 

 

 

 

 

 

淡家朴『同期生の死』(2020)

 

誰か近しい人が亡くなったことを聞いた時に、筆を運ばずには居られないという性分は、まこと不謹慎である。

 

胸のうちに秘めて置けばよいこと。

 

 

学生時代の同期生の一人が、亡くなったという。

 

病死なのか、事故死なのか、あるいは、自死なのか。様々な憶測があった。

ただ、不慮のことであったということが、その子の母親から、近しい友人に伝えられたという。

 

 

発表会の打ち上げか何かの時、僕にウィスキーのオレンジジュース割りを作ってくれた。そのカクテルはウィスキーが濃くて、柑橘系の苦味が厭らしく、不味かったことを今でも憶えている。

 

笑うと八重歯の見える、少しハスキーな声をした、同性の恋人のいる女性だった。

 

 

同期生たちと集まって、話題になる。

「やっぱり自殺かな」とかって言い合う。

きっと、もの凄い遠くにあるということを忘れて、好きに手元のフォークを伸ばして話し合う。

こういう時に、不謹慎になってまで保とうとするものは、何なのだろうか。

「友引」という六曜の言葉があるけれど、そういう陰陽道的な気の流れのようなものを、躱そうとしているのかな。他人の死なんて、ほんとよく分からないけれど、「自分の生きているということ」を破壊するということが、いかに壮絶なことなのかを、想像したりする。

 

 

結婚をしたばかりの、仕事が上手くいっているらしい友人の一人が、同期生の死と同じ文脈で、こう言った。

 

 

「やっぱり仕事は、愉しくないとダメだね。愉しいと思わなくなったら、もうその時は自殺するよ」

 そういう趣旨のことを笑って言った。

 

20代後半の全能感って、これくらいないと闇の淵に落っこちちゃうのかな?笑

って思ったけど、何も言えなかった。

僕が、今の仕事を「金のために厭厭やっている」って言った文脈でもあったから。

 

 

簡単な全能感と、虚栄心に裏打ちされた、力強い眼差し。未来を見据えているみたいなキリッとした顔をして、いい感じ。イキイキと、生きる力が溢れてて、最高に、最高にグロテスクだった。

 

でも、多分、同じように、使い方の分かってない力で、僕も人生を、メッキみたいな甘美な陰鬱さで、彩るふりに必死なのかも。

 

 

葛藤、葛藤、葛藤、最高。

死ぬんじゃねーぞ。

淡家朴『主体性からの逃走』(2020)

 

 

「社会的評価を獲得し、給料を上昇させていくゲーム」に参加してから、丸4年が経つ。

 

大学に入学した人が、一度も留年をせずに、大学を卒業するのと同じだけの具体的時間を経過した、ということになる。

 

 

日々、労働者として、個人の時間を差し出している組織にある「社会的評価の指標」は、その雇用形態と、それに付随する給料の多寡にある。

 

と、シンプルに規定して考える。

組織が用意している雇用形態は、

 

派遣社員

・任期契約社員

・正社員

 

である。

 

派遣社員は、鼻に任期契約社員という人参をぶら下げられ、走らされる。

 

任期契約社員は、鼻に正社員という人参をぶら下げられ、走らされる。

 

正社員は、鼻に高給料、ボーナス、退職金という人参をぶら下げられ、走らされる。

 

この階級別のあるレースの中で、様々な心のやりとりに縛られ、相互監視に縛られ、心身に異常や不調や綻びを抱えさせられながら、個人の自由意志と自己責任に基づいて、続けられる。

 

給料に、階級の差異があるので、当然、差別もある。

職種としての専門性から、能力主義成果主義的な空気感がある。

 

常に、適性をチェックされる。

 

能力不適応の者は、速やかに淘汰されて消えなさい、そしてその後の人生など知りません。全ては組織の存続の為、全ては組織の利益の為。

 

 

社会的活動によって、経済力を得ようとする人々が、その本質的に暴力的な構造の中に、誰一人残らずに絡め取られている様。

 

 

その様を見て、狼狽え、震え慄き、嘔吐衝動を憶えながら、何とかしている。

 

ふと、考えた。

「なぜ、私は、今ここにこうしていなければならないのか?」

「こうしなくてもよい別の仕方があったのではないか?」

 

この疑問に対する答えとして、こういうふうに考えている。

 

ある時、こういうふうに了解したのだろう。

「この組織の中で、私は耐えられるだろう。」

「どんなに悍ましき光景を目の当たりにしたとしても、私はきっと耐えられるだろう。」

 

 

そう私の全身体が、底の底から了解したからこそ、私は自らの玉の緒を抱き締め、二人の女の人生を捻じ曲げた。

 

ある女からは、子を奪った。

私はその女の支配から、構造的に死んだ。

 

また、ある女には、子を与えた。

私はその女の人生を、構造的に喰らった。

 

私がかつて、ある男から構造的に喰らわれたように、私は、その女を構造的に喰らった。

 

 

私が、ある別の男の人生に絡め取られのと同じように、また、ある別の女の人生を絡め取った。

 

つまり、悲劇的なマチズムの車輪に、構造的に嵌ったのだ。

 

 

魂レベルの出来事を言語化し、本気で向き合わなければならない。

 

その上で、どうしたいか。

どういう答えと行動を選ぶか。

考えなければならない。

 

そして、その先の出来事に、現在の私との同一性を見出さねばならない。

 

 

この定言命法に、根拠はない。