承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家 朴『愛されやすさ』(2019)

 

イジメの発生リスクを抑えるための様々な取り組みがなされている。

その一つに、イジメられる側の性質についての研究がある。

これは社会学、心理学の分野だ。

 

ヴァルネラビリティ(攻撃誘発性、いじられやすさ)という言葉がある。

 

例えば、「身体を洗わないために臭い」これは虐げの対象となる。臭いという不快対象、見窄らしいという性質が、ヴァルネラビリティとして認められる。

 

そういう仕方で、社会学や心理学は、これまで言及されることが無かった不文律に対して、言葉を与えて、とりあえずは「分かる」というレベルまで自明なものにすることが、今のイジメ発生リスクを抑える取り組みの一つとして、有効らしく思われる。

 

 

私は、この世にある凡ゆる不文律に対して、極めて懐疑的であり、それを白日の下に晒して、目一杯バカにした上で排斥したいという気に囚われている。

 

そして、このヴァルネラビリティという言葉と出会って、一つ私も、何か不文律に対して、言葉を与えてみたいという料簡が起こった。

 

 

今、記事にしている。

 

 

「愛されやすさ」

 

という不文律である。

 

親と子の関係性について、私は常に疑問符をいくつも浮かべながら過ごして来た。

 

親は何故、子を愛するのか。そして、子は何故、親に愛されようとするのか、ということについての懐疑である。

 

 

親は、子供が可愛いというのは、どの時代も、どの国でも共通の意識であることは自明である。自分の精子と自分の卵子から作られた生命体であるからだ。とりわけ、母などは300日、その腹を腫らし、骨盤を変形させ、子宮口、膣口を無理に引き伸ばし、痛い思いをしてまで、態々生み出した生命体だから、その愛着たるや、言葉にはならないレベルであろう。

 

 

子供が可愛いというのは了解される。

 

了解された上で、子供と親の関係性について、考察を加えたいと思ってしまう。考察を加えた上、そこにある種の軽蔑を加えたいとすら思う。

 

 

 

「鳶が鷹の子を産む」

 

 

誰が言ったか、言い得て妙な言葉はある。しかし、この言葉には、大きな見落としと誤謬使用があるだろう。

 

 

鳶の下に産まれた鷹の気持ちを考えたことがあるか?

 

 

知性の多寡が、人間の凡ゆる悲しみや争いを生み出して来たということは、「知性とは何か」で述べたが、血族間における知性の多寡は、当事者にとっては地獄であるだろう。生まれた時から、「理解されない」のだから。

 

当然、親は理解に努めるだろう。子を理解できないということは悲劇だ。

 

しかし、

 

 

知性の多寡、理解力と記憶力のエコノミーは残酷だ。

 

 

バカには分からないことがあり、分からないということすら分からないのだ。「料簡が起こる」という奇跡を待つ以外、他に術などない。

永久に、ゼロ。

 

0と1の差は永久に埋まらない。

もしかしたら埋まるかもしれない。

 

 

だから、永久といっておく。

永遠ではない。そう言えば、あまりに虚しいので。

 

 

話を戻す。

 

親子間における「愛されやすさ」

 

とは、程よく両親の知性に整合するということだろう。

 

両親の気になってみれば、自分よりも優れた子の存在は、煩わしいだろう。

 

「理解できない」ことは絶対的にストレスだ。

理解できないことを知ろうとする態度は、必ず、精神に異常を来す。(詳しくは「精神崩壊とデフラグ処理」をご閲覧ください)

 

 

そこで、鳶達は、鷹の知性を緩やかに認めながらも、深層心理では否定し、何処かで自分と同じような知性を期待するのだ。

 

 

しかし、その鳶達の何気ない行動や、言葉が、知らぬ間に鷹の精神を傷つけているということを、鳶は知ることが出来ない。

 

 

ここに、親子間の最大の虚しさが横たわっている。

 

 

 

愛されるとは、どういうことだろうか。

 

 

私は、そこに、グノーシスを希求する。

 

 

かつて、日本にオカルトの皮を被ったテロ組織が、日本を脅かしたことがある。

 

 

 

オウム。

 

 

 

オウムは、幹部に、鳶が生んだ鷹を抱えたのではないだろうか。だからこそ、あそこまで大きな組織に育つことができた。

 

知性に恵まれながらも、その知性を理解するパトロンには恵まれなかった為に、親からの愛および、その生得的なホルモンの一連とは別に、グノーシスを希求した知者を抱えることができた。

 

 

私は、オウムの全てを徒らに否定することはしたくない。

 

 

日本の、愚かな、認識の甘さが、そこにあっただろう。

 

 

日本人は哲学をしない。

言い換えれば、グノーシスを希求しない。

 

深く考えず、浅い知性だけで、人間関係を上手くやるしかなかった、狭い狭い国土の漁師大国が日本だ。

 

日本に哲学を。

教育にグノーシスを。

 

私は希求して止まない。

淡家朴『精神崩壊とデフラグ処理』(2019)

 

「理解できないクセに、知ろうとするバカが居る。」

 

今あえて、こういう風に書いた。厭な風に書いた。"理解できないクセ"に、"知ろう"とするバカが居るのだ。

 

理解できないことがあると、なるべく理解しようとするのが人の常だろう。私も、理解できないことがあると、なるべく理解しようと努めていたと思う。

 

「理解できないことを、理解しようとする」ことと、「理解できないことを、知ろうとする」ことは、全く別の意味で、私には聞こえている。そういう意味合いで、私は冒頭に窘めた。

 

少し、言葉の遊戯のようなレトリックであるが、「知ろう」とするという意味は、「領ろう」とするという意味に解すことができるはずだ。

言い換えれば、「知りたい」という態度は「領りたい」という態度である。

 

「領りたい」とは、どういうことをいうのか。

 

私はそこに、支配欲を見る。

自分の「領域」に収めたいという驕慢な態度を見る。

 

「知る」ことは「領る」ことであるからだ。

 

自分の理解できる世界の領域に収めたいという、極めて受動的で、保守的で、閉塞的な態度こそ「知ろう」とする態度であろう。

 

勿論、そこまで考えて、「知る」という言葉を使っていないと言えば、それまでだろう。

 

では、今一度考えていただきたい。「知ろう」としているのか、「理解しよう」としているのか、あなたはどちらか。

 

 

「理解」とは、理性の運転と応用による解釈の態度である。換言すれば、「理解できないもの」の内容を、どうにか自己にとって明確な状態へと解きほぐす作業である。

 

そしてそれは、体力が必要であろう。

 

 

何故ならば、理解できないことを、自己の世界へと組み込む作業とは、極めて危険だからだ。

 

 

こういう話を聞いたことがある。

 

人工知能(AI)は、もう既に、人間の知性を超えた世界を見ている可能性がある。

 

これはシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる。人工知能が、人間の知能を上回るという可能性である。現段階では、そういった可能性も理論的にはあり得るという推論の域を出ないらしいが、確実にシンギュラリティは訪れるといわれている。

 

 

「人間の知性を超える知性」とはつまり、どういうことなのかというと、こういうことである。

 

人間が知ることが出来る情報量の限界。

 

或いは、

 

人間が知ろうとすれば、何らかの精神崩壊を来すと考えられる情報量。

 

 

こう言われている。

 

 

人間は、自己の知性によって、解すことが出来る情報だけを、理解することが出来る。

したがってこの、頭蓋骨の中の1500グラムの神経中枢の限りを超えたものは、理解することが出来ないのだ。

 

理性を超えたところへ飛躍して、ただ「知ろう」とすること、これは支配欲の発露以外の何者でもない。

そして、それらは必ず「精神崩壊」を引き起こす。

 

 

私は、こう考える。

 

バカは、バカらしく、バカの頭で理解できることだけを知ればいい。

 

少し賢い人は、少し賢い人らしく、少し賢い頭で理解できること及びバカの頭でも理解できることだけを知ればいい。

 

賢い人は、賢い人らしく、賢い頭で理解できること及び少し賢い人の頭でも理解できること及びバカの頭でも理解できることたけを知ればいい。

 

 

残念ながら、知性の多寡は、ある。

 

知性の多寡が無ければ、例えばホロコーストなどは起こらなかったはずだ。

人は、知性の多寡によって、凡ゆる相違を生み出してきたという歴史が、悲しくも堆積している。

 

私が知る限り、バカはいる。バカは理解できないことがあると、耳を塞ぐ。そして、理解を飛び越えて「知ろう」とする。理解できないクセに、知ろうとするのだ。

だから、例えば、「考えすぎは良くない」などという言葉を使って、理解できない情報に、自分の都合に合わせて扱き下ろすようなレッテルを貼りたがる。

バカは、自分が理解できないことを言う人に対しては、厳しいのだ。

例えば、「あなたは頭がおかしい」とか、「あなたはキチガイだ」などと、知者に向かって暴言を吐き、同じところに連れて来ようとするのだ。

 

しかし、残念ながら。

 

バカと知者は、同じところには居ない。

 

何故ならば、バカは理解しようとしない代わりに、知者を扱き下ろそうとするが、知者は、バカからキチガイ呼ばわりをされたり、そういう類の罵詈雑言を浴びたとて、ただそこに知性の多寡を感じるだけなのだ。「ああ、こいつはバカなんだな」と。

 

これは、極めて残酷な知性のエコノミーだと言える。

 

自分が理解できないことを棚に上げて、それを扱き下ろそうとするバカの態度と、ただありのままに知性を操ろうとするだけの知者との間には、決して越えられることかなわない大きな溝があるのだ。

 

 

 

だから、理解できないことがあれば、理解しようと、とりあえず努めてみる。

それでも分からない時は、「知ろう」とせず、寝るしかないと思う。

 

重ねて言うが、理解できないことを知ることとは、支配欲の発露であり、そしてそれは「精神崩壊」を引き起こす。

 

私たちは、人知を超えた人工知能を前にして、寝るしかないのだ。

 

寝ることは、デフラグ処理である。

 

デフラグ処理を繰り返して、侵されかけた精神衛生を恢復させ、知性の向上という奇跡を待つしか、バカに道は残されていないのだ。

 

 

追記:

 

寝る子は育つ、という。或いは、子供の発育に睡眠は不可欠だという。

何故だと思う?

 

それは、知性の未発達の脳は、より多くのデフラグ処理が必要だからである。

子供たちは、その小さなオツムを発達させる為に、必死でアップデートを繰り返しているのだ。近年では、大人の発達障害といった問題もよく目にする。ある研究によれば、発達障害のある人の睡眠時間は、定型発達者のそれよりも多いらしい。

 

まぁ、バカはよく寝ますね。

 

授業中によく寝る人や、少し難しい本を読んだだけで寝る人…。

 

バカは、よく寝るんです。

一生懸命、バカじゃなくなろうとしてるんです。

 

寝て、デフラグ処理してるんです…!

淡家朴『知性とは何か』(2019)

 

 

知性とは何か、まず考える。

 

それは一定の範囲内を正確に記憶する能力だろうか。

 

また、

 

一定の時間内に、その記憶を引き出して、的確に出力する能力だろうか。

 

そういった、インプットとアウトプットの内容から、一定の範囲内を、一定の時間内に、正確に記憶出来ているということが示されれば、そのことを人間は評価されるべき「質」とみなすのだろうか。そして、その創造された「質」という価値判断の基準に従って、有能か無能かというレッテルを貼っているのだろうか。

 

 

それは、愚かである。

 

 

と、誰もが言いたがらないのは、それをできなかった者の言い訳のように聞こえるからなのだろうか。

 

知性とは、何か。

 

 

「バカばっかなのだろうと思って、蓋を開けてみたら、やっぱバカばっかだった」という経験を思い出してみる。

 

ここでいうバカというのは、物事の本質に従わない人々を指す。

 

こういうことはよくある。

しかし、私は、多数派の趨勢に負けてしまう。

 

例えば私一人が、その本質に気がついていると思い込んでいるだけで、その私が本質とみなした何らかを内包した上で、人々の意見が存在しているのではないか、と、つい弱気になる癖がある。

 

 

私は、マトリックスの主人公にはなれないのだ。

 

「間違えた人々の意識を、どうにかして変えなければ」という気概が起こらない。

 

 

私がこの世から居なくなれば良い。

 

 

と思ってしまう。逃げることで解決することの方が、これまでの経験で多かったという記憶の堆積が、私をこのような思考に落ち着かせるのだろう。

 

そして、実際に実力も無い。ここでいう実力とは、冒頭で述べたような、インプット、アウトプットの質において、私は極めて劣った人間であると思っている。このように、文章を書く能力に乏しければ、記憶力にも読解力にも乏しく、計算も出来ない。

私は4年の大学生活のうち、2年、母国語以外の言語の習得と、研究職への就職とを目指して時間を費やしたことがある。一定の時間をかけた。だが、

 

 

徒労に終わった。

 

 

母国語以外の言語は習得出来なかったし。

研究職にさえ就くことが出来なかった。

 

そして、全く凡骨な頭であるという、ありありとした実感だけが、リアルに残っただけだった。

 

一度読んだだけで、何故、記憶出来てないのだろうか。辞書を端から端まで読んでも、何故、文章を理解することが出来ないのだろうか。

 

理由は簡単。頭の機能が、学習機能に整合して居ないのだ。

 

 

にもかかわらず。私は、考えている。

私は、考えれば考えるほど、自分の愚かさと無能に気づいて疲弊する。それが分かっているのにもかかわらず。私は、考えたいと思ってしまう。

 

 

考えている。

 

 

しかし、記憶力や集中力という実際の能力は、思うようにはならない。また、第二外国語も習得出来ないままだ。未だに計算は苦手。実力といわれるものは何一つ無い。趣味のギターや絵も、はっきり言って、下手くそなままである。

 

 

私の脳の機能の平凡さ。

 

それに引き換え、非凡さを求めて費やした時間が堆積するに連れて、それらは、歪み、捻じ曲がっていく。

 

 

精神腐敗。

 

 

結果的に現在の私は、魂や、意識というものに興味が湧き始めた。魂というのは、これは幻想に過ぎないのだが、魂と肉体という分け方が本当にあれば、どんなに良いだろうか、と思う。そして、現実と幻想を分けるものが、実は明確には無いという哲学的な考えを目にするたびに、本当にそうならば、どんなに良いだろうか、と思う。

 

私は哲学が好きになったし、それは信仰心にも似たものがあるようにも思う。

 

 

魂と肉体、現実と幻想について考えてみる。

 

すると私は、私が今まで致してきた、驕慢のような思考は、私の魂が、その宿り木としての私の肉体に対して、その搭載している「脳」そのものが、それらの意識に整合していない為に、ある種の不満や葛藤を引き起こしているだけなのではないのかと思い始めた。

 

厭というほど分かっている、私の記憶力や理解力の乏しさと「遅さ」それから、実際に行動を起こさない「億劫さ」というものへの不満。

 

 

これらは、決して、例えば『山月記』の李徴子がいうような、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」というような類のものでは無いのではないか、と思い染めるばかり。

 

 

…死後に意識があるという確約さえ持てれば私はこの肉体をすぐさま放棄するだろう。

 

余りにも、使えない。

 

そして、余りにも、甲斐性が無い。

 

 

 

 

川井躁葉『マナドクス』(2019)

 

母牛の口動の捻転する切り落とした首の海に埋まる人形の関節は塗膜の原液の塹壕を洗う卓の上の瓶に百足の触覚を暗転して砂丘の小陰唇に宇宙船の常識障害児童要請強制更正執行正道に胎動へ大量の鉱滓へと続く受精卵壊疽増殖骸骨群れ殺し嗤い乍ら階段に連結集合団体の活動交尾記録性害妊娠新陰唇人員に金の陰部へと芋葛式に魚の臍の緒に鱒の右脳穴埋め毛細敷衍す消沈の泥鰌踊り運転二回掌底にて乳腺圧迫瞽按摩の枕運営風営法彷徨乖離に虫の魔除けの雌馬鹿豚五七瓩の肉肉しく魚籠桎梏にて新鮮を確認する旨の懐妊不労所得邸多数を鮫の肝から取り出した愛液の少女成分性精神疾患Aは匿名で貪る竜骨突起に押っ立て陰核漢方薬大量給餌措置Bの崩壊の意図知らず冥界に鱗粉を排泄する紋白蝶の羽根を付けた禿げ頭の女体監察料理人形館館長の灯された燭台に麦酒を注げば大量の女児裸体映像化現象に相剋する発砲変態自衛官丹田は面積の無い植民地の陰毛二毛作で索漠した寒天の味がした影響により九年遅延した電動鋸付き股間切断鐵道は情報人魚達の格好の餌になった方が冥合冥加猟獲の南無啊麽堧驘。

川井躁葉『僕は数字に傷ついて』(2019)

 

 

僕は数字に傷つく

僕は通知に傷つく

 

数字が欲しい訳ではないのだ

つまりその

数字に答えて欲しい訳でもないのだ

だのに

傷つく、傷つく、傷つく、傷つく

 

カレンダーの所為で

時間を無駄することに

傷ついてしまった時と同じ

ネットの所為で

生きる理由を勝手に無くして

傷ついてしまったみたいだ

 

で、どこに?

その傷は

で、どこに?

 

ない、ない、ない、ない

傷なんて最初からない

 

どこ探しても、ない

 

 

傷ついた気になっていただけだった

傷ついた気になっていたいだけだった

 

なんて、痛いだけだったろ?

 

だから、いっそ

もう、いっそ

戻れない所まで

戻らないと思えるまで

 

 

 

 

 

淡家朴『革命血行』(2019)

 

私の心内の革命は、朝晩、其の往来を繰り返して居ます。時に病的に溢れ、時に啞鬱いで、潮の干満の様に常に流動して居ます。私に出来る事は、其れを書く事です。読んだ分だけの文を排泄して、その排泄した文で出来た肥溜めに溺れたりします。また、喃語で紡いだ妄言で山を抱き締めたりします。私は私の事を書く事によって、遠い遠い山を臨みながら、狂える下心の中に黙して澄まして居られるのです。

 

 

・革命を書いてみる

 

小規模な葛藤や、小規模な困惑、小規模な行止り、小規模な気の鬱ぎ。私は強い心を持って居る訳ではありませんので、そのような小規模な気持ちの炎症に、しばしば、思い染めてしまいます。その結果、目の前がぼんやりとして、何をしても退屈に感じてしまい、何の気のほほろぎも無く、喜びも無く、悲しみも無く、ただ少し暗い気持ちで座って居るという感じになります。

そこで、私は、自分の中の小規模な葛藤を葛藤たらしめている「自明の理」に革命を与えて、何らかのセレンディピティを得ようと考え付きます。

 

「私は、何故、死なないで居られるのか。」

 

 

・発信してみる

 

それを発信してみます。頭の中だけの革命に血を通わせてみます。今もそうですが、ネットに思惟を垂れてみます。ある人にとってそれは、ただの戯言かもしれないし、ある人にとっては、何かのインスピレーションを与えるものになるかもしれないと思いながら、発信します。そうすることで、今まで友人面をして居たような敵が離れていくかもしれないし、また、新たなインスピレーションを私に与えてくれるような知者にまみえることが出来るかもしれないから、それは私にとって大変、魅力的です。

 

 

・実際に無くしたもの

 

友人は離れていきます。当然でしょう。私が、セレンディピティを優先する余り、敬意を欠いてしまう為です。言葉で友人の内心を抉り、壊してしまう為です。目の前で、友人の落胆や幻滅を感じ取った事は何度もありますし、取り繕うことの出来ない張り詰めた空気感を何度も経験しました。結果、私は今、友人と呼べる人間は、一握りになりつつあります。そして、今後も減っていくのでは無いでしょうか。私が一方的に近づき、一方的に嫌いになるという、極めて発達障害チックな仕方で。

 

 

・実際に得たもの

 

中島敦さんが山月記によって、人虎に託した人間の弱さの様な、そんな自尊心や羞恥心の被れを得ました。私は自己崇拝、自己陶酔が日々酷くなります。そして、メサイアコンプレックスなども併発してしまいました。私は実力に見合わない自尊心を手に入れました。そして、それを態とらしく発表する傲慢さを身につけました。まるで、自己認識さえしていれば何を言ってもいいような気になっています。

悲しみを悲しみと表現出来さえすれば、ずっとサボり続けても良いのだと心底から思い染め始めました。これらは私の実際に得たものです。

 

 

・そして最後に

 

革命血行、死ぬ時まで、私は私を信じて、信じ続けて、そして誰よりも私を裏切って、私を最初に殺して、詰って、心を挫いて。革命血行。死ぬ時まで、敵を増やし続けて、敵を殺し続けて。死ぬ時まで。死ぬ時まで。

淡家朴 『レクイエム』(2018)

 

「私はお嬢様だから、毎日おいしい物を食べてるの。これすごくおいしいのよ。」

呆けた婆さんが介護用のプラスチック皿を震えながら持って言った。何度も自動食洗機の高い水圧に洗われて色の掠れたクリーム色が儚くて、介護用の先割れスプーンを持つ手の力が抜けていくのが分かった。

 

婆さんをどうすればいいのか分からない。

婆さんもどうすればいいのか分からない。

 

後ろの方で失語症の爺さんが、

「ちんこうんこちんこうんこ」と連呼している。昔、小学校の校長先生だったらしい。

 

家に帰ると、同じような光景があった。私はこの先、どんなことがあっても許して、受け入れて、生きていけると思ったのに。だのに、胸に五寸釘で穴を開けられていく。私だって毎日美味しいものを食べたいし、綺麗な家に、綺麗な服を着て、綺麗に生きていたいのに。なんて、キレイ事。目の前にある、この何も偽らざる人たちの姿。この、自分の弱さを曝け出さなければ生きていけなくなってしまった人たちの姿を見ると、私は、いよいよ何処に微笑んでいいのやら分からなくなる。これから、何を喜んで生きていけるのかしら。

 

「お母さん、早く死んで下さい。」女は消え入る様な声で泣いた。何でこんなになってまで生きているんだろう。きっと、審判の神は意地が悪いのだ。死の迫った弱い命を放っておいて、お気に入りだけは嬉々として攫っていってしまうのだ。

 

やがて、その日は訪れた。看取る者からすれば、それは一日一日の出来事の連続でしかなかった。故郷を捨て、街へ出て行った遠い親戚が、ここぞとばかりに涙を流す。

「偽善者、偽善者、偽善者。」

残された者の静かな毎日の痛みを知らない。放って置かれた田圃から、芽生えた毒の植物が、遠い親戚に向かって一斉に睨みつける。

「偽善者、偽善者、偽善者。」

その植物は誰にも聞こえない奇怪なノイズで発狂した。

 

「私の人生を返して。」女は、老婆の死に顔を恨んだ。

 

喪服の偽善者たちは、その日だけ、泣いた。