承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『論件の矮小化』(2019)

 

 

味の方と書いて、味方。

 

一体それは誰か?

ネットの辞書によれば、

 

みかた
【味方・身方・御方】
1.
《名》自分の属する方。仲間。 「国際世論を―につける」
2.
《名・ス自》仲間として力をかすこと。加勢すること。 「すべての条件が彼に―する」

 

とある。

 

 

 

仲間意識、絆意識という抽象的原理に基づいた概念である。

 

「絆」イデオロギーは、特有の重苦しい、決して否定することが許されないムードがある。

 

全く思考の余地を与えない祝詞

 

味方という言葉を使った時、必然的に、その対抗概念である「敵」を規定することになるという性質には盲目のまま使われることが多い。

 

 

これは、近代的な思考である。

 

 

まるで、何かと戦っているような枠組みに囲い込まなければ、肯定を与えられない人々。

 

彼らには何が足りないのだろうか。

 

 

絶対的な自信や信任に対して、全く懐疑することを放棄する姿勢がいけない。

 

それは、批判的思考をする筋肉の欠如。



世の中には、関係し合っているということを肯定しなければならないという強迫観念がある。

 

思いやりの非否定性を分かってまで、言い渡さなければならないメンタリティとは何か。

 

 

私は、予想以上に大きな山と戦っているのかも知れない。少し器を広げ過ぎたか。

 

 

不可解な要素が多過ぎる。

 

 

16歳の若さで身投げをし、この世を去った、夏目漱石の教え子である藤村操が、遺書として木に書きつけたものの中に「不可解」という言葉が遣われていた。その「不可解」という彼の肉筆に、ハッと胸を突かれたことがある。

 

 

その全文はこうだ、

 

 

 

巌頭之感

 

悠々たる哉天壤、

遼々たる哉古今、

五尺の小躯を以て此大をはからむとす。

ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。

萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、

曰く、「不可解」。

 

我この恨を懐いて煩悶、

終に死を決するに至る。


既に巌頭に立つに及んで、

胸中何等の不安あるなし。

始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

 

 

 

 

とりあえず、泣くよね。

分かるよ、すごく分かる。

 

わたしにも、こういう気持ちがある。

淡家朴『職場内言論統制』(2019)

 

今の職場で、

「ネガティブな口癖を直せ」

というハラスメントを受けています。

 

 

私は、自明の物事を少しずらして考えたり、世間一般的な目線を採用しないということを全ての精神生活の軸足に考えています。

 

これは、私が、ただ我が儘にそうしているのではなくて、失命のリスクを回避するためです。

 

 

私は、社会に出てから、何度も自殺を考えたことがあります。

 

何故ならば、視座が人とずれているのが、命を壊してしまいたくなるほど、辛いからです。

 

 

私は、集団が厭です。

コミュニケーションも、厭です。

 

 

でも、その「厭」は社会的には許されない。

 

 

社会的には許されない強い感情を抱えて、それでも社会で生きていくのは、極めて不自然で、不健康なことだと思います。

 

 

だから、鬱病になった。

何度も、死のうと思った。

 

 

でもね。

私が死ぬと悲しむ人たちが居てくれます。

 

そのおかげで、私は生きています。

 

 

死にたいんだけど、生きていたい。

 

 

こんな矛盾を抱えて生きる術は、一つ。

「徹底的にグレる」という答えを長い時間をかけて出してきました。

 

 

私は、「まぁ」という口癖や「なんか」とか「別に」とかそういうネガティブな印象を与える口癖をよく使います。

 

その言葉の裏には、

「まぁ(別にどうでもいいのだけど)」

という思いがこもっています。

意図して、込めています。

 

だから、私のその「偉そげ」な態度が、世間のおじさまおばさまから顰蹙を買いました。

 

 

直した方が、これから社会人として、得をするよ。

直さないと、かえって、損をすることになるよ。

 

そう優しく教えてくださいます。

 

 

 

いや、でもね。すいません。

 

やっぱり、それを採用しようとは思えません。

 

 

「斜に構える」ことが、私の生にとって、極めてクリティカルな意地であるということ。

 

 

信義であるということ。

 

 

 

そんな態度だと、いつか痛い目見るよ。

 

 

そう先輩風が吹いてきます。

 

 

痛い目見たら、自殺します。

それくらい、捨て身の、私の意思です。

 

邪魔しないでください。

勝手にやりますから。

 

 

淡家朴『神をシカト』(2019)

 

 

年間の行動計画によって、無辜な私の領域が他者に侵されていきます。

 

彼らは柔らかな笑みを浮かべて近づき、私の仕事量の限界ギリギリのところを打診しています。

 

 

その笑みの汚らしさ。

 

 

ほとんど絶望的な笑みを湛えて、逼塞する私を「まぁまぁまぁ」と遣り込めながら、口にモルヒネを注ぎ込むのです。

 

「私、ちょっと心に逸物があって、あまり多くを抱えると、いけないんです。」

 

だなんて、フラットに言えるムードはありません。少しでも負のエネルギーを放てば、彼らはそれを「大袈裟に」して、悪い方悪い方へと誇張して取るから、やれません。

 

ああ、これこれ。

この彼らの(極めて冷血な)態度で病んだんだよなぁと、再び同じようなダメージを春先に得ます。

 

しかし、やはりある程度の忍耐力。

立ち止まる為の足腰の筋肉も、何となくあるようなないような気がします。

 

 

ここから秋までは我慢の連続。

ほぼ盲目的に、盲滅法で進みます。

 

正月に引く御神籤にはいつも、盲滅法ではダメだと怒られていますが。神道に信仰はないので、別に糞食らえです。

 

 

 

淡家朴『順応暴走』(2019)

 

 

本当にどうでもよくて、ありがとう。

 

クソも最高も一緒くたの世界線

 

みなさまの深い誤解によって出来た狂気の沙汰の中を、順応しながら遠く及んでいく。

 

奇跡は不埒。

 

逆捩じの青年たちが、反転させた骸骨に臍の緒を括り付けて嗤う。

淡家朴『蔑めば、恋』(2019)

 

私はバカが嫌いである。

 

バカとは、知性の欠如である。

 

そして、知性の欠如が齎すものは「争い」である。

 

 

私の理性の位置は、大体この辺りにある。

 

対人間におこる争いとは、理解の枠組みを外れた発言や行動、とりわけ「理解不能」という事態の直接的処理の算段である。

 

人は理解不能の現象に直面すると、一度混乱する。それから「恐怖、怒り、笑い」のいずれかの感情を採用し、解釈を与える。

 

この構造を解し、例えば「怒り」を知性でコントロールする方法は「アンガーマネジメント」と呼ばれる。

 

 

しかし、理屈で分かっていても憎悪を発表してしまうのが人間、とりわけ男女間の性です。

例えば、臨床心理士精神科医の夫婦が破局したり、心理分析学者と精神科の看護師の夫婦が別居していたりとか、心の専門家同士のカップルだって、心がすれ違わないということはない。

 

物事に絶対はありません。

 

女性の癇癪は、偉大なる哲人ソクラテスを生んだのですから。

 

 

しかし、低レベルのものもあります。

 

例えば、女性の癇癪のうち、最も具体的解決に結びつかない愚行の一つに「口をきかない」という憎悪の発表があります。

 

「あなたには言っても分からない」という視座を決めつけて、論件の余地を無下にするという異常行為です。

 

これは女性の発育障害といってもいいかもしれません。

 

 

理解できなければ、対話を求めるべきです。

 

 

分かっているのに、憎悪を抑えきれないというのならば、それは知性の欠如でしょう。

淡家朴『パンティレイドマン』(2019)

 

 

下着泥棒の分からないところは、彼(彼女)らが洗濯された下着を狙うところである。

 

つまり、下着の持ち主が着けた何らかの内容物や痕跡を欲望する訳ではないのだ。

 

 

ここで、犯行に二つの分岐パターンが生じる。

 

泥棒した下着をコレクションするタイプ。

また、

泥棒した下着を穿くか被るかした後に、元に戻すタイプ。

 

前者と後者で、見事な主体の交換が起こっていることが分かる。

 

洗った下着から、何らかの性的な感動を得る為には、極めて間接的な観念の世界を経由しなければならない。「穿いて居た」という事実は目には見えないからだ。

したがって、彼らはその研ぎ澄まされた下着への情熱によって、形而上学的な仕方で、自らの玉の緒によってパンティを突き上げているということが分かる。

 

これは、言うなれば芸術的栄養の受益の構えであり、「受け身型」である。

 

 

次に、後者の場合は全く反対の駆動因子が認められる。

 

彼らは往々にして自らの体液及び内容物を下着に付着させた上で、下着を返還する。

 

この仕事は、極めて主体的である。

 

それを知らず知らずのうちに、下着の持ち主が穿くことを期待している。縁の下の力持ちならぬ縁の下の変態である。

 

そういう裏方に回って、体液や内容物を与える側に回る。ある意味で、プロデュースする立場をとる、「能動的な」モデルである。

 

 

以上のように、犯行のタイプによって、受動か能動かという分化ができた。では、次に、「穿いたパンツを強奪する」ということについて考えを展開する。

 

果たして、穿いたパンツを強奪することは可能か、ということ。そして、それは下着泥棒という犯罪の範疇に収まっているのかということ。

 

 

穿いたパンツを強奪する下着泥棒が居るならば、それは恐ろしいことである。彼(彼女)らは背後から忍び寄り、力づくで今、私が穿いて居るパンツを剥ぎ取っていくのだ。

 

これはもうレイプではないか。

 

パンツが欲しいだけという下着泥棒の願望は、侵されてしまうという恐怖から迫害を受けること必定である。

 

何故ならば、下着を無理やり剥ぎ取るという行為は、暴力であるからである。

 

こうした論証を跨いで、下着泥棒の妙味を照らした。僅かながら、その理解の及ぶ遠くへと渉猟し、逼塞した性犯罪への美意識を敷衍することで、私も得られるとした、いくつかの実解。

 

 

あゝ、木こりはどう答えるだろうか、

 

あなたの落としたパンティーは、この脱ぎたてのパンティーですか?

それとも、この洗濯されたパンティーですか?

 

 

 

淡家朴『趣味は座ること』(2019)

 

 

私は読書をしますが、ほぼ全ての内容を忘れてしまうので、内容を取っているのではなくて、網膜に文字を見せているだけという感じです。

 

もっといえば、座ってるだけ。

 

私は多分、読書が好きなのではなくて、座るのが好きなのかもしれません。

 

そういうわけで、脳を通過していないですから、読んだものを思い出そうとしても、刹那に浮かぶようなものではないんです。しかし自分の頭の悪さを嘆いて置いては、その先が保ちませんで、Twitterはてなブログに対面して文を作ったりして、私なりに何とかこんとか勉強しておるのです。

 

 

人間の身体の動きを三つに分けると、立つか座るか横になるかのいずれかであります。ですから、そのうちのどれかを選んで、そうしていれば良いのです。そして、その動きに色々とオプションを付けていく、応用をしていくということです。

 

別に生きなくてもいいところを、まぁ死んでは周りの顰蹙を買うので、生きているというくらいのことです。

 

長い暇潰しに、せめて書物を、やれ捲ろうかと。それくらいです。

 

 

新年度が始まります。

本当に面倒くさいです。

死んでしまおうかと思うくらい面倒くさいです。

 

躁鬱病のきらいがありますから、春先から夏の終わりまでは、セロトニンの分泌が弱くて、本当にかないません。

 

まぁ、秋まで持てば、自分の子供の顔が見られるかもしれないので、やりますが。