承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

映画鑑賞第5回『パラサイト 半地下の家族』(2019)

 

映画考察、5回目は、ポン・ジュノ[韓国]1969〜『パラサイト 半地下の家族』(2019)です。

 

舞台は現代韓国。内職で生計を立てるスラム街の四人家族が、身分を詐称し、裕福な家庭のもとで、家庭教師や家政婦として"寄生する"というお話です。

 

 

「韓国格差社会」の社会構造に対する皮肉は辛辣ですが、これはコメディタッチで描かれていることもあり、この映画のテーマではないのかなと思いました。あくまで、「お決まりのご挨拶」としての社会風刺。そんなような、少し虚しい2019年の空気感です。みんな知ってるんです。周知の事実よ経済格差なんて。という感じ。

 

この映画の最大のモチーフは、「アドホックな秩序の柱」かな、と思います。

 

映画冒頭。主人公が、友人から家庭教師の代替えを頼まれる時に渡された石。石英かなんかの巨大な石。あれが、「アドホックな秩序の柱」です。

 

主人公は、その巨大石を手に入れた時、「象徴的だ」というセリフを確か、言います。

そう。まさにその石こそが、格差社会を生き延びる為の秩序の象徴なのです。

 

「石」は、物質です。

しかし、「石と巡り合う機」というのは、運。

 

現代社会は、あらゆる幻想に支配されていて、それは例えば「お金」だとか「幸福」だとか、そういう事柄。これは、フランス現代思想構造主義だとか、ポスト構造主義なんかが説明したことですが。

 

とにかく、「幻想」の中で、「経済格差」だとか「学歴闘争」だとかが行われている。

そういう「幻想の混沌、カオス」の中で、私たちは、「物質的」な「運」を待ち望んでいるのです。

 

 

「物質的」な「運」。

その象徴が、友人から貰った「石」なのです。

 

主人公の父は、映画の終盤、水難に遭った後、「無計画であれ」というメッセージを残します。

とにかく、無計画であれ。というメッセージ。

これは、日本でも311の震災以降、常に言われてきた人々の駆動因です。

 

2011年3月11日。東日本のある小学校が津波に飲み込まれました。避難訓練と同じ段取りで動いた生徒、教師は、みな亡くなりました。助かったのは、「指示通り動かなかった生徒と教師」でした。

 

これは、あるパラダイムシフトのきっかけとなりました。

 

「秩序は、アドホックであらなければならない」

 

アドホックとは、「それまでの事態や言動の集合(カルマ)を抜きにして、その場に居合わせたもの同士で繋がる」という意味合いがあると、私は理解しています。

 

1980年代後半から、哲学の論壇を中心に、世界中で始まった、多様化やグローバリズム

 

30年の時を経て、それが世界中に、あちこちで「共感」を伴って、響き始めたのが、昨今(2016,17以降と私は思っている)の、混沌とした資本主義優位の喧騒です。

 

 

アメリカ、韓国、そして日本。経済格差、格差社会という言葉は、ここ10年、15年、叫ばれ続けているトピックでしょう。

 

そこで、最早、人々は一度、秩序を失って。

その機会が訪れた時。つまりは、「運」が向き、偶さか目の前に秩序の真柱が出現した瞬間にのみ、全生涯をもってコミットメントする。

全てが跡形もなく流れた時は、それまで。

 

 

かつてマルクスは、資本主義が終わり、社会主義が来るのだと予言しました。

しかし、現実は、どうでしょうか。資本主義は終わりません。しかし、この資本主義には、もっと強烈な意味での社会主義。謂わばアナキズム的な。さながら「資本主義寄生型社会主義」のような大きな「半地下の胎動」が、蠢き、犇いているのではないでしょうか。