淡家朴『何故、ちんちんを隠すのか』(2019)
まず私たちは、何としてでも世界があることを決めつけなければ、存在ができません。
でも、そういうのって、もういいかげん飽きてしまいます。飽きるというのは、現代のキーワードで、それは私が資本主義社会の中で、記号消費しまくっていることの何よりの証拠です。
消費することで、飽きを解消し、安心を得るという社会のモデルが、私たちに、ピストン運動のような消費行動を何度も何度も何度も繰り返させます。
宛ら、持ちたくもない欲望を無理やり持たされて、世界と交尾させられ続けている。
それは注意深く見ると、極めてはしたのあることで、隠さない生殖器のようなイノセントな居たたまれなさがあります。だからそれを、信仰などによって隠そうとする。
隠しても、また出てくるから、また隠す。
「隠す」という行為が、人間存在にとって大きな要なのです。だって、ちんちんを出してはいけないもん。
日本には「恥」の文化がありますから、こういう論件を、それで跨いで越えていってしまう。
でもね、きっとそれだけではないと思うんです。
人前で、ちんちんを隠すのは、
ちんちんを出す必要がないから。
ちんちんを出すのが恥ずかしいから。
ちんちんを出すと犯罪になるから。
ちんちんを出すと不快に思われるから。
ちんちんを出すと嫌われるから。
ちんちんを出すと怒られるから。
ちんちんを出すとこわがられるから。
色々あります。
では、その理由の順位は何でしょうか?
ちんちんを出す必要がない。
ちんちんを出すと失職するリスクが上がる。
ちんちんを出すと他者に何らかのネガティブな印象を与える。
三番目の理由が、ほとんどでしょう。
ちんちんを出すことで、他者のイメージを錯乱させる効果が期待できる。
かつて、元SMAPの草彅剛さんが、公園でちんちんを出したのは、こういう理由が手伝っています。
ちんちんを出して、アイデンティティを一度シャッフルする。
ちんちんリセットです。
誠実とか真面目とか、そういう他者の期待をことごとく通過して、過剰適応してきたこれまでを覆す為の装置が、「ちんちんを出す」という行為に凝縮されたのです。
さて、
では、必要性の問題では、どうでしょうか。ちんちんを出す必要とは、何でしょうか。
こと排泄と生殖に関して、私たちは総合的に判断して、「今は、ちんちんを出すべきではない」と了解しているということでしょうか。
しかし私たちは、「今ちんちんを出す必要は無いから」という意識を常に持っているわけではない。意識にも上らないところで、つまりは無意識のうちに「ちんちんを隠す」という行動を決定している。
これは、ほんとうは驚くべき論件だと思います。無意識にちんちんを隠すことができる「知性」は、何としてでも身につけておくべきでしょう。
ちんちんを隠していることで、無意識に振舞っている諸々のことで、私たちは世界に「ある」のです。ちんちんを隠す必要があったから、ちんちんを隠して来たという、ちんちんのパラダイムを追体験することで、ちんちんを出さない。
本当は、ちんちんを出したい場面でも、ちんちんを出さないのですから、見上げたものですよ。しかし、本当は、ちんちんを隠す動機や理由は、極めてその根拠に乏しいのです。
ちんちんを出すのではなくて、ちんちんを解釈する世界に、ちんちんを取り入れる。つまり内世界的にちんちんを入れるのだと、キルケゴールならば言うのです。
ちんちんがあるのは、ちんちんの観察者という固定的な視座があるからだと、量子力学者なら語るのです。
ちんちんあれ、するとちんちんがあった。
イエスキリストならば、そう言うかもしれない。
失敬。