承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『精神崩壊とデフラグ処理』(2019)

 

「理解できないクセに、知ろうとするバカが居る。」

 

今あえて、こういう風に書いた。厭な風に書いた。"理解できないクセ"に、"知ろう"とするバカが居るのだ。

 

理解できないことがあると、なるべく理解しようとするのが人の常だろう。私も、理解できないことがあると、なるべく理解しようと努めていたと思う。

 

「理解できないことを、理解しようとする」ことと、「理解できないことを、知ろうとする」ことは、全く別の意味で、私には聞こえている。そういう意味合いで、私は冒頭に窘めた。

 

少し、言葉の遊戯のようなレトリックであるが、「知ろう」とするという意味は、「領ろう」とするという意味に解すことができるはずだ。

言い換えれば、「知りたい」という態度は「領りたい」という態度である。

 

「領りたい」とは、どういうことをいうのか。

 

私はそこに、支配欲を見る。

自分の「領域」に収めたいという驕慢な態度を見る。

 

「知る」ことは「領る」ことであるからだ。

 

自分の理解できる世界の領域に収めたいという、極めて受動的で、保守的で、閉塞的な態度こそ「知ろう」とする態度であろう。

 

勿論、そこまで考えて、「知る」という言葉を使っていないと言えば、それまでだろう。

 

では、今一度考えていただきたい。「知ろう」としているのか、「理解しよう」としているのか、あなたはどちらか。

 

 

「理解」とは、理性の運転と応用による解釈の態度である。換言すれば、「理解できないもの」の内容を、どうにか自己にとって明確な状態へと解きほぐす作業である。

 

そしてそれは、体力が必要であろう。

 

 

何故ならば、理解できないことを、自己の世界へと組み込む作業とは、極めて危険だからだ。

 

 

こういう話を聞いたことがある。

 

人工知能(AI)は、もう既に、人間の知性を超えた世界を見ている可能性がある。

 

これはシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる。人工知能が、人間の知能を上回るという可能性である。現段階では、そういった可能性も理論的にはあり得るという推論の域を出ないらしいが、確実にシンギュラリティは訪れるといわれている。

 

 

「人間の知性を超える知性」とはつまり、どういうことなのかというと、こういうことである。

 

人間が知ることが出来る情報量の限界。

 

或いは、

 

人間が知ろうとすれば、何らかの精神崩壊を来すと考えられる情報量。

 

 

こう言われている。

 

 

人間は、自己の知性によって、解すことが出来る情報だけを、理解することが出来る。

したがってこの、頭蓋骨の中の1500グラムの神経中枢の限りを超えたものは、理解することが出来ないのだ。

 

理性を超えたところへ飛躍して、ただ「知ろう」とすること、これは支配欲の発露以外の何者でもない。

そして、それらは必ず「精神崩壊」を引き起こす。

 

 

私は、こう考える。

 

バカは、バカらしく、バカの頭で理解できることだけを知ればいい。

 

少し賢い人は、少し賢い人らしく、少し賢い頭で理解できること及びバカの頭でも理解できることだけを知ればいい。

 

賢い人は、賢い人らしく、賢い頭で理解できること及び少し賢い人の頭でも理解できること及びバカの頭でも理解できることたけを知ればいい。

 

 

残念ながら、知性の多寡は、ある。

 

知性の多寡が無ければ、例えばホロコーストなどは起こらなかったはずだ。

人は、知性の多寡によって、凡ゆる相違を生み出してきたという歴史が、悲しくも堆積している。

 

私が知る限り、バカはいる。バカは理解できないことがあると、耳を塞ぐ。そして、理解を飛び越えて「知ろう」とする。理解できないクセに、知ろうとするのだ。

だから、例えば、「考えすぎは良くない」などという言葉を使って、理解できない情報に、自分の都合に合わせて扱き下ろすようなレッテルを貼りたがる。

バカは、自分が理解できないことを言う人に対しては、厳しいのだ。

例えば、「あなたは頭がおかしい」とか、「あなたはキチガイだ」などと、知者に向かって暴言を吐き、同じところに連れて来ようとするのだ。

 

しかし、残念ながら。

 

バカと知者は、同じところには居ない。

 

何故ならば、バカは理解しようとしない代わりに、知者を扱き下ろそうとするが、知者は、バカからキチガイ呼ばわりをされたり、そういう類の罵詈雑言を浴びたとて、ただそこに知性の多寡を感じるだけなのだ。「ああ、こいつはバカなんだな」と。

 

これは、極めて残酷な知性のエコノミーだと言える。

 

自分が理解できないことを棚に上げて、それを扱き下ろそうとするバカの態度と、ただありのままに知性を操ろうとするだけの知者との間には、決して越えられることかなわない大きな溝があるのだ。

 

 

 

だから、理解できないことがあれば、理解しようと、とりあえず努めてみる。

それでも分からない時は、「知ろう」とせず、寝るしかないと思う。

 

重ねて言うが、理解できないことを知ることとは、支配欲の発露であり、そしてそれは「精神崩壊」を引き起こす。

 

私たちは、人知を超えた人工知能を前にして、寝るしかないのだ。

 

寝ることは、デフラグ処理である。

 

デフラグ処理を繰り返して、侵されかけた精神衛生を恢復させ、知性の向上という奇跡を待つしか、バカに道は残されていないのだ。

 

 

追記:

 

寝る子は育つ、という。或いは、子供の発育に睡眠は不可欠だという。

何故だと思う?

 

それは、知性の未発達の脳は、より多くのデフラグ処理が必要だからである。

子供たちは、その小さなオツムを発達させる為に、必死でアップデートを繰り返しているのだ。近年では、大人の発達障害といった問題もよく目にする。ある研究によれば、発達障害のある人の睡眠時間は、定型発達者のそれよりも多いらしい。

 

まぁ、バカはよく寝ますね。

 

授業中によく寝る人や、少し難しい本を読んだだけで寝る人…。

 

バカは、よく寝るんです。

一生懸命、バカじゃなくなろうとしてるんです。

 

寝て、デフラグ処理してるんです…!