承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

よりぬきzig12月号(2020)

 

絶えず存在意義が求められるのは地獄だ。「意味なくただ居る」では、許されないということの苦しみ。

 

娘にオフスプリングを聴かせるとノリノリになる。

2020.12.3

 

 

自分が何をしたいかが一番大事。

 

定型悪に嵌った悪でもない。飄々としすぎた凡骨でもない。ただサボっているだけのニヒリストでもない。絶えず半ば出来かけた足場を踏まないように、ホログラムの天国への階段を垂直に上昇する。

2020.12.7

 

 

反出生主義ではないけれど、生殖欲求を満足した現代人女性の、SNS上にて開陳される諸エクリチュールが、極めて排他的かつ暴力的であるにも関わらず、それらは社会では「幸せそう」ということになっていくことへの"不気味さ"にならば共感できないこともない。

2020.12.9

 

 

高圧的で暴力的な、往々にして家庭を崩壊させて来たような"不幸な人々"が、「評価体系」を創る職場は終わっている。終わっている終わっていると唱えながら、そこを離れられないでいる。

2020.12.21

 

 

 

 

よりぬきzig11月号(2020)

 

誰にでもできる仕事を、あたかも拘ってますみたいなそういう見せ掛けの美学や哲学で塗り固めて、そういうアスペ的な生き方もいいんだけど畜生どうも。

2020.11.2

 

 

「忙しい」という幻想の中で、何一つ生命的な営みをしていないことを顧みない大人たち。

2020.11.5

 

 

親の、子供を使っての自己実現の限界点をも超えて自己実現しようとする不遜のことを、過保護と呼ぶ。

2020.11.13

 

 

「育児」という言葉が厭だ、使わない。その世界線を無視して生きる。

 

一歳児に飯を与えていて、何かぐっと感動していた。これは育児なんて安い言葉で形容できる出来事ではない。極めて致命的な生命のケアだと思った。

2020.11.14

 

 

義祖母の畑で採れた大根を、今晩の味噌汁に入れる。こういうのの存在論的な深みに思いを致す。

2020.11.22

 

 

「その場の負け役」のような「おいしい席」があれば、望んで引き受ける。そこでは当然、敗者として謹んで過ごす表象を強いられる。しかし実際に何をしているかまで真剣に見る者は居ない。それは、愛になるからだ。

2020.11.23

 

 

他人の意見とかを全く無視して、ただいいと思ったものだけを貫くことって、かなり地味で虚しい。それでも、やるけれど。

2020.11.24

 

 

鬼滅コラボの数々を見て、資本主義社会だなぁと思った。感性腐るよ。

 

感性は腐ったほうがいい。腐ってない感性をもつと、キモくなる。

2020.11.25

 

 

いつもその曲聴いてるよね、と少し軽蔑するニュアンスで言われることがある。その軽蔑のニュアンスがよく分からない。好きだからずっと聴いているだけである。

2020.11.29

 

 

発展途上国や内戦のある国の映像などを見せて、恵まれた環境にあることを感謝しましょうという説話構造の暴力。

2020.11.30

 

 

 

 

よりぬきzig10月号(2020)

 

産んだことの責任を取ろうとしない親のもとに生まれた子が反出生主義者であるのと、産んだことの責任を、ある一社会においては直向きに取ろうとしている親のもと生まれた子が(中途半端に表面的な知識をつけて)反出生主義を自称するのは、月とスッポン。兎角、真剣にやらなければならないこと。

2020.10.3

 

 

セックスとドラッグに"ちゃんと向かう"という伝統性が、2020年のロック感だったのかな、とぞ思ふ。

 

「ジャンキーがロックだなんてカッコ悪いです」というロックンロール的説話構造が完全に崩壊したんだな、という。

 

「自分のことしか考えない閉じた時間をもつこと」をこそが人間の最上の仕事であると思わせてくれるような、そんな霊感溢れるロックというものが聴きたい。

2020.10.4

 

 

ギフテッドを自称してた子、結局、登校拒否になってしまった。丁度去年、「作者の死」という曲でその子を歌った。

2020.10.5

 

 

管理職に諸々の書類を提出する。結構複雑な内容だと思うのだけど、どんどん記入して、印鑑をぽんぽんついていく。その姿。その手の運び。一切の迷いがない。崩れゆく遺跡を脱出するインディージョーンズのようだ。

2020.10.7

 

 

ほんと久々に勉強を少しした。オートポイエーシスつながりでルーマン社会学。「人間の不信に基づいた人生のシンプル化」とは、仏教の悟りの言い。

 

「本質をもカバーしたシンプルさ」っていうのは、自己啓発情報産業の発明品。

2020.10.8

 

 

"音楽摂取や読書、映画鑑賞などを頑張って結局何がしたいのかというと、人生を豊かにするとかQOLを上げるとか、そういう資本主義的記号消費の道を直向きに進みたいのではなくて、自分の楽曲に注ぎたい。"という体は守りたい今のところ。

2020.10.11

 

 

具材が煮えるのを待つ時間って、ほんと実存主義的というか、思弁的だなぁと思う。おでんを煮込んでいる。存在論的おでん。

 

「これでは良くないよ」と他人から指摘された時に素直に受け入れず、何らかの認知不協和を起こし、指摘を「非難」と変換して、「これで良い理由」をカオスから取ってくる。カオスには言語で表象し得る限りのどんな理由もある。それをデリダ的に言って「偶有性」と呼ぶ。

2020.10.13

 

 

「チキってんのか」「チキンかよ」みたいな言葉で盛り上がる子どもたち。「リスクヘッジから身銭を切らない態度」に対しては軽蔑してよい、という倒錯。民主主義政治腐敗を垣間見る。

2020.10.15

 

 

ヤバイのに放って置かれたから仕方なしにやるしかなくて、で、やったら結構できた。その連続で人は狂う。

 

何の為に生まれて、何をして生きるのか、わからないまま終わってよし。

 

私一人がふと居なくなれば、一番綺麗だろう。

2020.10.20

 

 

現代人は、「素朴な人格の出来上がり方」を尊重しない。寧ろ尊重しなくてもいいもの、卑下されるべきものだと思っている。例えば「壮年期の引きこもり者」に対しては、何らかの発達未成熟があると決めつける。違う。彼らは人格が素朴な出来上がり方をしたというだけかもしれない。

 

「全く合理的ではない素朴な出来上がり方をした人格には居場所などないので速やかに淘汰されて消えなさい」というのが、残念ながら今の資本主義現代社会。

 

現代社会で病む」という現象は、つまり、「ある人格が、複雑で素朴な出来上がり方をしようとしているのにも関わらず、それを無理やり曲げて、現代社会にコミットメントできるような矯正を強いられることへの、アレルギー反応」みたいなもの。

 

合理性を追求できる才能を持ち合わせたパワフルな人間たちは、みんなが強いわけではないということを故意に忘却し、それは努力によって克服できるものだと信じ込み、また教化することによって、自身の威信を高めようとする。ただそれが厭だった。とてもグロテスクで、優しくないからだ。

2020.10.21

 

 

鬼滅の刃が好きな小学生やその親たちに対して、なんかホログラム的というか、"本当に存在していない感じ"がする。実態のない流行の中の漂流物という感じで空疎な、抜け殻のような感じ。

2020.10.22

 

 

「照れ臭くて今さら好きだなんて言えない」という情愛への諦念。クーリッジ効果。前立腺で思考している。

 

「照れ臭い」という感情は、ペニスの性管から尿道への捉え直し。

 

男は尿道になっていくとは、ドゥルーズ

2020.10.23

 

 

拗れていけばいい。遠慮せずに拗れる。拗れ拗れ拗れ拗れて、やがてぽろっと千切れるまで。そしてぽろっと千切れたら拾う。それが果実だから。

2020.10.24

 

 

 

ゲーム考察 第2回 『龍が如く7 光と闇の行方』(2019)

 

ゲーム考察2回目、

龍が如く7 光と闇の行方』

 

  "2001年1月1日。関東最大の極道組織「東城会」の三次団体「荒川組」に所属する「春日一番」は、実の親のように慕う組長の荒川真澄から若頭の沢城丈が犯した罪を被るよう頼まれ、愛する組と尊敬する親父のために出頭を決意する。

時は経ち、2019年。春日は18年にも及ぶ厳しい刑務所生活を送りながらもついに出所するが、出迎えてくれる者は誰一人いなかった。

一人寂しく故郷である神室町へと戻る春日だったが、そこで目にしたのは「神室町3K作戦」という警察の施策により東城会は崩壊し、警察と関西最大の極道組織「近江連合」に完全支配された神室町の惨状であった。

この惨状を作り上げたのが荒川だということを知った春日は、真意を直接確かめるべく荒川の元へと向かうが、そこで待っていたのは再会を喜ぶ笑顔ではなく冷酷な銃口だった。

荒川に撃たれ生死の淵をさまよいながらも何とか意識を取り戻した春日が目覚めた場所は、「どん底の街」と呼ばれる横浜の「伊勢佐木異人町」にあるホームレス街であった。"

(Wikipedia龍が如く7 光と闇の行方』ストーリーより)

 

今作は、サブタイトルに「光と闇」とあるように、象徴的な二項対立やコントラストが、極めて明確に、闊達に、愉快に表現されている。また、光と闇のように役者が拮抗するのも面白い。例えば、主人公、春日一番には、本作のラスボスである荒川真斗という存在が、宛らユング心理学のシャドー理論のように春日の存在へと対置するのである。

 

ラストの展開では、春日一番と荒川真斗が、宛ら村上龍の小説『コインロッカー・ベイビーズ』(1980)のキクとハシのように、どちらもコインロッカーから取り上げられたという経緯が明らかにされる。加えて、7では、そこに「取り替え子」というモチーフも加わる。方や、ヤクザに拾われた者、他方でソープランドの店員に拾われた者である。光と闇のように、互いに拮抗しながら、その人生を交差させていく。それが事後的に了解されて、この作品は面白いのである。

 

「極道」というアウトサイダーの物語作品を極めてクールでナイスガイな主人公桐生一馬の静かな視点から一歩引いてそのマチズモを眺めるというのが、『龍が如く』シリーズの味噌であったが、今作の7は、そうはいかない。主人公の春日一番は、猪突猛進、特攻隊長、ヤンキー気質で落ち着きがない。対峙する敵勢力も、メインが韓国マフィア、中国マフィアといったとりわけオルタナティブな面子である。

しかしその猥雑な暗闇の中へ、仲間思いの純粋な男が、信念を貫徹すべく突進するその様は、大変愉快であった。少年漫画やRPG作品を踏襲したパスティーシュも良かった。

 

 

 

 

 

 

よりぬきzig9月号(2020)

 

10歳も20歳も年上の人に、人格も存在も蔑ろにされるような言動、無意識の発動を受け、大変ショッキングな気持ちになっている。ただでさえ、基底欠損ある日なのに。

ざわざわする。なぜ、こんなささくれた感じの気持ちにさせられるのだろう。憎悪心、嫉妬心、劣等感、呪いのような気持ちを全部浴びせられたようだ。

人の命に関する、尊い個性的な人情というものを、なんて軽く、蔑ろに扱うんだ。私は本当に、気分が悪いよ。

 

筋目の通らないような生き方をしている人々と肩を並べて仕事をして、嘘や欺瞞に満ちた言葉を毎日浴びて、それでも尚、善く生きたい、情緒的な達成を目指したい、と一途に思う。

 

読書。ドゥルーズ。キリストはマゾであるというような内容のもの。

2020.9.1

 

 

いつものところで死んでる烏みたいな詩人になりたい。

 

私に育休を取らせないように暗躍した人は、不妊治療に失敗した晩婚の女性だった。私に残業や休日出勤を強いた人は、離婚をして妻子と別れ、独り身になった大人だった。

彼らは「何だか腑抜けなヘラヘラした若い男」が、恋愛したり結婚したり育児をしたりすることが、本当に本当に憎らしくて仕方がないのだ。心の底から不幸になってほしいと願っている。その無意識が、態度や言動、仕草に至るまで全てに溢れている。

闇を抱えた大人の嫉妬心や憎悪心や、業の深さ。自分の人生がうまくいかなかったものだから、他人のことが憎くて憎くて仕方がない。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

 

フランス革命の理念は、「自由・平等・友愛」であった。今、現代社会で「自由」の代わりにあるのは「新自由主義メリトクラシー」。「平等」の代わりにあるのが「超監視社会的抑圧」。そして、「友愛」は喪われた。結婚は趣味になり、生殖はオプションになった。人間はもう、終わりだ。

人間はもう、終わりなんだけど、そこからどのようにしてお気楽にヘラヘラ生きるか。

 

新年を迎え、「あけましておめでとうございます。」と私が言ったときに、「はぁ、はい。」と言われた50代の大人が職場に居られます。私はその時、本当に悲しくなった、抱擁したくなった。なんて、心が擦り切れて居られるのか、と思った。そして実際、とても大変な人生経験をもって居られたのです。

 

ツイートをすることで、そこに"私がある"というような存在論的意味合いを生じさせる。というその"感じ"が問題なのだ。「思いついていない時」が、あたかも、"人生ではない"ような気になる。しかしながら私たちの人生の大半は、思いついていない時や、それを待つ時間に費やされている。

2020.9.3

 

 

相手に「私が準備不足だったのかな」と思わせるような言動、例えば不満などを言うところからコミュニケーションをスタートさせる奴は、全員ダメ。

 

インターンの学生に、寄ってたかって「タテ社会の雰囲気」を見せている。厭だなぁ。

 

全部完全に無視しながら、全部完全に傾聴するというのが、仏教でいう「空(くう)」です。これは、猫とかが完全に習得しているやつです。

2020.9.4

 

 

大人はその個人の人格において"言い訳"をする。否、たとえ「法人」としてその人格を増幅させても尚、"言い訳"をする。そんな"大人は言い訳をするクソな生き物である"ということを棚に上げて、大人は子供のする言い訳をも咎める。極めて僭越で、不遜な態度である。

 

少年よ、思想を持て、飼い慣らされるな、思想を持て。

 

非元気的に社会にドライブする凡ゆる工夫。

2020.9.5

 

 

方法はどうあれ、時間は有限であるということを常に念頭に置いて行動をする。その精神的営みを通して発現した筆致や音色にならば、自信をもつことができる。

2020.9.7

 

 

象徴天皇の顔をテレビで観ることと、カメラの前で開かれたヴァギナのシミュラークルを無料で閲覧することは、ほとんど同じ種の感性への暴力である。

2020.9.8

 

 

疲れた、というか、2年後にどこかが痛み出さないようなカオスの手入れ。疲れた、という表象でそれをする。

2020.9.9

 

 

今生きているらしい世界に一旦居ないでみる、という試みも、やはり観念で、それは筋肉の疲労などに勝てない。何もない。

 

こんな自分に合っていない、全く真っ当な自己実現のできない、不細工な道を不細工に歩いていると、屹度、変に力動均衡の乱れが生じて、厭な病気に至るか、妙な感じにして死に至るだろう。

2020.9.11

 

 

死のう死のうと思っていても、結局、機を取り逃がしてしまいます。

2020.9.13

 

 

他人に指さして、一言多かったとか、一言あった方が良かったとか、言い方が変だったとか、そういうことを延々と言い合っている大人たち。

2020.9.14

 

 

仕事や家事の価値評価において、他人より優位であるということを、他人の行動不足等の指摘によって貶め、それによりその優位性を確信したいというその人間の性、大変虚しい。南無阿弥陀仏

 

優位性の発現によって自己尊厳を確認するライフスタイルの人とは、内面の確信をめぐる対立を余儀なくされる。例えば、自己欺瞞のように思われるいくつかの私の内面は、確かにそうであるかも知れないがしかし、それをそう思わないということの連続をこそが、生くべき道であると確信しているのだから。

2020.9.16

 

 

大人として上手に成長したいとか、全然思わない。子供のままがいい。

 

労働による抑圧から、メラトニン優位になったら、誰だって人は、自分だけが疲れているのだと思ってしまうものだ。そこから抜け出すには、疲れているのは自分だけではないのだということに、自分で気づかなければならない。

2020.9.17

 

 

誰も止めてくれないので行ってみる道。

2020.9.18

 

 

「ここまでしたのに」という「呪い」と、「これだけしておけば」という「慰め」。どちらにも一枚捲れば、「なぜ私がしなければならないのか」という「怒り」がある。仏教ではこれを瞋恚という。

2020.9.22

 

 

「多くの人に全く無価値だと見なされるような個性」が、全く評価されず、全く尊重されないことについて。

 

「狭い世界でベテランしてる人」の、独特の余裕や考えの堅さ。狭い世界ではそれが実力ということになっている、あの独特の感じ。老害とも違うあの、重さ。

 

「この道へ進めば自己実現できるのではないか」という思いで進んでいた道が、全くの妄想の産物であったということに気づいてハッとし、人生を歩み直そうとしたところで精神病に罹患し、進むも地獄退くも地獄のところで精神医療や哲学に再会し、そのままなし崩しに進んでいる、というのが現状。

 

「精神薬を常飲している」と言うと、「薬に頼らなくてもいいようになれたらいいね」というような顔をする人とは分かり合えない。お前も病気になればいいのに、と思う。

2020.9.25

 

 

 

 

よりぬきzig8月号(2020)

 

アブラゼミの背中の白い部分、なんかお母さんって感じがするのなんでかね。

 

服を脱いで裸になる時、服もまた、裸を脱いで服になっていく。

2020.8.1

 

 

存在論的カレー作り。

 

夏の曲を聴くために、夏を生きる。

 

人生の大半は、思い付かない時間と、それを待つ時間に費やされる。

 

秩序は、次の1秒で、そしてそれは常に続く。

 

「秩序は常に1秒先にある」。

2020.8.2

 

 

ただの無関心や危機管理の欠如が「やさしさ」の顔をする時がある。

2020.8.4

 

 

あなたは優しい。でも、その優しさはある種厳しい。と言われた。どの種?

 

 職場でよく哲学好きを装うので哲学専攻の人だと間違えられていた。大学では何も学んでいない。勉強が好きではなかったからだ。勉強が好きになったのは、就職して3年目の時だ。 初めてジル・ドゥルーズを読んだ。

 

人格に影響を与えられたいと思わなければ映画なんて観ない。

2020.8.6

 

 

俺はアドレリアンになる。

2020.8.10

 

 

上昇志向をひけらかしたり、知り合いが有名人だとか自慢したり、そういう類の若いかわいい自己表現欲求には絶対に敵わない、壮年中年の暗い暗い想いを、歌いたかった。

2020.8.11

 

 

明日は「炎天下の中で哲学する」という気合の入った一日なので、自律神経ぶち上げていこうと思います。

2020.8.14

 

 

日当の6000円を取って帰る。うち2000円を家に入れ、残りの4000円は酒や甘味などの嗜好品に当てる。デカダンスなので。

2020.8.15

 

 

「普通ならここで何らかの情緒表現をする」というところで、感情が想像力に上がらない、というのは、幼少期に何らかの要因で、感情を抑圧されてそれが常態になってしまった、ということ。

2020.8.16

 

 

「美味しいものを食べて鬱散する」というのは、自己の存在を味覚という生理に還元するということ。これはあらゆる依存症に通底する。

 

食、酒、煙草、ドラッグ、性的快感。他者を摂取することで一定方向の感覚汪溢へと向かおうとする顕現系悦楽。それらを全てゆるく辞退して、ゆるく出家する。ゆる出家。

 

午前中、仕事始めで「n-1」の場面が二度ほどあって、「恥の感覚=X」がじわっと湧いたのだが、グッと心の中でそのXを睨みつけたら、居なくなった。お釈迦様のお陰だった。

 

その瞬間、居合わせた人々の世界線から私は意識してズレた。一瞬間のうちに完全にdisconectした私を目撃した彼らは、居合わせながら存在を降りた私を静かに見ていた。「不思議」「奇妙」という想像力と結びつけていたかも知れない。しかしそれは違う。

 

因習的な知的営みの一切を引き受けない代わりに、壁の白い塗料に生成変化する。

 

チンパンジーほどの知能を手に入れた娘が、「機構を展開する」という身体所作を獲得し、身に引き寄せられる範囲にあるもの全ての「蓋」や「覆い」を展開し、その物質の「奥性」を「無」へ還す。例えば、ティッシュ箱の中のティッシュペーパーを全て引き出すなど。とにかく散らかす。

 

私は私自身の全てのツイートやブログ記事をアーカイブしている。そうして年末に紙媒体に出力し一年を振り返る。晩年はそれらを全てファイリングして一生を振り返る。

2020.8.17

 

 

突然に大学時代のグループラインが動き始める、という現象に未だに慣れていない。その突然のモード、スキームの発生。厭だ。無視。

 

高齢になっても仕事をリタイアさせてもらえず、炎天下、交通整理をさせられている人々。いやぁ健康長寿ですねぇ、なんて楽天的に思えない。全然笑えない。ただ資本主義社会が、「老いる」ということの「尊厳」をも搾取しているだけだ。

「死ぬまで働け老いぼれども」と資本主義社会が笑っている。悔しい。こんな世界に生きたくない。

 

私は小学校2年くらいから小学校6年生くらいにかけてラヴクラフト神話的な世界創造に全生命をかけていた。

しかしそれらは全て精通によって喪われた。そのトラウマを未だに克服できていない。完全なる神話世界を一度構築できていたのだ、という確固たる自信と、その完全なる喪失、絶望。

2020.8.18

 

 

一日中ゲームをしていたり、マスターベーションに長い時間をかけたりすると、心理的には自己受容が下がってくる(所謂、賢者タイム)。そのことで対人に対して恐怖心を抱いたり、自尊心の欠落を感じたりして億劫になることを、精神分析的には、「ベーシックフォルト」といいます。

2020.8.19

 

 

過剰適応気味になってビクビクしたり、変に反省して行動を変えようとしている。鬱気味だ。

2020.8.21

 

 

私の自律神経や交感神経やホルモンは、私のことをバカにしている。多分、巫山戯ているのだ。

 

なんとなくホワイトヘッドは読むことになるのだろうと想ってたよ。

 

自分自身の価値や幸福を、他人の意見によって測ろうとせず、病まず、健康でいろ。

2020.8.25

 

 

たとえどんなに暗い力であっても、それがコミュニケーション能力や或いは知的防衛といった対人実力社会的な化象を帯びることで、正しいということになっていく。

2020.8.26

 

 

文科省のいう「考える力」をつける教育、などではなく、「考える力を萎えさせてくる閉塞的で暴力的な現代社会の暗い暗い大人たち」の、その暗い力を上手く躱したり、ほどよく距離を取ったりする様子、戦い方というものを、子供たちに率先して見せる、ということ。

 

そんなもの社会に通用しないとかなんとウザいことを大きな声で言って子供たちを静かにさせる。そういう暗い暗い大人たちが社会で通用してしまっている所為で、神経症発達障害が増えるんです。

 

「暗く、疲れていて、不機嫌」というのが、「社会の当たり前」という今の職場の常識を私は変えたい。というか、もうそこにはいない。私だけは一人、一抜けピしてる。つもりで働きたいけれど、それが何かと日々の批判のタネになる。

2020.8.27

 

 

強い人に負け続けるくらいなら、弱い人を見下し続ける方がいい。そしてそのことを悪だと言ってるくる奴らとは戦い続け自己を貫き続ける、ということを誰にも何も言われたくない、ということで孤独を得続けてやがて死ぬ。

2020.8.30

 

 

陰キャ」って、やっぱり凄い言葉で、それは日本の教育が、「暗いもの」には道徳性がないとたえず喧伝してきたからなのだろう。

 

「高賃金、高い社会的威信、権力」をもたらす「機会」を「最大化」する為に「合理的」に行動する。というのが、「労働」という言語ゲームの、前近代的な演習課題なのだけど。そこをもう降りて、「快適な環境で、いかにお気楽に毎日を過ごせるか」にダウンシフトしようよ。と言っているだけです私は。

 

あらゆる道徳的、倫理的、社会的な説話構造を一度括弧に入れて、もっと根本的に生命を賦活するような、明るい生き方の可能性を探りましょう。というのが、ジャック・デリダの「脱構築」です。この脱構築で、社会の抜け道を探すんです。2020年に。

2020.8.31

 

 

 

 

 

 

 

 

YouTube LIVE配信ELLEGARDEN(2020.8.28)を観ました

 

2011年、かつての恋人に私はお別れを告げた。

 

もう二度と逢わないつもりのお別れだった。

 

ここでお別れをしなければ、お互いに、自分たちのあるべき"将来"に居合わせられないような気がしていたからだ。

 

それは、当時の私たちにとっては、重すぎる荷物のような"将来"だったのかもしれない。(実際、こんなに軽いのにね)

 

 

私と別れたら、この人には、多分、つらい思いをさせるだろう。だから何か、お守りを渡さないといけない。

 

そんな一心で、当時、大好きだったバンドの、その「活動休止」という悲劇を形容するような一曲を、彼女に伝えようとした。

 

それが、ELLEGARDENの「虹」であった。

 

どこかで私は、この恋愛に「活動休止」であれ、ということを祈っていたのかもしれない。

 

「もう逢うの、やめよ。お互い勉強とか、忙しくなるしさ。だから、頑張ろうね! でも、君に出逢えて良かったとほんとに思ってる。だから、この出逢いの象徴だと思って、エルレの『虹』って曲聴いてよ。これ聴いて勉強がんばろ。」

 

 

多分、そんなようなことを、当時高校2年生だった私は、彼女に言ったのだと思う。

 

 

10年以上の時は流れた。

 

 

ーー2020年。8月の終わり。

 

「今日、20時からエルレの生配信あるの知ってる?」

 

夢を醒ますような、深い声が聴こえる。

 

 

ELLEGARDENは、永遠とも思われた活動休止を終えていた。

 

ハッと胸を突かれたのは、その時だった。

私にELLEGARDENの活動再開を教えてくれるのは、何と当時の彼女の声なのだ。

 

YouTubeライブ配信は三人で観ていた。それもとても不思議だった。

 

私も彼女も、涙を流している。

飄々と歌うボーカルの細美武士

 

ELLEGARDENの『虹』が、生演奏で流れている。

 

2011年の私は、この瞬間を、きっとありありと見ていたのかもしれない。

 

 

2020年8月の終わり。本当に、不思議な体験だった。活動を再開したELLEGARDENの生演奏。そして、10年前、永遠かと思われたそのお別れの、その彼女が、私の子どもを抱いて、涙を流している。

振り向いて笑う。泣きながら笑う。

 

きょとんとした娘の顔が、可笑しみをまた誘う。

 

私は、不思議な狡猾な気分の中で、これで良かったのだな、と確信した。

 

私は、彼女の顔を見て、「あなたに逢えて良かったよ」と言った。