よりぬきzig9月号(2020)
10歳も20歳も年上の人に、人格も存在も蔑ろにされるような言動、無意識の発動を受け、大変ショッキングな気持ちになっている。ただでさえ、基底欠損ある日なのに。
ざわざわする。なぜ、こんなささくれた感じの気持ちにさせられるのだろう。憎悪心、嫉妬心、劣等感、呪いのような気持ちを全部浴びせられたようだ。
人の命に関する、尊い個性的な人情というものを、なんて軽く、蔑ろに扱うんだ。私は本当に、気分が悪いよ。
筋目の通らないような生き方をしている人々と肩を並べて仕事をして、嘘や欺瞞に満ちた言葉を毎日浴びて、それでも尚、善く生きたい、情緒的な達成を目指したい、と一途に思う。
読書。ドゥルーズ。キリストはマゾであるというような内容のもの。
2020.9.1
いつものところで死んでる烏みたいな詩人になりたい。
私に育休を取らせないように暗躍した人は、不妊治療に失敗した晩婚の女性だった。私に残業や休日出勤を強いた人は、離婚をして妻子と別れ、独り身になった大人だった。
彼らは「何だか腑抜けなヘラヘラした若い男」が、恋愛したり結婚したり育児をしたりすることが、本当に本当に憎らしくて仕方がないのだ。心の底から不幸になってほしいと願っている。その無意識が、態度や言動、仕草に至るまで全てに溢れている。
闇を抱えた大人の嫉妬心や憎悪心や、業の深さ。自分の人生がうまくいかなかったものだから、他人のことが憎くて憎くて仕方がない。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
フランス革命の理念は、「自由・平等・友愛」であった。今、現代社会で「自由」の代わりにあるのは「新自由主義的メリトクラシー」。「平等」の代わりにあるのが「超監視社会的抑圧」。そして、「友愛」は喪われた。結婚は趣味になり、生殖はオプションになった。人間はもう、終わりだ。
人間はもう、終わりなんだけど、そこからどのようにしてお気楽にヘラヘラ生きるか。
新年を迎え、「あけましておめでとうございます。」と私が言ったときに、「はぁ、はい。」と言われた50代の大人が職場に居られます。私はその時、本当に悲しくなった、抱擁したくなった。なんて、心が擦り切れて居られるのか、と思った。そして実際、とても大変な人生経験をもって居られたのです。
ツイートをすることで、そこに"私がある"というような存在論的意味合いを生じさせる。というその"感じ"が問題なのだ。「思いついていない時」が、あたかも、"人生ではない"ような気になる。しかしながら私たちの人生の大半は、思いついていない時や、それを待つ時間に費やされている。
2020.9.3
相手に「私が準備不足だったのかな」と思わせるような言動、例えば不満などを言うところからコミュニケーションをスタートさせる奴は、全員ダメ。
インターンの学生に、寄ってたかって「タテ社会の雰囲気」を見せている。厭だなぁ。
全部完全に無視しながら、全部完全に傾聴するというのが、仏教でいう「空(くう)」です。これは、猫とかが完全に習得しているやつです。
2020.9.4
大人はその個人の人格において"言い訳"をする。否、たとえ「法人」としてその人格を増幅させても尚、"言い訳"をする。そんな"大人は言い訳をするクソな生き物である"ということを棚に上げて、大人は子供のする言い訳をも咎める。極めて僭越で、不遜な態度である。
少年よ、思想を持て、飼い慣らされるな、思想を持て。
非元気的に社会にドライブする凡ゆる工夫。
2020.9.5
方法はどうあれ、時間は有限であるということを常に念頭に置いて行動をする。その精神的営みを通して発現した筆致や音色にならば、自信をもつことができる。
2020.9.7
象徴天皇の顔をテレビで観ることと、カメラの前で開かれたヴァギナのシミュラークルを無料で閲覧することは、ほとんど同じ種の感性への暴力である。
2020.9.8
疲れた、というか、2年後にどこかが痛み出さないようなカオスの手入れ。疲れた、という表象でそれをする。
2020.9.9
今生きているらしい世界に一旦居ないでみる、という試みも、やはり観念で、それは筋肉の疲労などに勝てない。何もない。
こんな自分に合っていない、全く真っ当な自己実現のできない、不細工な道を不細工に歩いていると、屹度、変に力動均衡の乱れが生じて、厭な病気に至るか、妙な感じにして死に至るだろう。
2020.9.11
死のう死のうと思っていても、結局、機を取り逃がしてしまいます。
2020.9.13
他人に指さして、一言多かったとか、一言あった方が良かったとか、言い方が変だったとか、そういうことを延々と言い合っている大人たち。
2020.9.14
仕事や家事の価値評価において、他人より優位であるということを、他人の行動不足等の指摘によって貶め、それによりその優位性を確信したいというその人間の性、大変虚しい。南無阿弥陀仏。
優位性の発現によって自己尊厳を確認するライフスタイルの人とは、内面の確信をめぐる対立を余儀なくされる。例えば、自己欺瞞のように思われるいくつかの私の内面は、確かにそうであるかも知れないがしかし、それをそう思わないということの連続をこそが、生くべき道であると確信しているのだから。
2020.9.16
大人として上手に成長したいとか、全然思わない。子供のままがいい。
労働による抑圧から、メラトニン優位になったら、誰だって人は、自分だけが疲れているのだと思ってしまうものだ。そこから抜け出すには、疲れているのは自分だけではないのだということに、自分で気づかなければならない。
2020.9.17
誰も止めてくれないので行ってみる道。
2020.9.18
「ここまでしたのに」という「呪い」と、「これだけしておけば」という「慰め」。どちらにも一枚捲れば、「なぜ私がしなければならないのか」という「怒り」がある。仏教ではこれを瞋恚という。
2020.9.22
「多くの人に全く無価値だと見なされるような個性」が、全く評価されず、全く尊重されないことについて。
「狭い世界でベテランしてる人」の、独特の余裕や考えの堅さ。狭い世界ではそれが実力ということになっている、あの独特の感じ。老害とも違うあの、重さ。
「この道へ進めば自己実現できるのではないか」という思いで進んでいた道が、全くの妄想の産物であったということに気づいてハッとし、人生を歩み直そうとしたところで精神病に罹患し、進むも地獄退くも地獄のところで精神医療や哲学に再会し、そのままなし崩しに進んでいる、というのが現状。
「精神薬を常飲している」と言うと、「薬に頼らなくてもいいようになれたらいいね」というような顔をする人とは分かり合えない。お前も病気になればいいのに、と思う。
2020.9.25