淡家朴『正常性バイアス的な、あまりに正常性バイアス的な』(2020)
ここ数ヶ月、私の社会生活に著しい影響を与えた「コロナ」というキーワード。
「私はコロナを他人に移したくはないが、それ以上に、コロナに移りたくはない。マスクは、他人の感染リスクを下げるかもしれないが、私が他人から感染させられるリスクを下げられない。したがって、私はマスクをつけない。」
そういう反抗的な心理が、完全に殺菌されてしまって、私は外出する時にいつもマスクを着用してしまっている。みんながそうしているから、という理由が、とても楽なのである。
これは、どういうことかというと、人類が差別や戦争をしてきた、ということである。
繰り返すが、「みんながそうしているから」という理由が、とても楽なのである。こういうことで、お手軽に帰属感を味わえるのだ。それは何と、楽で、便利なことか。
このように同調圧力に見事敗北した私は、もしもナチスドイツに生まれていたら、ユダヤ人を見殺しにしたのである。もしも右翼の家庭に生まれていたら、人種差別をしていたのである。
そんな可能性が、寂寥感となって今、私の目下の鼻と口元を、白く隠すのである。
しかし実際、私はユダヤ人を見殺しにしたことはない。人種差別も、しない。だからそんなことは一切どうでもよく、一切は過ぎてゆくーー
そう、在宅勤務終了、在職場内勤務再開のてつはうが撃たれたのである。
それは今でも、私の脳内で爆竹のように鳴り響いている。
「コロナ自粛の世界」は、水槽で培養された脳が見せていた夢であったのだ。
そう、我々は覚醒したのであるーー
私の職場の人々は、意地っ張りな人が多いらしい。黙って、飄々としている。
「そんなこと思っているのは、あなただけですよ。」という顔をして、澄ましている。あれだけ騒いでいた癖に、コロナ下火で、急に正常性バイアスみたいになっていく人々に、私は若干の眩暈を憶えた。そして、同時にそれは、極めて不健康にも思えた。心に余裕のない現代人そのもの、というか。
マスクをして、手を洗う。しかし実際にそれは、どのような効果をもたらすのか、はっきりと完全には分かれない。つまりそれらは、仕草であり、記号でしかない。
自粛が終わる。そして、また、同じような知能労働を開始する。それは、仕草でしかない。
彼らも、そして私もまた同じように、その仕草の記号的意味に疎外されている。
報道や政治機関が見せる、「社会の大きな流れ」という漠とした何かに合わせて、個人も同じように、また、大きく動こうとする。そういうダイナミズムの連動に、時折、ついてゆけなくなる。
私は、何のために今ここに、こうしてあらなければならないのか。
根源的な問いの中にしか安らぎを見出せなかった夢遊病者たちの、長い長い放浪が、再び始まろうとしている。