承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『よりぬきzig4月号』(2020)

 

 

全ての「ツイート」は、外見的には無邪気な日常的思考という体をとるが、「他者との差異、とりわけ独自性や優越性」を、「他者によって肯定的に評価させようとすることを目指す」という点で、基本的に、十分暴力的である。故に元気のない時にTwitterはつまらないし、癒されない。

 

 

他者の暴力性をスキップしつつ、選択的に、(無邪気な体を守りながら)、自分の紡ぐ人生に統合する。そういう高度なスルー&ドライブができる。すごいじゃん。

2020.4.1

 

 

 

世界が終わっても、私は全生涯をかけて食洗機を廻す。何故ならば、私の紡ぐ人生全体のコンテクストにおいて、今、この瞬間に食洗機を廻すのだから。

 

 

脳波を操作してセロトニンを自家処方したい。

 

 

そっちでそう生きる力で盛り上がられたら、こっちは困ると逆に思う。

 

 

「『他人が生命力を高めている光景』、『他人が豊かになろうとした欲望の痕跡』に、勝手に自らアクセスし、その欲望に感染し、記号消費し、自らの人生において、似たような行為を反復しようとしている私」というものに対して、ふと、飽きる。

2020.4.2

 

 

 

私は報連相をしない人間。誰に何を言われても報連相をしない。断固、報連相をしない。

2020.4.3

 

 

 

「明るいバカなもの」が厭なだけで、「明るいものがもつパワー」は信じている。それと同じ熱量で、「暗いもの」「気色の悪いもの」から「明るいパワー」を培養できる可能性も、信じている。

 

 

「病むこと」や「老いること」によって、人格は変わっていく。その苦しみに適応してバランスを保とうとするからだ。

2020.4.4

 

 

 

私と両想いで啀み合っている、前の部署の上司が、嘘をついて私の過失を大きく装っていることが分かり、私はこれまで無駄に謝罪させられていたということが判明。全く、人間はおそろしい。

 

 

大震災化したテレビ。くだらない。

 

 

言葉に力があるようにするために準備をするのだけど、それがほんとうに時間がかかる作業で、大変。

2020.4.7

 

 

 

そういえばこの前、職場で、廃材置き場に猫の死骸が棄てられているから見に行こうという話になった。なんか、岡崎京子作品的だなと思いつつ断った。忙しかったので。

「死を見に行こうと誘われる」モチーフが人生初めてて、新鮮だった。

2020.4.8

 

 

 

「明るい子」が「いい子」と思うの、すこし軽薄です。それ、たまたま「明るい家庭」に生まれただけの「処方された明るさのアドバンテージに頼ってるだけの子」かもしれない。

「暗い子」や「グレた子」が「悪い」のではない。たまたま「両親が険悪な家庭」「暗い事情の家庭」に生まれただけ、かもしれない。だから、「明るい」「暗い」の印象二元論には、全く興味がない。

「処方された幸福」と「自力で創造した幸福」を、見極めたいだけ。

 

 

優しくされたい人が、極めて表面的に、まんまとその評価を得るだけの言語ゲームに、私は堪えられない。

 

 

そういう人々の群れに向かって立って、彼らがかつて経験したこのないような奇妙な言い方で、スキゾ的に、魔術的に、脱構造的に、関わりたい。

 

 

「昨日も娘に会えなかった、今朝だって、寝顔見て出て来たのに、今日も帰れない」と残業を愚痴る男。この男はよく、部下の女をつかまえては何十分と不要の立ち話をしている。

その女との無駄話を削れば、きっと娘には会えた。

2020.4.9

 

 

 

娘はミルク中毒であるが、私はアルコール中毒である。

酒、煙草、薬、珈琲、その他アルカロイド等の「嗜好品」と、乳児の生命を繋ぐ「ミルク」は、同等の価値がある。それを証明する為に、自殺というテロリズムが歴史上にある。

2020.4.10

 

 

 

行為や命令の端っこ。ここのニュアンスが、どのような形をしていて、どのような可能性があるのか。そういう疑問を無くしていく作業を、大袈裟に「経験」などと呼んでいるだけ。

経験をした人は、行為のニュアンスを伝える工夫を考えることができる。

いかがわしい情報は、端っこのニュアンスを欠いている。何故ならば、その部分にこそ、無知の者には知られたくなく、また、無知の者に知らせないことによって受益できる行為者の利得が隠されているからだ。

2020.4.13

 

 

 

「慎ましく普通に生きる」というのは、何も思いつかず静かにして、しかし確実に何かを食べ、しかし確実に性的欲求を満たし、しかし確実に何かを絶えず犠牲にして、しかし確実に何かを絶えず消費し続けるということ。それだけは、厭だ。

 

 

ファッションメンヘラの女が舌ピアス開けたりタトゥー入れたりするのは好きだけど、プロ野球選手が髭生やしたり、それに影響を受けたリーマンおっさんが髭生やしたりするのは大嫌い。気持ちが悪い。

タトゥーやピアスのようなセックスアピールとしての「身体損毀」は好物だけど、未処理体毛のようなセックスアピールとしての「無粋さ」は無理。

「無理」という生理的拒否的表現を使ったけど、別におっさんとセックスをする予定があるわけではない。

 

 

みんな傷つきたくないものだから、認知不協和があると、すぐに他人の過失を展開してホッとしようとするの、かわいい。

2020.4.16

 

 

 

ゲームも勉強も、"真剣にやれば"、テンションが良い方向へ上がり、快楽的な刺激となる。或いはテンションが良い方向へ下がり、瞑想的に深く癒されていく。

私はなぜ、今モンスターを倒そうとするのか。或いはなぜ、モンスターを飼育するのか。なぜ、排泄やセックス、死という臨界を忘却するのか。私の全人生にとって、モンスターとは何のメタファーで、なぜそれを愉しむことができるのか。

なぜ私は、データの中にユートピア的な世界を構築しようとするのか。現実とは何か。仮想とは、他者とは、統合失調症とは。と、そこまでいく。

 

 

「『消毒液の噴射ボタンを消毒する消毒液』の噴射ボタンを消毒する消毒液」の噴射ボタンを消毒する…を無限回繰り返して得られるフラクタル次元のコッホ消毒液を使用し、殺菌する。

 

 

音楽を聴く理由は、身体の深い血流に耳を預ける為。つまり、音楽は聴かなくても、そのような音に似た震えが、既に血肉には走っているのだが、音楽を聴くことで、そのことを思い出すことができる。

聴かなくなって既にある。他方で、聴いたところで手に入るものではない。

「なぜか、そうしている」という、十分に運命的な理由で、音楽を聴く。

2020.4.17

 

 

 

排泄中、レジ待ち、PC立ち上げ時、印刷機前、会議資料に目を通し終えた後の僅かな時間を掻き集めて、六冊読めている。

ここで読書は相応しくない。今は読書はせず、これをしてくださいという時にこそ、読書は絶大な威力を発揮してしまう。

セックス、マスターベーション、飲酒、喫煙、ゲームなどができる環境ならば、読書なんかよりもそちらの方が遥かに有意義である。しかし、それらが封じられており、且つ、何らかのすべきことを強いられている場合ならば、読書ほど有意義なものは、あれないはずだ。

 

 

生命力が賦活する方法を、たとえそれが暗黒啓蒙的であれ、胸を張ってベストを尽くす。出来る限り真剣にやる。

2020.4.19

 

 

娘。幼虫的から人間的になってきた。存在論から認識論へ。

2020.4.23

 

 

他者には、いつか一瞬で、嘘みたいに置いて行かれる。他者も他者で、私も私で、それぞれの人生が絶えず複雑化しているから。だからそのことは気にしない方がいい。

 

最後は、「もうどうしようもなくただそこにある自分の人生」に集中する力。

 

 

ブラウジング機能の非理性的な知性主義と、A10細胞神経系至上の反知性主義の構造を使って、宗教改革のようなプロセスで自己内差異化を繰り返す。

2020.4.25

 

 

負の自己分析の出来るのは立派なこと。

 

まず、太宰や漱石私小説をよく読むところから始まった筈の、その語り。

2020.4.27

 

 

Twitterで政府や政策に文句を言うのは、完全に意味がない。儚い。

 

 

SNSでの「いい男いい女自慢」「出来る男出来る女自慢」「いい夫いい妻を選んだ私自慢」。往々にして改まった文体(ですます調)。それは欺瞞と不遜に満ちた、SNS名物「コンプレックス超克ポルノ」である。

2020.4.30