承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴「読み物投稿サイト scraiv第一投稿作品『神聖病』(2019)」

 


仕事を貰わないでいると、社会の厄介物だとか人間の屑だとか好きに言い、かえって仕事をたくさん貰っているのをみると、早速、もっと自由に生きよ、家族との時間を大切にせよ、自分のことを考えよ、と簡単に思いつきで言います。言葉は意識と同じように刹那に思い浮かんでは刹那に印象を保存するため、本当に簡単そうに命令をしては、当人の心をほほろがすだけほほろがして去ってしまいます。
周囲の命令に従わないで「自分らしく」あろうという思いつきも、思うだけなら簡単で、巷の本屋さんには、ずらっとそういう類の本が並んでいます。また、通信技術の進歩のせいにしてみたりして、人間存在の仕方が変わったと嘆いては、共感を煽って澄ましている本も腐るほどありふれています。これらは、何度も何度も同じことを別の言い方で分け直しているだけで、全く快楽的なものです。かくいう私の随想も含めて、得たことの属性を分けたり、それを抽象化して分けたりして、ほほろいだ気と心をデフラグ処理さしているようなものです。
見る者にも、書く者にも、敬意や誠意が無くなったのは、私たちが普段から、共通の価値に説得され続けているからです。そして、通貨や評価を無しにして、何かを説明されたりするということは無意味に等しいと思い込んでいるからです。敬意や誠意を無いままに、他人の考えた作物を真剣に受けるという人は、バカにされてしまいます。バカにされるのは、みな厭ですから。
お金の沙汰、誉れの沙汰。その二強。
集団が大きく複雑になるほど、人と人は間接的な関わり合い方を好み始める為、より抽象的な共通価値が、かえって直接的現実的な権限を持つことになるのも必然です。
では何故、何らの地位も名誉も資格も所有していない私の作物を、今あなたは読んで下さっているのでしょうか。ここまでの文体だって、何一つ新しくない言説です。過去の作物を、斜めに読んでそのままにしている私が、本領にしただけの物を、こうして拙い文体で留めているだけですが、それでもあなたは読むようなので、ここで失礼して、私は視点に転身します。

 



所有と所有の境界に、争いごとが起こるように、文章と文章の境界で、作物は運筆者の意識の強盗を始める。私は腕捲りをしてそいつを掴まえては、別の魚籠に移すことで一石三鳥の徳を得ていた。というのも、私が持っている魚籠は、絵を描く気の因子、歌を歌う気の因子、そして文を捻る気の因子、と三つであった。しかしながら、そのどれ一つ取っても大成せず、様々な言い方でその無謀をなじられた。
持病に高血圧と、躁病があったからということで、料簡を通そうとしていたが、病のせいにしては、その先が保たない。過去の偉大なる芸術家や作家たちも、何らかの具合悪さを患っているのだから、これは寧ろそういうことなのだと、良いように誇張して取って、創作の動機にして澄ました。最も、その時に私は私の才能を決めつけて信じてやまないバカであった。
いつも通り、持病の高血圧によって真夜中に叩き起こされた私の心臓は、全身に向けて顰めながら激しく血を送っている。大脳が五月蝿いと心臓を怒鳴りつけるように偏頭痛をさして、その間で私は小便を出した。目蓋の梟も、大腿骨の案山子も、まだ眠いと言っている。私は硬い鼻くそ大納言と親指で対峙しながら、大義そうに不味い麦茶を飲んだ。
下らないタイムラインの猥褻な画像をスワイプする指を見る。黄色人種の指。脂手の上に冷え性の指を見る。股間の皮脂の臭いをかいで、毛布を被った。大脳も心臓も、麦茶の臭いも、私の肉体を離れた午前3時47分。幻想鉄道が、見えない夜空を滑空した。

 



午前3時49分発。幻想鉄道。停車駅。
「つまらない駅」3:51
「くだらない駅」3:55
「しょうもない駅」3:56
「たのしくない駅」4:08
「おもしろくない駅」5:16
「的外れ駅」5:30
「勘違い駅」6:00
「思い違い駅」6:30
言葉は、酷い。
言葉を発したその瞬間に、反対の意味印象を保存する。誰もがその性質について取替えや点検をせず、それで良しとする。繰り返し思考することよりも先に、名前をつけてたり、良し悪しの判断をしたりする。諸概念に分化し、異端や周縁を脅かしたりする。凄まじき忘却への努力によって忘却し、忘却したという事実さえも忘却し、無意識の下へ下へと階層化して封印したりする。目下の全現象を、差異と認識によってのみ解釈しようとする。言葉は、何かを表現しようとするだけで何もしていない。興味や非興味の対象として脅迫され、摂取され、分かられてしまう。それが厭だというと、即刻、発育障害のお札を額に付され、また、言葉の上で分かられてしまうだけ。画一的世界。何も表現し得ない世界。ある程度のほとんどの事情を、私たちは既に分かり合っているということになっている世界。ただ行為依存で繰り返している為に、薄っぺらいと揶揄されてしまえば、揶揄された通りに本当に薄い為に、何ら打ち消しも働かず、その通りに了解し、疲れて、何も考えなくなって、それで終わる世界。

 



J-POPの歌詞のようにしか考えられない。思わせぶりなポエム。その思わせの内容を敷衍して、世俗的要素を追放、払底していけば、純度の高いポエムが完成する。それを秘密の樽に詰め込んで、熟成させて、後々取り出して味わうのだ。新しい文学は形を知らない。取り出すのは読者自身によるため、各々、杯を持ち寄らねば在り付くことはできない。
私によって生まされた作物は、歌の魚籠へ逃げる一瞬間にそう耳打ちして、消えた。確かに、そういうことはあるかもしれない。私は、私に納得することはなくても、私の作物によって説得させられることは、かくの通りあった。小説みた連続的テクストの未来形は、今、歌の魚籠へ逃げた作物が言う通りである。
ほとんど力を使わなかったところにのみ、自分の天性の力が降りてくる。力んだ死人の前には永久に熾天使は馳せ参じない。下らない覚悟は下らないままで良い。後で残ったそれに、また向かっていくというだけである。
意味のない言葉が、意味のないという意味を保存する。抽象的な表現だという言葉が、抽象的な表現であるという表現を保存する。あるかないかということが、ある。そういう多項式の魔法にかかって、物事が連なっていく。
相応しい私は、何もなかった。
だからこそ何もない相応しい私が、何もある。

 



鉄骨とコンクリートで組み上がった大掛かりの機構に車が入っていく。それが立体駐車場という名前をもったらば、途端にすとんと小さくなって、なんかにおさまった。私も同じように、私という名前をもって、こうして言葉を打ち込むことを可能にしている筋肉と、骨と、血液と、イオンの水溶液と、細い管の色々が、身体というまとまりを伴ったらば、途端にすとんと小さくなった。この何か。何か。あなたの意識とか、あなたの世界とか言われても、分からない。私は今、身体を伴っているから、こうして色々な音を聞いて、気づいたり思ったりしているし、それを無駄だと思う余地がないから、無駄だと思わない。動いているから、外部の刺激に、その様々な状態の差異の連続に立ち会って、そこでそれを一々、勝手に解釈したり、受け入れてそのままにしたりしている。そこには、何の暇もなく、隙間なく現象で埋め尽くされている。同じように身体をもって生きている他人の経験を想像して、近づけて、場面設定。ほぼ無限にある文脈から、思いついたものから、言葉で引っ張ってきて張り巡らせる。それ結構、根気が必要で、少しでもブレたらバレる。人は表現する力がなくても、それが何となく適当に、簡単な労力で表現されたものであるということはなんとなくわかるから。ここが悔しい。ここは駄目だねって言語化されたら、本当にそうだから、瞬間的に負ける。そこ一点のタイミングだけでは、上に立たれてしまう。

 



私の大切な時間は、その中間媒介項の人間の存在によって、容易く霧消してしまう。しかし、その存在を消したらば、ありありと立ち上がる霊魂の行列を、これを現実の人々と言わずして、果たして私はその幻想を幻想たらしめる諸要素を分からないでいる。
夕暮れが訪れた街並み。黄昏の成分を連れて、やぁと私に向かって橙色の光源の集合体を見せている世界線。もう何度も断って来た筈の心象に、私はまた精神を糜爛させてしまう。何故ならば、奇跡を見せつけている目の前の自然現実と対比して、目下の名の羅列が、私の腹部をキリキリと締め付けるのだ。最も、これは私の解釈であるが。現象としては、ただ、紙の上に印字されたインクを、視覚神経で捉えているに過ぎないのだが…。現実現象を一度脳内で言葉に起こして再生して、プレッシャーを緩和しようと勤めても、どうも上手くできない。
当事の私は気違いであったが為に、人は皆、死ねば善いのにと思い至っていた。理を解することに、あまりにも不得手過ぎるから、こいつらは吃とバカなのだと高を括って顰めていた。無論、その理は私一人の解釈に他ならないのだが、確かに私はそのことで得意になっていた。まさに気違いでいたに違いはない。事を同じくして、私はまた、大いなる辛抱があったが為に、私は幻想を追い、また幻想に追われ、また絶望を負い、また絶望に負わされ、つまりはあちら側から好き放題を許していた。
あちら側とは、私と私の世界を取り持つ、中間媒介項、つまりは外界や、社会、周縁とのコミュニケーションの領域において、私を半分、私させる機能性の集合知であるそのそれら。全ての地平を相対的に慣らす特権の乱動。
今ここで振り返ってみて、時間軸は大いなる間違えの中にあったと思う。民主という幻想の中で、個性という幻想を探させられるという間違えた教育の中で私も育まれてしまっていた。したがって私は、個性的であることを右と同じように強く願った。最も個性などというものは何処にもなかった。何を新しがっても、それは何かの繰り返しであったし、何を分かっても、それは哲するという捻転に過ぎなかった。自己に対する全てのポジティブな価値や印象は、幻想に数えられたし、また、集団で幻想の中にあるという仕方も、集団催眠の概念に及びがついた。つまりは人々が、誰もが「誇り」をもつことが不可能な事態であった。目には見えないものは全く思い込みと判別ができないのだ。そしてそういう風にネガティブに分化する相手には、こいつは何を言ってもダメだと決め込んでいるからバカなんだと、ただ貶して満足するのであった。総じて、極めて愚かであった。どいつもこいつも。同じ位相にあって、そこに別方向に溺れるのである。
個人の芸術行為は、全く出涸らした芥を絞らされるような奴隷労働だった。私はこのような理由から、気違いでいる他、気紛らわしが見つからなかったし、そうしていることに別に驚かなかった。そして、私はある日、ついに正しい発狂をした。正しい方法で、気違いとなった。つまりは、このように書き出し始めて、少し少し、力まないようにして取り出しては、虚空に向かって放つのだ。


拝啓、神聖病
こんな人生、私のためにしかならない

 



何かを絶えず分けなければならないという関心は、どこから起こるのか。何かを何だと分けて、解釈することしか、心に安らぎを与えられないのは何故だろうか。
学校で、勉強?
そういう経験が涵養したことなのか。「分かります」「分かりません」と世界を二分割することでしか、生を表明できない学校。
「善」と「悪」みたいに分けることをしないといけない学校。それを常に強いられて、それを常に何事もないかのようにこなさなければならない学校。
それと、消費?
消費生活?
消費と勉強しかして来なかったから、どうやって心を満たしたらいいかが分からない。僅かな関心を辿って、ピストン運動のような絶望と希望を繰り返す。共同体で得た喜びは、極めて危険で、人はそれだけで生きていけるような錯覚に、陥らされてしまう。不平不満の感情は、必ず他者との間で、相対的に沸き起こる、本当は無味乾燥の記号なのだ。
しかし、人はそれを、そうは思わないという直向きな無視、徹底した消失の容認によって、踏み倒していってしまう。
そんな人生、人の為にしかならない。
どちらもありふれた生活の法。しかし、たとえ、ありふれていたとしても、良いのではないかと思いました。その路傍にまとまった屑芥の一片で、別に良いではないかと、本当の肯定感を得ました。私が、誰にも相手にされないという仕方で相手にされている、ありふれた全ての無駄は、変ではあるけれども、機能しているのではないかと思うようになりました。
それは、馬鹿にしては少し惜しい、新しい思いのようでした。私は魚籠に手探りで、先の因子を掴まえて、また放りました。