淡家朴『私の好きなドゥルーズの思想』(2020)
COVID-19の影響で、ご多分に漏れず、私も在宅業務が増えた。必要あらば、会議をzoomというアプリで行うという通達も受けている。
したがって、本来は出勤している時間に家にいる。ということが増えた。
しかし、それが哀しいほど苦ではなく、むしろ今がベル・エポックであるかのように、貴族的な朝を堪能することが出来て仕舞っている。
とはいえ、完全にプライベートということはない。電話対応やメールチェックをしなければならず、心は完全に休日の穏やかさというわけではない。
そんな豆電球の明かりほどの公的な緊張感の中で、かろうじて気をほほろがすことが出来るのは、やはり読書であった。
したがって、当然、読書をする時間が増え、順調な積読消化の日々を送っている。
読んでばかりだと消化不良を起こしそうなので、私の好きな、そして最近また読み始めた、ジル・ドゥルーズ[フランス]1925〜1955という哲学者の思想について書いてみる。
ドゥルーズは、20世紀後半を代表するフランスの哲学者の一人で、パリ第8大学の哲学教授として定年まで勤め上げた。日本の高校の教科書にもフーコーやデリダらの隣に、当然、載る。今年も、いくつかの大学入試の問題でその名を見た。
そういう、「アカデミズムに正式に接続した哲学者」ではあるのだが、私生活ではかなり「端っぱな」「アウトローな」「ジャンキーな」人であった。
象徴的なエピソードとしては1995年11月4日。彼は自宅のアパートから飛び降りて死んだ。また、慢性的な飲酒癖から、常にアルコール摂取をしていたという。
教師という社会的地位にあって、アカデミズムでの公の仕事を営みながら、その実、アルコールに浸り、最期には自殺をした。
そんなのいけないよ。そんなのダメじゃないか。そんなのおかしいよ。
と、やはり思って仕舞う。
しかし、この「公私二分論」的な義憤も、彼の前では、肯定という形で躱されて仕舞う。
ドゥルーズは、左翼活動家のフェリックス・ガタリ[フランス]1930〜1992と初の共著『アンチ・オイディプス〜資本主義と分裂症』(1972)の中で、「統合失調症」的な生き方を肯定した。
この本は、近代社会のとても深いところを、統合失調症の肯定という体で攻撃する。
私たちの倫理や道徳は、
詰まる所、「ちゃんとしなければならない」
という曖昧な定言命法によってなされている。
「大人として、ちゃんとしなければならない」
「社会人として、ちゃんとしなければならない」
「親として、ちゃんとしなければならない」
「教師として、ちゃんとしなければならない」
この、「ちゃんとしなければならない」というのは、例えばルソーの「社会契約論」では、
"個人は「自立した自由で平等な個人」であらなければならない"
といった言葉で、言い表されている。
そして「自立した個人」を支えるものの一つが、この「公私二分論」だ。
「公」と「私」を分ける。
「家」と「職場」を分ける。
「仕事」と「趣味」を分ける。
そういった倫理観が、社会にはドライブされており、そのドライブされた構造の中で生きている私たちは、それを「当然のこと」と錯覚して仕舞う。
「人間は強く生きるべきであって、弱い者はすみやかに淘汰されて消えるか、或いは努力をして、個々の能力を高め、強く生きるように努めなければならない」という錯覚、妄想。
「強い者は、明るく元気で、生命力に満ち、弱い者は、暗く陰険で、生命力に乏しい」という錯覚、妄想。
二元論で世界が整うような全体主義的構造の中に、実際、人々はあって、実際、人々はそうなっていく。
そして、多くのそういう人々の中にあって、その構造を分断、逃避しようとすると、どうしても統合失調症的になっていく。
社会が「ある一つの社会的なフィクションを特権的に採用している」という状況は、それとは反対の概念を封殺、忘却する。
だから、やってはいけないことがあり、やらなければ!ならないことがある。
だから、病的だとか、暗いとかいわれる。
でも、別にそのことを先のような二元論の後者に位置付けなくてもよい。
と、背中を押されるのだ。
そんな一見危ない誘惑の、がしかし確かに生を肯定する思考ルートを、どうして読まないで居られるだろうか。
世間には、暗い怖いおかしいと思われてしまう言動も、そのことで思い悩むことも、ドゥルーズを読んでいるときは、束の間、忘れることが出来る。
私には、やるべきことなどない。
私には、してはならないことなどない。
私が、そうしない。或いは、そうすることで困ったり、悲しんだりする人、というのは。私に対して、「そういう都合のいい私であるように私を振舞わせ」、勝手に依存していただけの愚かな人である。