淡家朴『よりぬきzig2月号』(2020)
努力する人は希望を語り、怠ける人は、不満を語りながら場当たり的にまた希望をも語ることができる、と語りながら井上靖の墓を暴き、その霊液を浴びる。
2020.2.3
寒い。井伏鱒二を生き埋めにしたような寒さだ。
常に今日の自分が音楽を聴くのであり、前からその曲が好きだったというのは、何の根拠にもならない。
命もペイペイで。
「あなたの笑顔に出逢えた ありがとう」みたいな文句が、崩した毛筆で書かれていて、笑顔のお地蔵さんのような挿絵が添えられている。非常に厭だ。
大人の欺瞞によって措定された「当たり障りのなさ」によって、傷付く人がいるということ。「大衆の善かれ」が、確かな「否定的な出来事」になる人がいるということ。そういうことを、偶に思い出して欲しい。
「大人になれなかった」という文学的な感じではなくて、世間一般の大人の概念に再定義の必要があるということ。
感謝されたくない人もある、という可能性にも目を向けて。挨拶されたくない人もある、という可能性にも目を向けて。
2020.2.4
分かりやすい奇跡にだけ気付き、分かりにくい奇跡には永久に気付けない。
2020.2.5
脊髄反射で動くとキモいので、一度文化的思考を経由しなければならないのだけど、自律神経系が機能しないとそれもできない。
2020.2.7
Twitterを、人生の一部として真剣に使う人もいる。ということを、Twitterを毎日利用していて、思わずにはいられない。
人生を、物語的にまとめ直すことさえできれば、たとえどんな病理や不幸の下にあっても、人間として完全な状態でいられるということを、知っている人たちは多い。
2020.2.16
片手間に、遊びでやっているわけではない。仕事も、人生も、そう。
2020.2.17
勝手に就職して、勝手に毎日決まった時間に出勤して、勝手に子ども作って、勝手に育てているだけ。誰のためとかではなく全ては自分のため。自分の勝手。
勝手に始めたことだから、全て勝手にやめられる。気が向いたら、失命する。
もっと真剣に生きよう。ただ、目の前の多くの人々が、経験的にそうする場合以外の仕方で、たまたま私を真剣に生きよう。
経験せず、自信を付けず、逃げる。そんな人生を送りたい。
死ぬ、とは別の方法で、生きることの諦め方を探求したい。
2020.2.19
「ゲームのレベル上げ」という「独特な努力」を、往々にして努力でもなんでもないと唾棄されるような「独特な努力」をそれでも努力と呼ぶ。全身を上げて、全生涯をかけて、ゲームを努力と呼ぶ。
弱くなれる理由を知った僕を連れて進め。
2020.2.23
幸せになろうとしたり、幸せを自覚したり、幸せを奪われることを嘆いたり、幸せを奪われた他者を見て密かに自己を慰めたりする。なぜ、そうなのか。
2020.2.24
生命を粗末にしたくはない。しかし同じようにまた死も粗末にしたくはない。正の感動を大切にしたい。しかし同じようにまた負の感動も大切にしたい。
「病んでいる」のでもなく「グレている」のでもなく、「たださみしい」のでもなく、「ああ、あの人、本気(マジ)だったんだ」っていう解釈の宛先になりたいだけ、ということだってある。
恥ずかしげもなくファミリーカーを乗り回し、乳児が乗車していることを後続車に知らせるステッカーを無闇やたらに貼りつけ、夫婦間でパパママと呼び合うような人々。そういう人々を「生殖階級」と呼び、最も忌むべき存在として距離を置いている。
池田小襲撃や川崎カリタス通り魔にあった自己表現としてのルサンチマンを、人々は全身全霊をかけて忘却しようとする。とにかく犯人が絶対に異常で、絶対に悪なのだと思い込もうとする。ほとんど天才的に、非を偏らせる。
2020.2.25
なぜ私は毎日毎日誰にも褒められもしない仕事をしなければならないのか。
なぜ私の人生なのに、誰かとともに共産主義的な時間を過ごさねばならぬのか。
2020.2.28