承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『よりぬきzig9月号』(2019)

 

育児教室。半ば強制的に妊婦体験の重石を腹に巻かれる。妻がルサンチマンを湛えた笑顔で、こちらにスマホを向け、撮影する。

2019 9.1

 

昨日の助産師の口調について考えていた。彼女は「絶対○○はダメ」「絶対○○をしなければならない」「○○なわけない」という表現を採用し、主張を強調していた。そしてその発音が、かなり耳障りな音だった。私はあまり、そういう話の仕方は好きではない。

 

 

十くらいの少女が、手持ちの傘と友達の傘を二つ持って居て、天を仰いで雨乞いのようなポーズをする。公園の水溜りが、鮮やかに揺らめく。

 

 

タピオカか、何ぞ。と人の問いし時、露と答えて消えなましもの。

 

 

釈迦はシャーキャ族であるが、当時のインドは、ほぼアーリア族。

2019 9.2

 

 

仕事したくないなー、という観念を消していく作業。つまり、出勤をするわけですが。

2019 9.4

 

昨日の会議で、文字が小さいから読めない。と義憤を起こして、資料を投げた50代の男が居て、その態度を思い出して仕事に行くのが億劫になって来て居る朝です。

 

 

老眼という個人の問題を思い遣れ、と義憤を起こすのは、私は厭です。しかし、休むわけにもいかない。厭だなと思いながらも、その50代の男が今日も出勤する場所と同じ場所に向かわなければ、ならない。

 

 

自分に都合の悪いことに限って、取り決めたように忘れて来るような人とネゴシエーションを取ることが、私には辛い。精神的負荷が大きい。

2019 9.6

 

 

2時間後には大きなコンクリートの建物の中で、中年や初老と挨拶を交わしている。というのが、殆ど他人事に思えてくる。

2019 9.9

 

 

「誰かがしなければならないこと」という労働にならば、興味がある。

 

 

みな、生殖器を隠して、立ったり座ったり、話したり、パソコンの画面に向かったり、何かを書いたりしている。何をしているのかは、余り分からない。

 

 

性器を隠せば、取り敢えずは人間らしい。それは創世記にもある通り。

 

 

人類が、性器を隠せば人間らしい、と学習して来た、ということ。

 

 

他人の前から離れた。アイスを食べている。しかし、これを食べ終わったらば、また他人の前へ行き、立ったり、適当な挨拶をしたりしなければならない。

 

 

手に何にも無い時に、地球で生きる実力は、感謝しかないと思う。今、私は夕焼けに感謝している。

 

 

夕陽が、私に愛を呉れる。明日も生きろと、言っている。

2019 9.10

 

 

千のプラトー、を読む。

 

 

世界は樹木だとすると、本は樹木の根っこの役割をしてるよね、というようなことが書かれています。

 

 

ソシュールウィトゲンシュタインと、雑に適当に読んで、今、ドゥルーズガタリ。盲滅法に読んで来たけれど、この順番で正解だったのかも。

 

今日も一日、頑張らない。そして、頑張らないけれども、人を愛する。自己を愛する。他者を愛する。

 

私は、仕事を早めにするよう促す人とは、余り繋がりません。それも、優しさで、有難いことですけれど、そういう優しさには、私は興味がない。

 

ここで私はフーコー哲学の、アリエネ、アリエナシオンという概念を採用します。

2019 9.11

 

 

意欲があるかどうか、は別として、「意欲がある顔」を作られて仕舞うと、私はこわくなる。私は、私自身が意欲的に生きている、と勘違いしていることが、こわいから。

2019.9.12

 

 

誰かが恩着せがましくなれたらいいと、思う。恩を着せるようにして魂を休めて居る人を、私は大切にしたいと思う。本当はそうではなくても、私はそう思う。

 

今日は、何となく気分が良いんですけど、この良い気分も、いつかは無くなってしまうということを考えて、少しつらいです。

 

職場のデスクの、薬類を入れている棚。ここがトランキライザーや鎮咳薬で乱雑に充填されているのを見て、少し安心する。ああ、そういえばこうして生きてきたな、と思う。

2019 9.13

 

 

何故、失敗を正当化しては、善くないのか。

2019 9.14

 

 

レヴィナス哲学に「主体と倦怠」というのがある。主体性を以って存在することは倦怠感を伴う。つまり、ただ存在するだけで、人は疲れる。引きこもるのも、楽ではない。

 

 

レヴィナスの主著『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(1974)は、どうも読んで置かないといけない気がする。

 

 

「いつやるの、今でしょ」は、実存主義なんだと思う。

 

 

非愉快であり、非不愉快である。

2019 9.15

 

 

読書をするのと同じくらい、発信することは大切だ、ということが言いたい。

 

 

年齢の為どうしても、「いい歳して、家庭も顧みずゲームですか」感が出てしまう。だからこそ、真剣に、ちゃんとプレイする。誤魔化さない。むんずとコントローラーを握って、集中する。

 

 

「ゲームかよ」は差別用語です。これは発信しないといけない。

 

 

自分のカルティベイトはよく、他者のカルティベイトはよくない。というのは、よくない。

 

 

働くことから逃走し、学ぶことから逃走し、意欲的に生きることから逃走することのモチーフとして、ゲームを結び付ける人とは、距離を置いてきた。

 

 

この連休中に読んだもの。
・ソースティンヴェブレン『有閑階級の理論』
・エトムントフッサール『内的時間意識の現象学
・アントナンアルトー『タラウマラ』
・ジルドゥルーズ『冷淡なものと残酷なもの』
合田正人『異常な日常の思想』
・菅付雅信『物欲なき世界』

 

 

映画って、撮ってる監督も、出てる俳優も含めて「人生豊かに生き生きと生きてる」という感じがして、元気がある時にしか観られません。

2019 9.16

 

連休明けで疲れてないからといって、疲れるまで頑張ろうと無理をしないように、これから健康面を考慮して、サボります。

2019 9.17

 

 

1m間隔で、30代、40代の男女が犇くデスク。雑談や、アポを取る電話の声が絶え間なく聞こえる。私は、この環境が、好きではない。

 

どこか遠く、海辺の町でパンを焼いたり釣りをしたりしていたい。しかし、毎日、私はここに来て、働かなければならない。コンクリートに囲われた、この部屋で。

 

勉強っていいなぁ。一生勉強していたい。

 

 

伝わらない、ユニーク過ぎる表現は、かえって非凡で、没個性。は、よく云われることです。

 

 

人は、他者から「メッセージ」が欲しい。

 

 

音楽を聴くのは、音という他者が、メッセージをくれるから。読書をするのは文字という他者が、メッセージをくれるから。

 

Twitterは、どうだろう。知り合いを除き、その匿名とアイコンの先で、生身の肉体を持っていると想定される観念の他者。との接続。

2019 9.18

 

 

精神的な絆というものを、現実生活の中にも、もちろん求めますが、ネットでのそれを経験してしまった以上は、こちらにも求めてしまいます。なぜ、それをおかしいと思うのか、私には上手く分かれないことです。

 

味はクリックできないが、美味いという観念に変換される。どこで変換されるのだろうか。嚥下する時か。

 

嚥下とは、喉の筋肉の収縮。喉の筋肉の収縮と味の観念的変換。

 

ネットが許された労働環境において、ここで禁じられていることは何か。飲酒、喫煙、マスターベーション、ゲーム。他に何があるか。

 

殺人、強姦、覚醒剤。が許された世界を、自由と呼べるか。

2019 9.19

 

 

生物は何故生きているのかということの答え。それは至極単純。地球という質量の中心に静止する為。やがて、鉄になる。

 

 

生きたいと思う心が欠如している程度では、残念ながら、死にたいと思うには不十分だ。

2019 9.20

 

 

大量の情報が、同一性を強奪するので、誰に対しても共感することなど、本当は殆ど出来ていない。

 

 

私の非が発覚し、40代の男二人に迫られ詰られた。それを見ていた女や男が、手負いの獣に追い討ちかけるように、私を詰る。彼らは私が17時頃に帰宅することが気に入らないみたいだ。私は深く深く傷付いた。彼らの主張の一句一句が全て正しかったから。

私が新卒組の生き残りであるということを逆手に取り、「君はここしか経験がないから分からないと思うけれど」という前置きを入れて、私の仕事の出来なさを詰る人ばかりです。私は誰にも相談することが出来ない。

 

 

「お前の為を思って言っている」と思ってもらうのは良いのだけれど、私は事実、言葉で傷付いたし、その傷は全然癒えていない。それは、どうするのか。

 

 

しかし、今の仕事を辞める勇気もないので、精神の傷を誤魔化す薬を、より多く飲むという面倒を取らなければならない。

 

 

仕事の合間に路地裏でレッドブルコンサータ飲むの、何というか、惨め。

 

 

落ち着いて考えてみると、最初から何人かで私を填めたんだろう。示し合わせたようなタイミングで登場する人が多かったではないか。

2019 9.21

 

 

昨日、男に付けられた傷は、全く癒えて居ません。今日は、養生します。

 

 

既に90分の瞑想を経ましたが、雑念と反芻でいっぱいの頭と、胸に鈍痛があります。

 

 

こんなに私の精神に実害が出ているのだから、私を傷付けた男は裁かれるべきだと、本当に思っています。

2019 9.22

 

 

「自他に厳しい仕事の出来るタイプの人間」よりも、「自他に甘い仕事の出来ないタイプの人間」の方が好きです。

 

不真面目系エリートと、真面目系クズの二分。太宰治と、芥川龍之介の二分にも通底するやも。(無論、芥川は超エリートですから、あくまで観念的な意味論内で)

 

 

「健康に生きることが善く生きることだ」というイデオロギーを、他者にまで強いる人にしか分からないこともあるだろう。だから私はそれを咎められないし、そうすればいい。

 

 

何かしてて。何かするのに飽きて、やめて。飽きてるのが終わって、また何かしてたら、終わりました。今日が。

 

 

あんまり書きたくないのに、書きだしたら少し楽しい時がたまにあって、それだけの理由で、たまに少し書く。

 

 

休日に読んだもの。
長田弘『一人称で語る権利』
木村敏分裂病と他者』
・ユヴァルノアハラリ『サピエンス全史(上)』
ランボオ『地獄の季節』

2019 9.23

 

 

私の身体に、社会が入ってくる。望んでもないのに、勝手に社会が入ってくる。社会とは、挨拶や掃除や他者を非難することを、どうしてもやめない群れ。

 

 

「有り難い」という言葉を使う謝意表明。無意識のうちに「有ることが難くないもの」に対しては謝意を述べる必要がなく、無価値なものである、と認識する習慣がつく。

2019 9.24

 

 

今日も私は、殆ど執着心と自己保存欲求だけでTwitterをしながら、中年たちと背中を合わせて、時折嫌味を浴びせられながら、夕方まで反復の仕事をする。

 

 

頭を下げたり、電話をしたり、稟議書、復命書、報告書の類を書いたりする。加えてその他の書類の提出を急かされたりする。謝りたくもないのに謝って、適当にへらへらしながらやる。そのことを陰でぐちぐちと言われたりする。あいつは低姿勢のフリをした仕事を全然しないクズだと言われたりする。

そ、れ、を、毎日、毎日、繰り返す。あなたの仕事は、まだ良い方だと言われる。世の中には、日付跨ぐのが当たり前な会社員とかもいるのだよ、と言われる。知らねぇよと内心思いながら、結局、へらへらする。で、陰でそのことをぐちぐち言われる。

 

 

「仕事でちょっと無理してる」ことの連続を、矮小化したり、無かったことには出来ない。

 

 

積み上げた書類の端が、少しカールし始めたら、少し片付ける。

 

 

「○○なんだけど、ウケる」的、アイロニー表明の過程。

○○なのである。(命題提示)

けれども、(逆接)

それが嘲笑に値する。(解釈の表明)

 

 

死ねば、とりあえず身体を使って動くことと、脳を使って考えることができなくなる。それ以外で、死後も楽しめることって、あるかな。浮遊?

 

身体がなくても、クリックくらいは出来そう。浮遊とクリック。

 

でも、脳がないので、事物を「わかる」ということが、まず出来ない。むずそうやな。

 

今ある人工知能研究を応用して、死んだあとの人が思考できるようになる擬似脳みたいなものは作れるのだが、それを作ると世界秩序が混乱するので、作れないことにしてんだろ、世界。

 

「死んだ人」というのが、脳と身体が使えなくなっただけであり、医者が火葬しても良いと判断しただけの人である、ということ。

 

私と一生出会わなかった人。出会うどころか、私の存在したという全ての事実の断片に、一度も接触しなかった人にとって、私は「死んでる」も同然。

 

 

逆も然り。私のどうしても知らなかった人は、私という地平においては死人です。

 

 

私という地平において、死人を引き上げて生かす、というのが好きなのかも知れない。知らぬアカウントを、好きでよく無言フォローする。

2019 9.25

 

犠牲と報酬みたいな、二分的世界線から、観念的シフトしたい。

 

日和見主義は、なぜ非難されるのか。

 

機会主義、便宜主義、オポチュニズム、あるいはご都合主義と呼ばれるそれは、なぜ非難されるのか。

 

非難、とまではいかずとも、何らかの批評性があると錯覚されるのは、なぜか。

 

 

多くの人々から間接的に扶助を受けながら、社会の中で生きながらえている。という実感がわかないようにデザインされている。多分、面倒だから。

 

働きたくないのに働くことの理由が、みんな働いているから、というのと、自らが望んで就職したのだから、というのと、お金が必要だから、くらいしか見当たらないのは、なぜか。そういう病気か。

 

全人生をかけた、生存の中止。それから展開され得る、その後の出来事(ただしそれは、意識や知覚というものを超えた何か)の可能性について、考えたい。

 

「私」という現象は何か。それは、社会や共同体に認識された、或る身体の動きと物体的な身体そのものか。

 

 

「人生」とは何か。個々の記憶という情報が、「情緒」と呼ばれる観念に関連付けられて、それが自己の同一性の担保となっている一連の現象か。

 

あなた方が(社会の成員)、「私」という現象に対して、社会的圧力をかけるということを、どうしても辞めないのであれば、「私」は、これ以上、この人生を展開しないだろう。つまりは、生存を中止するだろう。

2019 9.26

 

 

夢を諦めないのは簡単だ。夢を諦めるのは、とても難しい。

 

生きる意味を考える時間が、勤務という猥雑な現実問題に攫われるのが、非常に不可解です。

 

本当は、今から昼まで、何のために生きるのかを考えたいのに。私はそれを辞めて、出勤しなければならない。というのが、うまく了解できない。

2019 9.28

 

 

そちらが礼節を重んじないのであれば、私も礼節を重んじることを、大変残念ではあるが、諦めなければならないだろう。なぜならば、一市民同士の意思の交通に於いて、一方が礼節を重んじ、一方が礼節を重んじないということを、私は上手く了解し得ないからである。

 

耳を澄ませば耳鳴り。自律神経が乱れていることが分かる。消費し、消費され、何か大切なものを消耗し続けて生きている気がする。

 

何かに執着しなければ、「何かに執着することを辞めて新しいことを考えよう」と考えることもできない。

 

「してるフリ」という表現における「フリ」とは何か。コミットメントしない、ということか。

 

日が傾いてから発生する成分が、町と脳に流れ込み始めた。

2019 9.29

 

 

朝。時刻表のないバスを待っている。

 

 

バスはもう時期やって来そうなのである。

 

 

陣痛18時間。お疲れさん。

 

 

(指パッチンの音)人生の新しい方向性を、思い着いた。

2019 9.30