承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『仕事で無理をするということ』(2019)

 

今日も私は、殆ど執着心と自己保存欲求だけをもって生きているみたいだ。

 

中年たちと背中を合わせて、時折嫌味を浴びせられながら、夕方まで反復の仕事をする。

 

頭を下げたり、電話をしたり、稟議書、復命書、報告書の類を書いたりする。加えてその他の書類の提出を急かされたりする。謝りたくもないのに謝って、適当にへらへらしながらやる。そのことを陰でぐちぐちと言われたりする。あいつは低姿勢のフリをした仕事を全然しないクズだと言われたりする。

 

そ、れ、を、毎日、毎日、繰り返す。あなたの仕事は、まだ良い方だと言われる。世の中には、日付跨ぐのが当たり前な会社員とかもいるのだよ、と言われる。知らねぇよと内心思いながら、結局、へらへらする。で、陰でそのことをぐちぐち言われる。

 

ああ、厭だ。

 

ちょっと無理をしてる。

 

この、「仕事でちょっと無理してる」とは、何なのだろうか。

 

「仕事でちょっと無理してる」ことの連続を、矮小化したり、無かったことには出来ない。

 

では、みんなそれをどう受け止め、どう発散してるのだろうか。

 

 

私の身内を、思い出してみる。

 

例えば、私の父は、妻や私たち子供に「高圧的な態度で、威張る」という仕方だった。

 

つまり、高圧的な態度を身内に受領させる(威厳をもって仕事をしている人だから、仕方がない)ことで、「仕事で無理をした」という事態を慰撫していたのだろうか。

 

兄はどうだろう。

彼は、自分の家族や私たちに対し「不機嫌な態度をとる」または「いかにも忙しそうに、大変そうに振る舞う」という仕方だった。

 

つまり、不機嫌な態度を身内に受領させる(疲れてるのだから仕方がない)ことで、「仕事で無理をした」という事態を慰撫していたのだろうか。

 

 

では、親戚の人はどうだろう。

これは、私の親戚だけでなく、妻の親戚も、分析範囲として考えてみると。

 

 

宗教だ。

 

 

親戚の人たちの一部は、日蓮正宗系や、金光教系、或いは韓国、アメリキリスト教系の、

 

所謂、戦前戦後の新宗教

 

に入信していたりする。

 

つまり、一般社会とは別位相の、閉じたコミュニティに帰属することで、「仕事を無理した」という事態を慰撫していたのか。

 

それだけにはとどまらないだろう。

 

宗教に関しては、「持病の痛苦」にも関係があるかもしれない。

 

しかし、持病が不都合なファクターとして自認される場面は、やはり「仕事で無理をした」瞬間ではなかろうか。

 

仕事だけに限らず。

 

生きてる諸場面で、辛い局面は必ずある。

 

 

その時に、どうしようか。

 

どうすれば、自分を慰撫できるのだろうか。

 

私は、考えていたい。