承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『道祖神』(2019)

 

路傍の生体に執着するのが秘かの愉しみである。瀝青の間隙に沸沸と空いた蟻の巣穴などは、尚、素晴らしい。幽けき存在への憧憬は、私を路傍の生体の観察へと誘う。

 

暗渠の廃墟などの生体も良いのかも知れないと想像されるが、私の小心によるお化けへの恐怖が勝つ為に好まない。兎角、路傍がよろしい。

 

妙な頭痛を持つと、妙な趣味を持つものである。しかし、何も、気違いの自覚のない時分から、私はこの路傍趣味は確かあったような気もする。路傍の磁場に引き寄せられるようにして、瀝青の間隙から噴出した草臥れて乾いた植物を見たりして、落ち着くのだ。

 

何でもない質量に、何かあると夢む。

これが私の、作文芸術への一つ覚悟でもある。

 

最近では、このブログには随想のみを投稿しようと決め、小説作文はscraivにしている。先般、scraivに投稿した小品を見返して、随想に寄った為、今一度こちら側に、作家、淡家朴とする文体を意識して、これを書いている。意味は弱い。

 

路傍への憧憬の動機について敷衍すると、こう数百字足らずで種切れとなるのもご愛嬌。私は、遠回りをせずに主張をする性癖の為に、字数が保たない。最も文章力が拙いだけか。

 

路傍には、誰も見向きもしないものという磁場がある。そしてその磁場が私の内心と哀しいリンクを生じる。というのも、私はこれでも、ひと月に10曲ほどは、YouTubeのサイトへ自作の歌を投稿している。しかしながら一行判然と、聴き手が付かない。偶さか1500人(人?)のフォロワーを得たTwitterにて、宣伝演繹及びツイキャスシステムを利用したライブ活動を半ば精力的に行ってはいるが、才能の瑕疵というものは、残酷なエコノミーに晒されるのが世の常で、この通り、底辺も底辺のユーチューバー、まさに路傍の枯れ草を勤務している。

 

 

触らぬ神に祟りなし。

 

ウェブの道すがら、あちらこちらに立つ道祖神の、見向きもされぬ伽藍堂のごとき立ち様の隣に、また並んで、私も。

 

しかし、この触られぬ皮膚感覚に一興あったりするのです、なぞと世迷言を吹かして。

 

あゝ、まだ桜は咲かぬか。