承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『ませた子はバカの証』(2019)

 

子供とは、頭の固い人のことを言います。

 

頭が固く、物事を自分で思考したり判断することができません。そのため、周りの大人を頼らざるを得ない。彼らの使う言葉は全て、周りの大人の言い方を真似たものです。

 

そして、目の前にいる大人たち、こと親に、思考力や判断力を期待し、その人々の思考や判断を絶対的なものとして信じ込みます。

 

(対比して、さまざまな物事を客観視し、現象を俯瞰できる人。真実や本質を見極めて思考、判断できる人とは、頭の柔らかい人です。

彼らは、決して決めつけや、信じ込みをしない。常に、人間不信で、人間の正常バイアスに怯え、怒り、キチガイじみた目を炯々と光らせて、独り言をブツブツ言いながら暮らしています。)

 

 

バカ親に育てられた、バカな子供の特徴として、

 

「ませた子」である。

 

ということが挙げられます。

 

何故なら、「ませた子」というのは、これを言えば大人たちは驚くだろうということを計算に入れて発言をしているからです。

 

そして、「ませた子」つまりは「バカの子」が常に探している「大人たちを驚かせる言葉」というのは、世俗的なレトリックのあるもの、とりわけワイドショー(バカが見る象徴)や週刊誌のような低俗なカルチャーに跋扈するような極めて低俗な言葉であります。

 

つまり、その程度の汚い言葉で喜ぶようなバカな親を喜ばせるために、あえて低俗な言葉を選ぶように、思考が低俗化、快楽化していくのが、「ませた子」つまりは「バカの子」のマインドフォームなのです。

 

 

バカは、「分化」を楽しみます。

「なーんだ、それは○○(低俗な言葉)じゃないか、ハハハ」と事物を低俗な言葉に置き換えて、分かった気になって笑うのです。

 

例えば、バカと話した時の例。

 

私「○○と○○が結婚したらしいよ、しかも、もうすぐ子供も産まれるみたい。」

バカ「子供?なーんだ、できちゃった婚かぁ、ハハハ」

 

 

何故、こんな当たり前なことを、繰り返して表現するのでしょうか。 

このバカは、「できちゃった婚じゃないか」、という言葉の裏側に、「避妊をせずセックスをしたのか」という事態を貼り付けて、それを言外に表現することに何らかの「おかしみ」を期待するバカなのです。

 

 

病気です。

 

 

あるいは、ただのバカです。

 

 

バカは理解力がないので、現象に名前(ただしバカでもわかる低俗な言葉)を付けて、分かった気になって笑うということしか、言語化のレトリックのレパートリーが無いのです。

 

バカは知的に冷静になれないから、簡単なレトリックに頼って、冷静な感じを演出し、賢ぶるしかないのです。

 

 

このバカとバカの子(もちろんバカ)との会話は、容易く想像ができます。

 

バカ親「○○さんと○○さんが結婚したんだって、しかももうすぐ子供も産まれるんだってぇー、楽しみだねぇ」

バカの子「へぇ、できちゃった婚でしょ、ふふふ」

バカ親「まぁ、この子ったら、そんな言葉を知ってるなんて、ませた子ね、ハハハ」

バカの子「(したり顔)」

 

 

こういうクソバカ親の態度を見て育ったバカの子は、あらゆる現象を低俗化、世俗化する思考習慣を身につけるために直向きな努力を続けます。

 

 

テレビを見たり、バカな友達を作ったりします。

 

そして、どんどん「ませた子」であることに何らかの自己肯定感を得ていきます。

 

 

「ませる」ということが、「大人っぽい」ことだと思って、肯定的な態度を示してしまうのは、バカ親の悪い癖です。

だいたい、子供の頭でも分かるような「大人っぽい」ことなんて、セクシャリティ性のあるものくらいでしょう。

 

 

バカとチンパンジーはセックスが好きです。

 

また、所謂、「猿のセンズリ」といって、知能障害のある猿にマスターベーションを学習させると、そればかりやって過労で死んでしまうという実験があります。

 

 

「ませる」とは、「バカの真似をする」という低俗極まりない思考習慣です。

そしてバカは、簡単なレトリックしか取り入れようとしない。

 

つまりは本質を言語化しようとしない。

 

いつまでも話し言葉だけで考えてしまう。

 

 

自分の思考や判断を全て、外部の反応閾値に預けてしまっては、学問も芸術も、あらゆる知的行為の道は閉ざされてしまいます。

最も、バカとして生きるには、ただそういう刺激を授受していれば良いわけですから、世話はいりません。

 

 

自分の子供が、ませた子(バカな子)にならないように、日々の読書や言語活動の鍛錬を怠らないようにしたいものです。