淡家朴『絶望の詩を歌おう』(2019)
人間達の駆動因が分かってしまうと、人間の愚かさを痛感することになる。
率直に言って、私は全ての人々が厭である。
一人一人の厭な部分が、見えてきて、その部分が、強く印象として保存され、堆積されて、日に日に厭になった。
毎日、不愉快になる。
誰だって、悪いところはあるさ、ハハハ。
と、私は笑うことができない。
それは私が、異常知覚者であるからかもしれない。異常知覚者の中身を敷衍すると、発達障害の因子や統合失調症の因子、それから双極性精神障害の因子などが出てくるのかもしれない。
私は、こと精神力が弱いというわけではない。
しかし、それ以上に現象の言語化願望が強い。
したがって、意識の中の世界へ、徹底的に閉塞しなければ、呼吸の仕方すら忘れてしまう。
これは性質であって、習慣ではない。
あるいは、習慣であって、性質ではないのかもしれないが、私の知る限りではない。
他人とは、全てのその個人対世界を構成する人々との相対関係の中で、自身を認識し、その存在を相互に認識し、眼差しを交わし合う、私以外の個人である。
恐るべき彼らの性格は、「外部を分化して分かりたがる」ということ。往々にして、分化した後には、良し悪しの判断を加えたがる。
さらに、「言外に意味合いを委ねる」ということ。つまりは、解釈をした他者に、ありもしない責任を負わせるということ。
主に、この二つの人間本質に関して、私は完全に生きる倫理や、向上精神を破壊させられたといっても過言ではない。
かくいう私もまた、あらゆる不愉快に対して言葉を与え、敷衍し、その止むことない精神の糜爛を、魂の掻痒を、搔きむしり、書きむしり。
バカどもが涼しい顔をしてのさばり、時には暴力的な構造を持って私に「死ね」という。
そして、言葉にしない言葉を使って、声無き声を使って、私の存在を捻り潰そうと、目には見えない凄まじい暴力をふるう。
私は、憎しみを込めて絶望の詩を歌う。
先日は、酷かった。
私は死ぬかと思うほど、傷がついた。
私が受けた暴言や暴行について記す。
私は管理職と、対話をしたかった。
彼らは、まず私に対した友好的ではない。
鉄仮面のような面をして、私の意見は一切に受け付けないという印象。「若手だから」という魔法の祝詞を言外の沈黙に貼り付けて、私を威圧、圧砕する。
私は、言葉を失う。
私は失語症にさせられる。
若いうちに買った、若いうちの苦労を、そのまま私に売り付けてくるような印象。
私は、完全に失望をしました。
私は、完全に見下されているということが分かったからです。
「ぺーぺー」「かけだし」「ルーキー」という概念に分化されてたまるか。
私の苦悩は全て、「若さゆえの苦悩」と「ウェルテルの苦悩」だと、笑って卑下するのだ。
私は強く、強く。
シンプルに、
死ねば良いのに。
と思った。
私は他人の分化の対象になることをやめたい。
言い換えればこれは、
死にたい
ということかもしれない。
私は、はっきり言って、今の職業に向いてはいない。しかしそれを、誰も分かってくれない。
周りにやめたいと言った時、周りに頼ることはできないということだけは分かった。
まず、私にはなりたい職業など、無い。ということだけが分かった。
私を、ここまで引っ張ってくれた人々と出会って居なければ、私は意思を強く持つこともやめていただろう。そして、死ぬ勇気も持てないまま、ただ産まされて生かされるだけの、生殖行為責任者の所有物と化していただろう。
そして、そんなのは厭だと、心の奥から溢れ出る生への渇望の声を、幸福を勝ち取りたいという欲望を押し殺し、酒やタバコなどの力を借りて微睡んで死に損ねていただろうか。
そしてその自分を目の前にした時。
私は彼を抱擁できるだろうか、
或いは、世間の人々のように、見て見ぬ振りをして、陰で笑って蔑むだろうか。
全てが与えられたが故に、全てを否定することが、いかに自己欺瞞的であるかということも分かっていて、それでも尚も、表現せずには居られない。
みんな死んでしまえ。
或いは、私が死のう。
或いはまた、私の歌を聴いてくれ。
或いは、私の絵をもっと見てほしい…