淡家朴『祖父を思う』(2019)
もう死んでしまった人のことを思い出してみるということは、大切な行いのような気がして、折に触れて、死者の声を聞くのが私の普段の心がけの一つです。何も仏壇や墓石に向かって手を合わせなくても、また線香の煙を上げなくても、それは出来ます。
風の吹く場所に立って、目を閉じて、深く息を吸ってみます。
今の私の意識があるということ、そしてさまざまな現象に立ち会ってきたことなどを思い出しながら、内へ内へと、言葉を向けていきます。
ありきたりな言葉ですが、私の心の中に、祖父は生きています。
無論、肉体を伴っていませんから、それは生者としてではありません。
死者として、彼は生きています。
祖父の賢しらは、深遠が故に淡泊なものでしたから、あまりこれといったことは記憶の端に上りませんが、私の祖父として、母の父として、或いは父の義父としても、また祖母の夫として、或いは叔母の父として、はたまた、従兄弟の祖父として、とにかくこの親族脈略上の登場者として、難しい言葉を使えば、彼はグノーシス的な存在であったなぁと思い感じます。
グノーシス主義という意味ではなく、あくまでグノーシス的な、大いなる説明者であったという意味においてです。
混沌。思惟の渦の中には、必ず共通の中心部があります。そしてそれは、点在する周縁に、それぞれの印象を与えて、共通通底させます。
そういう質量のあったこと。
少ない言葉の隙間の中には、極めて密度の濃い洞力が働いていたことでしょう。
賢しらのある人も、それが表情に秀でない人も、同じように惹かせた引力と質量は、私にとっても永遠の憧憬のように思えて止みません。
祖母が、まだ生きています。
祖父と対比して、賢しらを表情に秀でない分だけ、汲むことができる、湛えることができる範囲と、安らぎ定まった速度をもった、素敵な女性が、まだ生者として、生命体として、そう遠くない地面の上に生活しています。
そして、当然ですが、私よりも先に死にゆくでしょう。そしてそれからは、また順番に、私の父母が死にゆくのです。
相変わらず、季節は巡っています。
花の陰に隠れた霊魂は、表情のない印象を風に落として、それを拾う生者の声を待っています。
私は、こうして祖父を思い、祖母を思い。
死を思い、生を思って、それを言語化して、この世をば生きゆくことの難しさと、やわらかに平気である質感に感情を這わせ、素敵で無敵な生命を保っています。
残念ながら、私には才能がありました。
しかしそれは、生きている時だけ、心が健康にその枝葉を伸ばし、羽根に血を通わせていられる時だけの、夢幻のごとき幽けき才能です。
素敵で、無敵な私。
そして、素敵で、無敵な祖父という死者。
そして、素敵で、無敵な祖母という生者。
それ囲う我が同胞や親類への敬意を込めて、
生きていきましょう。まだまだ。