淡家朴『職場への愛想、尽きる』(2019)
久しぶりに、少し弱っていました。
それは、人と話すということにおいて、
私自身の認識のズレや意地悪、僻みに関して、
少し反省をしていたと言い換えられるかもしれません。
出回っている常套句や、自明の道理のようなものに対して、再考してみようというのが、基本的な私の毎日の思考と煩悶です。
これらの思いによって、私は私自身を縛り、可能性を拘束しているような格好になっていることに、ふと思い至ります。
というのが、あるお酒の席で、私が日々抱えている世間に対する文句や、不文律への哲学的な鬱憤が噴出してしまい、顰蹙を買ってしまいました。
反省をしてみて、私は何一つ間違えたことは言っていないのですが、この間違えていないということが、どうやら問題なようで、つまりは、そういうことを言わないでおこうねと、大人たちが一生懸命、示し合わせているようなこと、わざわざ強奪して、敷衍して、それを横柄な態度で投げてしまったことに対して、かなり大きなスケールでの心的な沈黙と波紋を、作ってしまいました。
私にも、信義がありますから、それらを掘り起こしてみて、間違えたことをしたなぁと思ったりは、残念ながら出来ません。
ただ、やはり、人々に対して、あなたたちは何て無能なんだ、バカなんだと思い至りますし、それは同時に、私の方が実はバカで、何か頭をおかしくしたのかなぁと縮こまらせてしまう。
実は、人は誰も人の話を聞いていません。
実は、人は自分のことしか、考えられません。
私はそれを想像力の欠如とは、思えない場合もあるなぁと考えました。
結局、私自身も、他者の存在を認められないので、私自身が苦しい思いをするのだなぁと思います。
職場のことを考えると、厭な人たちばかりがいるのだなぁと思うばかり。
今の私の職場は、「心が歪んだ人間の巣窟」みたいに思えます。
闇を含んだ笑顔を湛えて、不気味に笑いあっているロスジェネ世代たちを見ていると、本当に心が荒むような気がします。
とにかく、職場のことは割り切って、これはお金を稼ぐための手段だと思って、表面的な相談
で済まして、私生活の方を充実させようと、そう決心しました。