淡家朴『他人の目が優れているという思い込み』(2019)
「人」という文字の中に、単数でも複数でもなく「他人」という意味合いを保存している言語が日本語である。
その日本語を使って関係を拵えている集団に、残念ながら私も生きている。
「人を見たら泥棒と思え」
「人を呪わば穴二つ」
日本人の、他人の目に対して極めて病的なまでに神経質な執着を、私はやめたい。
しかし、血が、それをやめさせない。
先日、ある作家の方が、Twitterで自身の作品について、アンケートという形で意見を募っていた。
ふーん。
と思った。
私も、よくアンケートを取ることがあるが、
ここで私が気にしていることは、
他人の目の方が優れているという錯覚があるということだ。
日本人のマインドには、
「盛者必衰」「一蓮托生」といったものがある、
奢り、不遜、過信、思い上がり、独善、独断、独りよがり、妄想…
とにかく、一人で気持ちよくなることを病的にまで恐れる。
ヒステリックである。
一人で夢むことが、絶対的に悪であるというような印象を保存するのだ。
したがって私も、こと私の感性に関して、その動機が極めて個人主義的なものであることを、沈黙のうちに、なじられている。
私は、戦わなければならない。
他でもない私を守るために、
この愚かしい日本人の、病的なマインドを
殺さなければならない。
他人の目は何も優れてなどいない。
寧ろ、何も見てはいない。
見る力が無いのだ。
バカだから。
私は、そういう風に思っている。
だから、戦わなければならない。
ほとんどの人は、そう思っていないから。
これは不思議なことでも何でもない。
そういうマインドの方が、日本では
簡単に生きられるのだ。
生存戦略として、同化する人々たちは、
自己の内側に、深淵な湖があることを、
知りながら、それを見る力がないのだ。
そして、私にはそれがあった、というだけ。
何者の助言も受け付けない。
お前ごときに何も分からないだろう。
私は、戦わなければならないのだ。