承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『人間的に成長って何?』(2019)

 

 

不登校になる人がいる。

不登校気味になる人がいる。

 

 

そのまま社会に出られなくなる人がいる。

社会に一度出たものの、社会生活が長続きせず、再び社会に出られなくなる人がいる。

 

パラサイトシングルと揶揄される人がいる。

大人の引きこもりが、メディアで特集される。

 

 

さながら、社会が戦場のように思えてくる。

社会生活が、何か凄いことのように思えてくる。

 

村上陽一郎氏は、著者『安全学』の中で、このように述べている。

 

 

人間が人間として存在するためには、帰属する集団の規範や秩序を学習し、集団に同化する為の技術を身につけなければならない。(一部略)

 

 

私たちは人間である限り、たえず人間として存在していなければならないという強制を強いられている。社会的な責任が求められれば求められるほどに、その同化意識は強まっていく。

そして、それを「人間的に成長」することだと認識して、得意になることができる人もいれば、誰も私のことを認めてはくれないと顰めて、部屋の扉を固く閉ざしてしまう人もいる。

 

 

果たしてこういった、社会的、非社会的、あるいは、社交、非社交という思考コードを、私たちは、今のまま乱用し続けても良いのだろうか。

 

 

何十万人もの自殺者や、自殺志願者を、見殺しにしても良いのだろうか。

 

それは、例えば私は何とか生きられているからというだけの理由で、それはそれとして取り扱われても良いのだろうか。

 

 

社会的弱者とは何か。

それは、カルトや新興宗教がカモにしている社会的不適合者と自分で自分を自主規制している人たちのことだろうか。

 

 

 

私自身はどうだろうか。

 

私は、私の両親が、私へ施してくれた教育に関して、とくにこれといって文句も、注文もない。と、生意気が言えるほどには自由に育ててもらったのだと思う。

 

父親は、「しらけ世代」の人である。

つまりは学生紛争の盛んだった少し後に社会人となった人。社会主義にも自由主義にも振り切ることの無い、保守的な中流階級といった印象の人である。やるべきことをこなし、時間的な期間も厳格に遵守することができる、まさに社会適応者だ。

 

このように社会に極めて模範的に適応する両親を見て育った為、私もそれなりに集団に同化する仕方を学ぶことができた。

 

 

だからといって、私がこれから、社会にその存在を認めさせ続けられるかどうかなど、私自身にも分からない。

 

ある日、突然、脳の異常で倒れるかもしれない。そして二度と、社会に出られなくなるかもしれない。

 

そういう時、私は、人間的にどうなるのだろうか。

 

「人間的に死んでしまった」と、誰かに後ろ指を指されるのだろうか。

 

 

だから、人間的に成長って、何?