淡家朴『勉強をしたくない人たち』(2019)
僕は勉強をしたくないんです。
と、言い切ってしまうと、バカっぽいので。
そういう人たちは、往々にして「勉強する意味」などという幻想を追い始める。
勉強をする意味とは何か。
「歴史」を勉強する意味は何か?
そもそも、歴史とは何か。歴史とは歴史家の認識フィルターを通して書かれた他人の経験だ。
では自分の人生を棚に上げてまで、他人の人生を知ることの意味は、何か?
「英語」を勉強する意味は何か?
世界が統一に向かっており、企業の会議は全て英語で行われている。いずれ誰もが、英語を話さなければ生活が立ち行かなくなる日が訪れる。
本当だろうか?
では、何のために翻訳家があるのか。
「古文」を勉強する意味は何か?
日本の古文、中国の古文。今、私たちが使っている現代日本語について知る。別に知らなくたって、現代日本語が使えなくなるという訳ではない。よって、いとも容易く、その意味が霧消する…
「数学」を勉強する意味は?
日常生活では、せいぜい四則演算くらいしか使わない。しかも、それも今では表計算ソフトが代わってやってくれる。ビルゲイツのような人間は、そう何人も要らないし、SEなどの仕事は、とっくにモジュール化され、取り替え可能な労力になっている。
このように勉強する意味について、或いは意義についても、消極的に考えていくと、いくらでも勉強する意味の無さ、その虚しさを発見することができる。
寧ろ、勉強する意味の無さを知るために勉強があるみたいだ。
勉強とは、何か。
勉めて、強める。と書く。
現象としては、何をすることなのか?
それは、椅子に座って、難しい顔をつくることだろうか?
それならば、うんこをきばっている様子と、あまり変わらない。
確かに、頭の悪い人の勉強ぶりというのは、まるでうんこをきばるような顔をして、姿勢が良かったりする。
逆に、頭の良い人は、頬杖でもついて、眠たげにパラパラと本をめくってるだけということの方が多い気がする。
なんという残酷なエコノミーか。
私も、後者に座りたかった…
ルネ・デカルトという、今日までの数学の概念を作った偉大な哲学者は、勉強について、知識を体系化すること、総合すること、分析すること、吟味することなどと原則を決めて、人々を啓蒙したというが、これらはもう殆ど、人工知能ができることではないか、とも思う。
対象を記憶して、蓄積し、それを体系化し、折に触れて、その記憶を取り出して、出力できるという状態に、脳を保存すること。
電源さえ入れば、いくらでもコンピューターがやってくれる。
では、もう少し人工知能との差異から、勉強の意味、意義について考えてみよう。
人工知能と違って、私たちは身体を持って動いている。
動いている上で。他の身体に接近し、その間で違和感や差異などを発見することができる。
そして、それらを「問題」として解釈し、それを考えることができる。
つまり、人間という存在における諸問題を創ることができるのは、私たち人間だけである。
もう、お分りいただけたであろうか。
私たちが、人間として身体を伴っている限りにおいて立ち会うことになる、差異や記号を、問題として認識して、それについて考えてみるというのが、人間の存在そのものであり。
問題を創り、それを考えることが、全て、勉強というふうに呼んで差し障りはない。
勉強をしたくない人たち。
いたずらに、うんこをきばっているわけにはいかない人たち。
そのおしりをふいたらば、
その重い腰を上げなければならないだろう。