淡家朴『教育』(2019)
そういう言葉に対面して、ほぼ何も思わなくなってから、一体どのくらいでしょうか。
どうか、と言われても、ええそのようですねと答えることしかできません。
教育論、こういう教育をすれば、こういう人間が育ちますということが、色々書いてあっても、仕方がない。
現場では、誰もがリアルな不文律に晒されていて、沈黙と奇妙な安定感によってわだかまっている。
不文律とは、別に私自身が生徒だった頃から変わらないのか。「怖い先生、厳しい先生の時は静かにするけれども、優しい先生、怒れ(ら)ない先生の時は、くっちゃべりの眠りこけるの内職をといった形で」そういった平和なマインドセットで、基本的には教師も生徒も、ちゃんと動いているのか。
あまり波風を立てたり問題にしないようにする為に、あまり怒らない。しかし、あまり怒らないでは、生徒に軽んじられてしまって面白くない。そういう二重桎梏の煩わしさの間で、色々と工夫をして、教師は生きているのだろうか。
今、日本では、TwitterなどのSNSの所為で、教師や生徒の間でのネガティブな風景が、「見える化」していっている。これは、韓国やアメリカでは、よくありがちな話ではあるから、日本も、ようやくそこまで到達したと言い換えられるかもしれない。
教師を罵倒する生徒、生徒を暴行する教師。或いは教師を暴行する生徒。そういった、目を覆いたくなるような映像が、いつだって手元の画面の中にスワイプで飛び込んでくるのだ。
ぶっちゃけ、そのような映像を目にすると、妙にドキドキする。正義感の強い人が見れば、阿鼻叫喚、世も末だ、などと、ちゃんとした感想を用意するのかもしれないが、私の目には、それはかなりセンセーショナルなものとして映るのだ。
バトルロワイヤルの冒頭みたいだ。
さて、ここで、私は整理したいと思う。
学校って何?
行かなきゃダメ?
という根本に立ち返る。
学校の存在意義は何か。
学校は、箱に人が集まっている場所だ。
無人島は学校ではないし、囚人の独房は学校ではない。あるいは閉鎖病棟の隔離部屋は学校ではないだろう。
人が居て、それらが「教師」「生徒」という衣装を着て、そこに立ったり座ったりしているのが、学校である。
では、人が集まれば、何が起こるか。
社会を形成する。
人が居て、もう一人の他人が居れば、そこには社会が生えてくる。
社会は物質では無いし、血が滾ってかたくなるような海綿体でもない。
しかし、確かな性質を持って、あり始める。
それが社会なるものだ。
社会を形成するということは、
つまり、社会を形成するということである。
その社会の中で、人は生活するのである。
では、次に、私が親になったとして、学校に求めるものを考えてみよう。
まず、第一に、死んで欲しくは無いだろう。
居眠りをするたびに頭上から槍が降り注ぎますというシステムを導入している学校があったとすると、誰も入りたくないだろう。
これは流石に冗談だが。
毎年のように部活動で命を落として居ますというような学校がもし、あったとすれば、つまりは、生徒の安全を約束しない学校があったらば、そこに通わせたいと私は思わない。
次に、自分の子供がイジメ被害に遭ったとしたら、厭であろ。
イジメの精神的なダメージは、相当なものだ。
大人の引きこもりなどのデータに基づくと、引きこもる人々の多くが、もともとイジメによって登校が困難になった人々たちであることからも、人間不信、神経過敏、マインドブロック…と、生活に支障を来すレベルの精神汚染を被るだろうということが自明になる。イジメられる側は、精神を歪ませること必定だ。
イジメの立ち上がり方は、厳密には分からない。ただ、イジメられる側の何らかのヴァルネラビリティが遠因となることは確かだろうが、いずれにせよ、不条理であることには変わりはなく、それは、災いのような現象であることは確かである。
私たちが、他者をどのように認識して、どのようにコミュニケーションをとり、社会を形成しているのかということは、実は誰にも分からない。私たちの認識の感覚は極めて脆弱なものなのだということは、昨今の精神医学の分野、こと統合失調症の病理の研究において、少しずつ分かり始めている段階であろうか。そして、その今までの常識は、すごい速さで覆されていく。最近では、再びAIのブームが起こり、いよいよ、人工知能のフレーム問題にまでを覆さんとし、人工知能に心、つまりは意識を持たせるというところまで来ている。
そんな中で、実は誰もが、人間について右も左も分からないままで、それとはなく世渡りをする間に合わせを、その都度覚えていくというようなことに、懇切熱心になっていたのだ、ということが、地球規模で、全人類の無意識の規模で、メタ認知され始めた段階にあるのではないか、と私は思っている。
少子化。
半出生主義者(ネットのみ)たち。
AI。
今、誰もがゆっくりと、日本を辞めようと思っているのではないだろうか。
そしてそれを、もう左派とは言えないだろう。
かつて、日本を謳い、韓国を敵視した老人は、静かに首を垂れ、考えることをやめ、酒でも煽っているに違いない。
私は、一人の若者として、もう韓国には負けているなぁと思うし(実際に、さまざまなデータを見た上で、とりわけビックマック指数などの労働環境において)、今の日本を誇りに思うということは困った相談だなぁと思うし。
その上で、教育について、どうぞ語ってくださいと言われたら。
みんな、なるべく死なないでね、そして、イジメは、受けた方の精神ダメージは、わりと一生を左右するくらいデカイから、やめとこうや。
くらいである。
くらいであるが、これは、真剣に言っている。
匙を投げる感じで振る舞えば、良いような気になっている老いぼれども、気楽でいいよなぁと思う。
だって、お前らは、あと2,30年もすれば死ねるのだから。
僕らは、まだ死ねない。
僕は20代だ、まだ、この国でしばらくは生きないといけない。
だから、それくらいの、これまでは非常識であったようなことを、
真剣に考えて、言っている。
僕は、自分のことを非常識だとは思わない。
その上で、「日本死ね」って、
真剣に、思っている。