淡家朴『子育てという無駄な努力』(2019)
子育てとは、全て無駄な努力である。
何故ならば、セックスをして子供を作りさえしなければ、その努力はしなくてよかったことであるからだ。
言うなれば、セックスのオプションである。
しかし、こう言い捨ててしまうと、あまりに救いがない。
何故ならば、子供を孕むことや産むこと、そしてそれを育てることは、かなりの労苦が伴うからである。
自分の手に負えない程の労苦を、あるいは絶望を人がその手に受けてしまった時、人はそれでも生きていかなければならないという倫理、或いは死ぬのは怖いから遠慮したいという恐怖から、必ず、ある一つの心性を獲得する。
それは、
何らかの神性に依存するのである。
ある人は言う、「我が子は可愛い」「我が子の為にならば死ねる」「我が子は大切だ」
しかも、目一杯に、これは真実だと言わんばかりの絶対的な自信を浮かべて話すのである。
大袈裟である。
さも神からの賜物のような言い口で、反論者がれば、即刻噛み付こう、或いは同意者を募って、何としてでも、この非国民を殺してやろうという目をしながら、狂信者のごとく熱弁をふるうのである。
全ては、自分の性行為の発露であるということを隠蔽した上で、である。
何故、このような心性に行き着くのか、私は疑問だった。そして最近、ようやく思った。
「こんなに努力したのだから、子供たちから感謝されたい、世話されたい、或いは関わって欲しい、この寂しさを満たして欲しい」
そういう思いが蟠っている。
私はこんなにも労苦をかけたのだから、それを労われても、感謝されても当然だという風に思い込むことでしか、救われないのかもしれない。
私も、父親になる。
こんな私が、父親になる。
いや、こういう私だからこそ、あえて、父親になってみたかったという野心があったのだ。
私は、子供に対して関心があるが、子供は別に私に対して関心が無くても、別に構わない。
何故ならば、子供という現象は全て、親の所為であり、そして子育てとは、各人の人生においては全て、不完全相関性を鑑みれば「無駄な労苦」といえるからである。
別にしなくても良かったこと、しかし、暗黙のうちに責め任されて、やらざるを得なかったこと。
最もそこに、どういうストーリーを与えるかは、また各人の自由であろうが。
自分のストーリーだけが、真実だという顔をした親が、日本にはあまりにも多いなぁと実感したので、別にそんなことは無い、思い上がるなと、こうして筆を取りました。
追記、この記事は、私が18歳のころに書いたメモ書きを加筆修正したものです。