承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『思いやりというオナニー』(2019)

 

 

人は、性が下手である。

 

 

人の人を好きになり方が、顔や、血、目の色や、皮膚の色、障害の有無、思考、解釈の違い、身長、脚の長さ、胸の大きさ、脂肪の量…

 

 

とにかく、そういった、差異を経由することが、性の下手な何よりの証拠であろう。

 

 

性が下手とは何か。

それは何も、性欲の充足のさせ方が下手であるといっている訳である。そういうことである。

 

 

 

女性の卵子の数は、出生時、つまりは0歳の時点で、最も多いといわれている。

つまり、まだ、赤ちゃんと呼ばれている人の卵巣の中こそが、最も栄えているのである。

 

とはいえ、それらは卵子の雛型であって、受精することは出来ないが。

 

 

 

人は、生まれた時から、生殖なるものに常に、その身と関わらせて生きている。赤ちゃんが哺乳瓶の口や、母親の乳首を吸う行為、つまり吸啜反射とは、性的欲求の発露であるともいわれており、その後も成長の過程で、排泄をしたりできるようになるのも、この性的欲求によるものとされる。(排泄を性欲の発露と見做す性的倒錯などもある)

 

 

 

性的欲求は、人それぞれに、その多寡があると私たちは刷り込まれて生きているが、実は、欲求は本能的なものであって、そこに大差は無い。ただ、その性欲の分散の仕方や、表面上に現れた凡ゆる修辞のみをみて、我々は性欲の多寡を判断するという思い込みの中に生きているだけである。

 

 

そして、実際。性欲は様々な形で、時に捻じ曲がり、折れ曲がり、挫かれ、擦れ、圧迫された形で、時に緩やかに、或いは激しく、また或いは、壮絶な暴力的な機構を伴って、心拍数を上げながら、噴出させたりする。

 

 

 

私は、今、ありとあらゆる場面で、そういう性欲の分散に対して、困っている。

 

 

例えば、他者から私に向けられる「思いやり」もその一つである。

 

 

ここで、はっきりと断ってしまえば、相手に対して良かれと思って動く、この思いやりの精神とは、つまるところオナニー趣味と、全く同じ機構がある。

 

 

他者を思いやるといえば、聞こえは良い。何か、相手のことを考えて、相手がその行為を受けて何らかのプラスになるようなことをする、そういう仕方ならば、人として好ましい行為なのではないかという気にさせる。

 

 

大間違いである。

 

 

相手を思いやる。といったが、思っているのは誰か?それは他でもない私自身である。

それらは全て私の主観であり、相手の思惟を縫い上げているのは、私自身である。

 

 

難しい時代になった、と、嘆く人もあるのかもしれない。しかし、難しくなったのではなく、これまで罷り通って来た、暴力的な自己中心性。それは人前で、公然と自慰行為に励むような、そういうハラスメンタリーな野蛮性から、脱却していっているだけなのであろう。そういう基盤が、今の時代に出来つつあるということだ。

 

 

「良かれと思って」という言葉が、如何に暴力的で、自己中心的で悲惨な心性かということを、想像し、考えられる人間以外の人間たちが、今日も誰かに対して、その悲しい精子をぶっかけていることであろう。