淡家朴『浮気とは何か』(2019)
浮気とは何か。
まず、手元の検索エンジンを使ってみる。goo国語辞書によると、
1 一つのことに集中できず心が変わりやすいこと。また、そのさま。移り気。
2 (性愛の対象として)特定の人に心をひかれやすいこと。また、そのさま。多情。
3 配偶者・婚約者などがありながら、別の人と情を通じ、関係をもつこと。
4 心が浮ついて、思慮に欠けること。また、そのさま。
5 浮かれて陽気になるさま。また、そうなりやすい気質。
我々が、普段の生活の中、猥雑なワイドショーや猥褻な世間話の中で耳にする「浮気」は、2,3の意味であろうか。「性愛の対象として」「情を通じ」「関係をもつ」という極めて曖昧な書き方が軒を連ねている。つまり、我々の解釈に委ねられているということか。
では、「性愛」とは何か、ピクシブ百科事典によると、
特定の異性(または同性)に対し、精神的にも肉体的にも一体感を得たいと感じる気持ち。
いわゆる「プラトニックラブ」などの精神的な愛ではなく、性的な欲求を伴う愛のこと。
つまり、既に特定の人間と、性的な欲求を伴う愛情をもって関係を結んだ上で、他の異性或いは同性に対して、多重に性愛関係をもつということを、浮気と呼んで、我々は非難の対象にしている。では、動物界ではこのような現象は無いのだろうか。
動物行動学において、興味深い実験がある。それがクーリッジ効果である。
生物学と心理学でいうクーリッジ効果(クーリッジこうか、英: Coolidge effect)は、哺乳類のオス(限定的だがメスの場合も)が、新しい受容可能な性的パートナーと出会うと性的欲求を回復させる現象を指し、これは既に馴染みの性的パートナーとの性交渉が絶えた後にも起こる。
これはラットの実験においてであるが、いわゆる性行為のマンネリズムと、その解決としてのクーリッジ効果。こういった現象のモデルが、動物行動の生殖の分野においては、ある。
つまり、動物行動学的に、「浮気」はある。
したがって、それを制するということは、他ならぬ一つの人間的な節制、倹約に過ぎないのである。
私は、敬虔なプロテスタントではないし、禁欲主義者でもない。また、煩悩の一切を捨てて生きている熱心な仏教徒でもない。
したがって、「浮気」は、あるかもしれない。
しかしながら、私はまず基本的に、他者との関係において、性欲の発露の結果を想定した上で、そこに関心を持つという習慣がない。
また、性風俗に対しても関心がない。というか寧ろ、そういったサービスに対して、極めて懐疑的で、嫌悪すら抱いている。
まず、ソープランドに対する私の関心。ソープランドは、俗に「お風呂屋さん」とも言われたり、より文語的な正式な文章では「特殊浴場」などと称されることもあるインフラストラクチャーであり、主に女性店員による入浴介助、介護を建前にして、内実は性的なサービスの交通を行う場である。まず、私は面識の無い人に対して、裸体を見られるということが極めて「厭」なので、これは極めて嫌悪感がある。そして基本的には、面識の無い人と、会話すること、コミュニケーションを取ることがニガテである私が、性欲の発露として、そのようなインフラを利用することは考えられない。
性風俗の利用を嬉々として語る同年代や周縁者の話を聞いて、私は理解に困ってしまう。
続いて、私もかなり利用している方であるSNSからの派生的な性愛行動、所謂「オフパコ」の可能性を考えてみる。
オフパコとは、SNS上で匿名で出会った男女が、オフ会として食事や交通をし、或いは肉体関係を結ぶことであるが、この可能性はどうだろうか。
「匿名で、顔も分からないという状況ですが、会いましょう。」
このような料簡が、私の今までの精神経験をもってして、起こることがどういうことかすら想像することが出来ない程である。極めて不安定な精神状態で、それでも「誰かから認められたい」という欲求が勝つことがあるだろうか。私は、極めて懐疑的にならざるを得ない。
私は、私自身の行動のモチベーションを他者に預けない習慣を持っているから。
拘束や禁欲は、必ず不健康な関係を結ぶことは、歴史的に明らかである。こういうクリティカルな勘案に積極的に、むしろ取り組むべきかもしれないが。